V.W.P系譜曲: 虚構へ正対する

例え話は
魔女だとか
言霊だとか
祭壇だとか
電脳だとか
よくわからないものなのさ

V.W.P/カンザキイオリ『共鳴』

ついに系譜曲(魔女シリーズ)第5曲目『共鳴』オリジナルMVが公開された。系譜曲の中では珍しく「楽しさ」「可愛さ」に振られたこの曲はMVでも5人の笑顔が眩しい。名曲揃いの系譜曲の中でもこの曲が好き、と挙げる人は多いだろう。

今年4月に行われたV.W.P 1st one live『魔女集会』の終盤で、また『現象』のV.W.Pパートの最初でこの曲に胸を打たれたことはまだ記憶に新しい。こうして『共鳴』を耳にすることであのライブ『現象』を思い出すと、この系譜曲シリーズが、そしてV.W.Pというグループがなぜ自分にとってエモーショナルなのかふと考えてしまう。

虚構(アバター)

VRでアバターを纏ってコンテンツを生み出す文化が生まれたのをおおよそキズナアイらの登場を黎明とするなら5−6年経つが、根底である演者とアバター(キャラクター)の関係性は未だ多種多様で無数の可能性が試されている。

それでも「虚構であることは暗黙の了解であり、それについて自己言及することも忌避される」、そうでなければ「メタ的な笑いなどに昇華される」という点では概ね共通していることが多い。キャラクターの設定を遵守しようとするか、あるいはキャラクター設定と演者とのズレを面白がるか。どちらかの態度におよそ分類される。

V.W.Pで興味深いのが、そしてエモーショナルなのが「虚構である」ことへの自己言及を忌避しない、しないどころか系譜曲では中心的なテーマの一つになっている点だ。
(もちろん、例えば作家を共有するVALIS『革命バーチャルリアリティ』などがそうであるように、このテーマに類例がないわけではないし、系譜曲は他にも「音楽は魔法」などいくつかのテーマを持つがここでは掘り下げない)

系譜曲の多くで繰り返し歌われる「偽物・フィクション」 という単語は、この「虚構である自分たち」というテーマを象徴している。一般的にはネガティブとされるこの言葉で自分達を表現した上で、系譜曲は「けれど、それでも、今ここにある魂は、感情は、思いは本物なんだ。観測される限り確かに存在するんだ」と止揚する。

バーチャルな存在の背後を亡霊の如く付き纏う「虚構に過ぎない」という問い掛けに正対する態度に、言いようのないエモさがある。

虚構性に正対する態度は系譜曲やV.W.Pというグループだけにあるものではなく、属する各メンバーにも共通して体現されている。ライブでも「アバター(バーチャル)としての自分と、内側にいる人間としての自分」に対する感情やそこに生まれた相互作用がしばしばメンバーによって語られ、花譜の『裏表ガール』、あるいは春猿火の『テラ』に代表されるように作品の明示的な題材となることもある。

言葉は思いを運ぶための舟であり、発する側に思いがなければ言葉は空荷の舟に過ぎない。虚構性に向き合う姿勢は単に系譜曲の1コンセプトというだけでなく、各メンバーが抱いている感情であり実在するものであって、だからこそ心が動かされる。

儚さ

もしも「自分が今年もっと多く再生した曲」というランキングを作った場合はトップ陣がV.W.Pメンバーで独占されてしまうだろう。

そんな具合であるから、手元のCDやBDが数十年後に劣化して再生できなくなってしまうことについてすら真剣に懸念することがある。現代文明が崩壊した後にも後世の人類がV.W.Pの曲を聴けるように、感光フィルムにデータを記録して北極圏の永久凍土地下に保管するプロジェクトを始めなくては、と思うこともある。

しかし、残念ながら例えそうしたとしても系譜曲を、この自問自答を本当の意味で理解し共感できるのは今まさに彼女らを観測するファンだけだ。「バーチャルとは何か」という問い掛けの意味を実感するには今この同時代を生きていなければならない。バーチャルがより一般化する数十年後の世界はこの問い掛け自体に首を傾げるだろう。

この黎明の時代に"バーチャル"は様々な在り方が模索され続けている。KAMITSUBAKI STUDIOにとってさえ、V.W.Pの在り方が唯一のアプローチではないように。企業のレベルでも個人のレベルでも、アイディアと可能性が次々に試され消え去っていく。それまでに存在しなかった文化が咲き始めるこの過渡期だからこそ成り立つ感性もある。系譜曲がその一つだ。

たった10年早く聴いても、10年遅れて聴いても、この曲が作られた意味を理屈を超えて理解することは難しい。今この時だけが系譜曲を聴く最高のタイミングだ。系譜曲はそうした時代性の中に成立している。

また、一般によく知られている通り、まだこれらの界隈は不安定で、順調に成長し続けるグループであってもわずか数年後にどうなっているかは誰にもわからない。泡沫のように消えているかもしれないし、そうでなくとも想像以上に変化していることは間違いない。いま自分の中にある熱も、あるいは失われているかもしれない。

自分が系譜曲を聴くときには、何故だか降っていく雪のような儚さや寂しさを感じることがある。系譜曲が持つ時代性を想起するためなのか、界隈の不安定さを連想するからか。あるいは「観測による存在証明」というコンセプトに由来するのか、はっきりとはわからない。

しかし、この出処のわからない「儚さ」、そして前述した「虚構への正対」という二つが自分にとって系譜曲がエモーショナルである理由なんだろう。