重度VR中毒患者のリハビリ日記 #3

保護課のアシスタントが私の部屋にやって来たのが数十分前。いつものリハビリを兼ねた散歩かと思ったら、今日はヴィークルでの移動に挑戦するのだという。即座にヴィークルに乗せられ、今ではもう居住地域から遠く離れ、見知った風景は何一つなくなっていた。


そう言えば。
結構長い間彼女と関わっているが、私はまだ彼女の名前も知らない。かつての私と同じように、彼女にも固有名があるはずだ。もっとも私がそれを知る時は来ないだろう。保護観察という処分は、少なくとも私にとっては、そういう意味でしかない。


ヴィークルは速度を落とさず走行し、目の前にトンネルが見えてきた。すると彼女はいたずらっぽい表情を浮かべながら、こう問いかける。
「この風景を見て何か思い出すことは」と。
私はいつものように答える。
「そんなこと言われても…こんなのどこにでもあるトンネルでしょ」と。
「でも昔の文豪は言ったそうよ。ええと、トンネルを抜けたらそこは異世界だった……みたいな、そんな趣旨のことを。あなたにはその手の経験はないの」
そうだな……いつだったか私は様々な不運が重なり、この国で一番長いトンネルを歩く羽目になったことがある。あの時は2時間ぐらいトンネルの中にいたのだったか。
「へえ、それだけ長い間トンネルにいたなら出たときはさぞ爽快だったでしょう。どう、異世界に来た気がしたんじゃない」
残念ながら、トンネルの先には、トンネルに入ったときと全く変わらない暗闇があるだけだった。しかも曇り空……そうだ……私は星空を見るつもりでそこを訪れたのだった。粘り強く待った私の努力は実らず、結果として星空を見ることは出来ず、しかも最終バスに乗り遅れ、宿のある市街地までただただ無心に歩き続けたのだった。

よっぽどおかしかったのだろう、彼女は私の返答を聴いて笑いだした。そうしてひとしきり笑った後、彼女はいつもの調子に戻ってこんなことを言った。
「今回あなたはトンネルを抜けた先を見ることは出来ない、機密上の理由でね。今からあなたに薬を投与するけど、抵抗しないでね。大丈夫、ただの睡眠薬だから」
注射針が私に向ってやって来る。トンネルの先の風景がいかに代わり映えしないものなのか、彼女と語り合う機会を失ったのは、少し、ほんの少しだけ、残念な気がする。
腕にチクリとした痛みを感じるや否や、車窓から入る日光の心地よさも手伝って、私の意識は急速に混濁し始めた。

ここはもう夢の中なのだろうか……誰かの名前を呼び続けているのっぺらぼうの女性が……いや「彼女」がいる。もうすっかり顔も忘れてしまって、声もおぼろげな記憶しかないけれど、「彼女」に名前を呼んでもらった時の幸福感は今でも覚えている。たとえそれが偽名でも、名前が、管理番号以上の特別な意味を持ったのはその時が初めてだった。
あのまま、_______として生きていたら、どんな未来が待っていただろうか。
今は春、桜の下での出会いと別れが無数に繰り広げられる季節、私はそれを思い出す。

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