見出し画像

ヰ世界情緒展: 熾火は燃えているか

「ヰ世界情緒」はキャラクターとしての名前というより、彼女が作ろうとする世界観やそのプロジェクトに対して授けられた名前だと思うことがある。人名らしからぬ言葉の響きも理由の一つだが、彼女は「ヰ世界情緒」をしばしば「私」ではなく、他のクリエイターと共創していく作品『ヰ世界情緒』として語っているように聞こえるからだ。

過去のnoteで何度かKAMITSUBAKI STUDIOのような高度に分業化された形態ではバーチャルシンガーは「企画やクリエイターからエンチャント(創作)される"外側"」「演者自身から生み出される"内側"」の二面性がありV.W.Pメンバーはその二面性に向き合っている、という話をした。その視点で見たときヰ世界情緒だけが持っている特異な気質がある。それが演者でありながら「外側」を創り出そうとする意識を持っている点だ。

彼女の創作したいと思っている対象はファンが想像しているよりもずっと広範囲かもしれないが、実現して表舞台に出てくるのはその一部である。それは様々な現実的な制約、つまり中長期的な戦略だとか、費やすことのできる時間などのリソース、その時点における彼女の技能などの諸事情によって制限されているのだろう。

とはいえそれも当然のことで、そもそも商業的にはクリエイターやアーティストというのは色々なことが出来るよりも一つの分野で第一流となるほうが遥かに好ましい。世の中にある完成度の高い作品は万能な一人ではなく各分野のスペシャリストたちが力を合わせることで生み出されている。


では、どうして多分野で創作に挑戦するのか? 商業的な話をすれば、現代は人間としての作家と作品が密接な関係を持って評価されるため表舞台に立つクリエイターは多分野で活動する非効率性を帳消しに出来る……といった観点もあるだろうが、これにはあまり言及したくないので深掘りは避ける。

彼女が「多彩な才能」を持っているからか? この言葉は彼女に対する評価で必ずといっていいほど耳にする。それ自体を否定するわけじゃないが、一方で少し上滑りした表現だと感じることもある。いや、彼女を支える人々がこの言葉を使うのは当然なのだが、それは「なぜヰ世界情緒の活動を支えるか」という理由にはなっても「なぜヰ世界情緒自身がそうするか」の理由にはならない。

もっと単純で根源的な理由、彼女自身が「やりたいから」だろう。それは「非効率」だの「商業的」だのといった賢げな言葉を押し退ける最大の理由となる。クリエイターとしてのヰ世界情緒に対する評価に上滑りを感じるのは「彼女自身が持つ表現や創作をしたいという強い気持ち」が才能だのポテンシャルだのといった話に埋没するように思えたからだ。さまざまな分野に対する興味と意欲がまず先立ち、才能はその背後に立っている。

ヰ世界情緒に「創りたい」という熱意があり、彼女を支える周囲も出来るだけ良い形で実現させたいと思っている、且つまたファンもそれを楽しみにしている。思うに重要なのはそこで、そこだけだ。歌声の魅力だけでなく、彼女のそうした創作への想いに自分は惹かれ続けている。


ヰ世界情緒による直接的な、他のクリエイターを介さない創作といえばもちろん今回の展示でもフィーチャーされた『ヰ世界創世記』だが、このシリーズは2021年以降に目立った進展がなかった。MVのキービジュアル作画や声優への挑戦などクリエイターとしての活動は続けられつつも、「ヰ世界情緒」を創るという試みについては長らく印象が薄い。

もちろん、たびたび本人から語られている通り再開に向けて打ち合わせや構想は進んでいるのだろう。また、優先順位の関係で注力すべき領域が前後したり、あるいは初期構想からピボットすることも当然ある。阿らず誠実に言ってしまえば「やりたい」「やっている」「やり遂げた」という三段階の間にはうんざりするような崖があり、「やろうとしている」という話が将来的な実現を意味するわけではない。


そうした訳で、ワンマンライブ『Anima』やV.W.Pライブ『現象』を経てシンガーとして躍進を重ねる姿にファンとして心を震わせて来た一方で、『ヰ世界創世記』に代表されるような「世界を創ろう」とする燃えるような野心はどこか影を潜めつつあるように思えた時期がある。

六分の期待、三分の不安、一分の諦観。物語の始まりで燃えていた炎は現実の制約の下で弱まりつつあるのか、それとも静かに熾火として燃え続けているのか。

そんな中で発表されたイベントが『ヰ世界情緒展』だ。そう、ヰ世界情緒展! ヰ世界情緒のファンならば、実際に発表されるよりも遥かずっと前から幻視しそれを待ち焦がれていただろう。

今回の展示で自分が受けた印象を表現するなら「サンドボックス(砂場)」であり「夢の断片」であり、「今までの集大成」だ。


「サンドボックス」というのはこの展示の構成自体に対する印象であり、有体に言えばかなり自由にやってみたいことをやっている、ということである。実験的で、少し無秩序で、なにか同人的な匂いもする、それらが統合された空気感にはなぜか「確かにヰ世界情緒らしいな」と納得してしまう。小規模な会場には不釣り合いなほど詰め込まれた展示物たちが、ひっくり返されたオモチャ箱のような印象を与える。

手作りのゴミダスぬいぐるみ、初めて披露されたオリジナル世界観の作品、油彩で描かれた作品、ヰ世界創世記の新作、作詞に挑戦した新曲『かたちなきもの』の会場限定試聴。さまざまな「やってみたかったこと」がギュウギュウに目白押しだ。マルチメディア的である、という点でいえばいわゆるギャラリー的な展示というよりは博物館のそれに近いが、小規模でどこか素朴で、部分的には「ブース」という表現が近いような、それがかえって実際には在廊することのできない彼女の影を感じさせている。


こうした機会にヰ世界情緒自身の作品を見ていて思うのだが、彼女の絵とそれを裏付ける物語は茫洋としていて捉えどころがないことが多い。物語の全体像や細かな設定は彼女の頭の中に封じられており、絵を通じてそれを垣間見ると夢から醒めて内容を思い出そうとする時の、あの奇妙な感覚に襲われる。知らない小説をところどころ破り取られたページだけ読んでいるようだ。部分的には理解できるが、部分的にしか理解できない。

あまり真剣に物語としての解釈を試みると知らぬうちに眉間へ皺が寄りバロウズの『裸のランチ』を読もうとした時のような顔になる。おそらく省略あるいは隠されている行間がもう少し埋まれば幻想性や不条理さがあっても『不思議の国のアリス』くらいには理解が容易くなるのだが。

物語の解釈は見識ある人間と更なる展開に任せるとして、別の意味でもこの展示は夢の断片である。つまり、これからの新しい可能性が示唆されている。最近になって顕著に見られるようになった方向性として、『ヰ世界情緒』というキャンバス以外にも彼女の創作が広がってきた。

具体的にはゴミダスに代表されるような『ヰ世界情緒』に直接の関係がないオリジナル世界観の提示だ。より正確に言えば「広がった」のではなく彼女自身の中で元々生み出されていたものがヰ世界情緒の名前の下で公開されるようになった、というべきだろうか。

冒頭で書いた通り自身のアバターをキャンバスや絵筆として見ているところにヰ世界情緒の特異性がある、と自分は考えていた。がしかし、最近のオリジナル世界観の作品群を見ると、その捉え方が彼女の創作を狭めるものだったことにも気づく。自己言及的な創作に縛られるというのは考えてみればかなり不自由なものだ。

少し話が逸れてしまうが、知っての通りゴミダスたちの紹介は情緒展に先立ってメンバーシップチャンネルである『ヰ世界電子通信部』の配信で行われた。自分はメンバーシップになりつつも未だコメント一つ出来ていないが、聴いている中で配信が始まって良かったなと思うことが一つある。それは彼女が自分の考えたキャラクターや世界観について、本当に楽しそうに、嬉しそうに話してくれることだ。

笑いながら口早に話されるそれを聴いているだけで、何かを創るというのが本当に楽しいものなんだと心の底から思えてくる。自分がヰ世界情緒から歌以外に受け取っている第一のものはそうした熱の伝播かもしれない。創作的には沈黙していた時期にも密かに燃え続けた彼女の熾火はまた炎を上げて、作品や彼女の姿を見る人々を暖め、あるいは燃え広がっていくだろう。


壁を埋め尽くすように居並ぶ大小の絵。そうした活動の集大成を見渡していると、ここで書いてきたような『ヰ世界情緒』の今までとこれからについて取り留めのない、夢想や回顧、あるいは勝手な杞憂が頭の中に浮かんでは消えていく。

ぼんやりしていてすぐ近くまで来ていた来館者に気付かず肩が触れてしまい、軽く頭を下げて後ろに下がったとき、他の来館者たちの姿をふと眺めた。作品やヰ世界情緒について囁き合い、熱心にグッズを手に取ったり、食い入るように作品を観ている。その姿がどこか配信で楽しそうに語るヰ世界情緒のそれと重なって見え、一方で余計なことを考えすぎていた自分が気恥ずかしくなった。

『ヰ世界情緒』という活動の集大成は会場の中だけではなく、その外側にも置かれている。言うまでもなく出入り口に置かれた、あのノートのことだ。来館したヰ世界情緒のファンが思い思いに綴った言葉や絵で埋め尽くされたノート。最初のページにヰ世界情緒が筆を入れ、空白だった部分が少しずつ埋まっていくこのノートはある意味で『ヰ世界情緒展』を象徴するような展示物だといえるだろう。

手に取って1ページずつ眺めるうちに現れた空白のページ、それを前に逡巡したのち自分はペンを手放してしまった。そこに書き加えられるような、衒いのない真っ直ぐな言葉も絵も、自分は持っていないように思われたからだ。しかし後にして思えば、自分の心配はどれもこれも、全てつまらない杞憂でしかなかった。