見出し画像

Anima Ⅱ : 余白、そしてパッション

Anima IIが始まる少し前から落ち着きなく自宅のプロジェクターとスピーカーをPCに接続し直して出力調整をしていた。最後に音量調整していると待機ムービーから『ARCADIA』が流れ、ふと『Anima』のことを思い出した。

ヰ世界情緒の1stライブである『Anima』はリアルタイムで観ていない。当時はライブを観るという行為が頭の中に選択肢として存在しなかった。アーティストの活動を追うという概念もない。YouTubeでなんとなく曲を探して、気に入ったらマーキングして、作業しながらランダム再生されるままに聴く。

作品である曲は好きだが、作家である人間には興味がない。曲名は覚えるがアーティスト名は曖昧だ。作家がヘロインやって逮捕されてようがノーベル文学賞を取ろうがどうでもいい。作家、作品、受け手はそれぞれ一線を画す。

そうした価値観が大きく変わるきっかけはごく些細で、しばらく聴き続けていた花譜やヰ世界情緒のMVを眺めていた時、その中にAnima版の『とめどなき白情』が混じっていた。ヘリオトロープのヰ世界情緒がxRライブで歌うのを観た。

それだけだ。なのに、いまや自分の背後にはBDやパンフレットの山とプロジェクターが鎮座している。人生どこに芥子種があるかわからないものだ。しかしライブを観る習慣が身についた訳ではないかもしれない。未だ観ているのはヰ世界情緒、そしてV.W.Pだけで、例外で特別だからだ。

レッドブル、カフェオレ、烏龍茶、念の為にレッドブル。
冷蔵庫から飲み物をサイドテーブルに過剰なほど並べて、メモ帳とペンを握った。準備することがなくなってしまうと浮かぶのはライブに対する不安である。『Anima II』には期待と興奮に隠れて一抹の不安が存在していた。「SINKA LIVE SERIES」という側面だ。

やがてライブが終わってしまうと、考え事をしながら白紙のメモ帳をテーブルに投げ出した。メモ帳が並んだ缶を倒したが気にしない。飲み物はどれも口が開けられないままだったから。

懸念の行方

一匹の象が部屋の中を彷徨っている。「深化」という象である。

先に少し触れづらいであろうことを語っておこう。Anima IIが『SINKA LIVE SERIES』に組み込まれて開催されることが発表されファンたちは新たなライブの登場に興奮して喜んでいたが、どの顔にも全く翳りがなかったわけではない。「それはつまり、ヰ世界情緒の世界観ではなく、神椿市構想がフィーチャーされるということか?」という疑念が浮かんだからだ。

深化が掲げる未来構想、ストーリープロトタイピング、NFT、メタバース、独自エコシステム…。もちろんそれは興味深いプロダクトではあるだろうが、V.W.Pとこれらを密接に結びつけるという方針にはちょっとした課題がある。

V.W.Pのファンはその音楽やライブに惹かれて集まってきたが、必ずしも神椿市構想や深化のファンなわけでも、NFTやメタバースといったWeb3.0を面白く思う人間の集合というわけでもないという点だ。

PIEDPIPER氏がWeb3.0の展開への反発という話題でよく「メタバースやNFTが世間的に理解されていないので反発されている」や「理想が高すぎて笑われるだろう」といったことを語っているが、その二つは自分にとってはどちらも本質的な課題とは思わない。

ファンとして重要な関心事は一つ。つまり「神椿市構想の都合によってV.W.Pのメンバーがどう扱われるか」だ。これまでの神椿市関連プロジェクトはもっぱら追加の選択肢だった。それならば気になるファンは参加すればいいし、合わないと感じるファンは参加しなければ済む。

だが「神椿市構想」と「V.W.P」は徐々に区別されなくなっている。「神椿市に存在するキャラクターをV.W.Pが演じる」という枠組みは薄れ、DAOにせよRGにせよ「神椿市関連のプロジェクトに参加できる権利」という建前は機能せず実質的には「V.W.Pを筆頭とする神椿スタジオ全般コンテンツの優待」のように振る舞っている。

今回のSINKA LIVEの発表でもその軋轢は現れた。もはや粥は一つの大きな鍋で作られており、ゴルディロックスは好きな皿を選ぶことができない。作られた粥がちょうどいいものであることを祈るばかりだ。

しかし、この話について今すぐ結論を出したり新たな懸念を語るのはやめよう。一つの理由は、SINKA LIVEでも期待通りアーティストは尊重して扱われていたから。もう一つの理由は、この『Anima II』が目を離す時間も惜しいくらい素晴らしいライブだったからだ。

余白

第一の印象は「引き算」だ。

どこまでが演出意図なのか、そもそも印象が正しいかもわからないが、全体的として「出す要素を絞っている」と感じる。これまで欠かすことのなかったバンドメンバーの紹介さえ、おそらくは苦渋の決断として排したんだろう。

序盤のステージは全体像もかなり大きいがカメラに映される範囲ではほとんどオブジェクトがなく平坦で暗い。スポットライトをヰ世界情緒にだけ当てている場面も多い。いわば画面に余白を作っているように見える。

余白があるとどうなるか、主題を強調することができる。もしそれが意図なら主張は簡潔で、「ヰ世界情緒を見てくれ」だ。もちろん、効果的に働いている。

ライブを観た人間の多くが感動したのはヰ世界情緒が美麗かつ繊細に、表情豊かに動いていることだろう。細かいことはいい、この可憐な姿を見てくれ。これが動く、話す、歌うんだ! というわけだ。

だからこそオブジェクトが少ない場面でも寂しいとか物足りなさは感じない。絞られた描画部分がそれだけで満足できるくらいに豊かだ。どこで切り取っても絵として成立してしまう。

要素を絞ることによって主張されているものはヰ世界情緒以外にもう一つある。ステージ…という言い方はやめよう、神椿市という"世界"だ。特に移動するシーンが顕著で、ポエトリーもBGMもなく、ただ自然音だけを流しながらヰ世界情緒が歩く。長尺を使って周囲の景色を楽しむようにただ歩く。その静かな画面の裏に激しい主張がある。「自分たちが目指している"世界"はこれだよ、見てくれ」と叫んでいる。

ゆえに神椿市へ移動してからは「ヰ世界情緒がその世界に存在している実在感を出す」という部分に脳漿が絞られている。場面切り替えも暗転ではなく道を自然に歩いていく、ヰ世界情緒は初めて訪れた世界を物珍しそうに探索するよう振る舞う、そしてあたかもそうできることが当然であるかのように座ってみせるのだ。

イメージを伝える上で実際に画として見せる、というのは非常に強力な手段だ。ちょうど前のnoteで「結局のところ、作りたがっているメタバースというのがどういう構想で、何を目指しているのかが伝わって来ない」という趣旨のネガティブな感想を述べたが、SINKA LIVEはその疑念に対する雄弁な答えである。

冷静に考えると具体的な構想に関する情報は何一つ追加されていないのだが、出来の良いアートワークで殴られると何故か納得してしまう。「あぁ、なるほど」「これが作りたいのか」と。

総括すればAlter3として提示した神椿市の住民である「夜河世界」との邂逅は描かれないままで、ヰ世界情緒との両立を選んで世界の提示だけにとどめた折衷案のようなライブは見ようによれば中途半端だとも言える。

だがPIEDPIPER氏がSINKA LIVEで恐らく目指したのであろう2点は、EP1にして既に成功したことは認めなければならない。つまり「創ろうとする神椿市のイメージを観測者に共有する」こと、そして「その世界に自分も入ってみたいと思わせる」ことだ。

実現はまだ道も見えないほど遠く、神椿市構想には描かれるのを待っている余白が膨大に広がっている。それに自分はフロンティアに乗ってみる気はまだない。だが彼らが見ている夢の断片は今回のライブで確かに見えた。

パッション

ヰ世界情緒の世界に三人称はない。

彼女が歌う世界には「大人たち」も「あの子」も「あいつ」も「彼」も基本的に出て来ない。登場するのは一人称の「私」、そして二人称の「あなた」だけだ。

それ故に、彼女がMCや歌の中で口にする「自由」という言葉は少し特殊だ。例えば春猿火が自由という言葉を使うのなら、それは社会の圧力や他者からの視線や干渉を跳ね除けて打ち勝とうとする意志であり他者が想定されている。

一方でヰ世界情緒が自由という言葉を使うとき、たいていは内的なものを指す。そもそも他者だの社会だのというものを重要なものだと認識していないのかもしれない。不自由さや窮屈さは周囲や他者からではなく、自分自身や世界そのものから生まれている。新しいものを見るためなら今いる場所を捨ててもいい、もし邪魔になるなら今まで自分が描いてきたものを白に塗りつぶして上から描こう、何度でも描き直せるんだ、という自由だ。

だからこそ自由の象徴が彼女にとっては「白」であり「ヰ世界」なのである。実のところ、これは少し特異な思想で、おそらくここを掘り下げた先には「少し変わった女の子」を超えた、ヰ世界情緒が内に秘める一種の異常性がある気がするものの、言及するのはやめておこう。根拠が薄いし勝手な推測で理解したくない。

ともかく、彼女が持つ二つの通奏低音はこの一人称と二人称に代表される「創作への情熱」と「観測者への想い」であり、これが底流にあるパッション(情熱・感情)だ。

今回の『Anima II』ではMCパートが長く取られており、語られる彼女の言葉も『Anima』より深く強くより洗練されたものになっている。純粋な彼女の独創性という意味なら、むしろ少し前の『parallel canvas』のほうがよほど好きなことをやりたいように表現していたと言えるだろう。逆説的だがSINKA LIVEという枠組みで独創性を制限されたからこそ、このライブでは彼女自身のパッションという側面が強く押し出された。


例によって、こんなことを言うべきではないのだが、MCにせよインタビューにせよ、それがすべて本当のことを赤裸々に話されていると信じられるほど純朴ではない。多かれ少なかれ、お為ごかしがあり、隠されていることがあるのかもしれない。

だが、手放しに信じられる真実もある、パッションだ。作り手に情熱がなければ何も創り出せない。受け手に感動がなければ何も生まれない。ヰ世界情緒に創作への情熱があり、他のクリエイターが本気でそれを支えて、ファンがそれに感動し、ヰ世界情緒はファンの応援で支えられている。関係性の中で情熱が螺旋になって押し上げているからこそ活動が続く。これだけは疑う余地のない創作の根本原理だ。

パッションを越える

自分はヰ世界情緒のファンではない、きっと本当の意味では。

いわゆる「推す」という文化が自分からはずっと遠くにあって、直接的に感想を送ったり応援したりという行為が未だにできない。相変わらず自分にとって作家は作家であり、対話するような存在ではない。MCでファンに対して語られる言葉も自分のこととして受け取ることには躊躇いがあり、ファンレターは送れず、配信を見てもコメントできない。せいぜいこうしてnoteにひっそりと感想を書くのが限度だ。

だからこそ、関係性を築けている祝福されたファンには自分の分までヰ世界情緒に、ファンレターでもコメントでもその想いを届け続けて欲しい。本当の意味でアーティストの力になれるのはそれだけだ。何もアーティストに限った話ではなく、たとえ家族や友人でも恋人でもそうだ。

英単語のパッション(passion)には情熱の他に「受難」という意味がある。人が生きているうちには避け難い受難によって試されることもある。人生は決して良い時ばかりではない。

そうした受難の前に何気ない日々の些細な言葉は大した意味を持たないように思えるかもしれない。だが情熱や慈しみの言葉は人知れず降り積もって離れ離れになった後でも相手を守り続ける。何かに傷ついたり気力を失ったときに支えになる。

そうした贈与には巧みな表現も語彙も何もいらない。ただ思うまま口にするだけでいい。『Anima II』の最後でヰ世界情緒が"あなた"に対して語りかけた「ありがとう」「生き抜いていこう」「みんなのことが大好きです 」といった飾り気のない真っ直ぐな言葉がファンの心を打って生きていく力になったように。

"ピエタ"