黒髪儀礼秘話ー第六話黒髪儀礼ー
ー1ー
美穂はその日大決心をした。
男子のみならず女子からも憧れの的となっている腰まで届かんばかりのつややかで真っ直ぐな黒髪、その自慢の髪を今日バッサリ切ることにしたのだ。
ふいに乾いたノックの音が二、三回美穂の部屋に響く。
「美穂……。支度はできたの?」
加奈子が扉を開くと、真っ先に白装束を身に纏った美穂の姿が目に飛び込んだ。
おろしたての眩しいばかりの白装束とそれを飾るかのような長い髪。そしてまだあどけなさが残るが少しずつ美を開花させている顔立ち。
加奈子が美穂の母親であるという立場を忘れ、しばし彼女の姿に見惚れてしまうほどだ。
「お母さん、これでいいのかな? 変じゃない?」
白装束姿の美穂がくるりと一回転すると、それにつられて長い黒髪も放物線を描くように扇状に広がってハラリと宙を舞う。
やるせない気持ちを抑え、加奈子は「ええ」と冷静な声で答えた。
美穂は母の後ろについて生まれて一度も見たことも入ったこともない地下室へと向かった。
押し入れの壁の一部が地下室への隠し扉となっていた。
扉を開くと冷たいそよ風が吹いてくる。美穂たちは体を二つ折りにして進んでいく。
やがて通路が立って歩けるほどの広さになると、その先には美穂の家から想像できないほどの自然に作られたような大きな広間が見えた。
広間に入ると、自然にできたとは思えないほどの規則的な石畳が敷かれ、その奥には古びた祠がポツンと寂しげに祭られていた。
美穂はおもむろにその祠の正面を見据えるかのようにして正座をする。
加奈子はそれを確認すると、桶一杯に汲んだ清められた冷水を美穂の髪に丹念にかけ始める。
――パシャ、パシャ……
美穂の髪が水気を帯びるにつれ黒真珠のようなつややかさがより一層増した。
髪全体がしっとりと濡れたのを確認すると、加奈子は丁寧に美穂の髪を梳かしはじめる。
――この子の髪を切るなんて……
美穂が髪を伸ばしはじめたのは、たしか五歳の頃だったかな。
あの頃の美穂はとにかくやんちゃで髪をこうやって梳かすのも一苦労だったっけ……。
美穂の髪に櫛を通すたびに加奈子の脳裏に幼かった頃の美穂との思い出がモノクロ映画のように蘇る。
できればこの場から逃げ出したかった。「やっぱり切るのよしましょう」と娘に言い出したかった。
しかし美穂自身の意志で決めたことなのだ。母親である加奈子が逃げ出すわけにはいかなかった。それにこの儀式は血のつながった親子でないと成立しない。
この子は生まれて初めての断髪に耐え切れないかもしれない。
涙を流して「もうやめて」と泣き叫ぶかもしれない。もしかしたらあまりのショックに気を失ってしまうかもしれない。
この子ならきっとじっと我慢することができるだろう。
それなら私も母親なら、娘の情に流されてしまうよりは心を鬼にして儀式を滞りなく終わらせてしまおう。
加奈子は両の拳を力一杯に握り締め、愛娘への甘い情を一切断ち切っていった。
ー2ー
毎朝いつもお母さんにこうやって髪をとかしてもらったっけ……
どんなに忙しい時でも体の調子が悪いときでもお母さんは毎朝かかさずに私の髪を梳かしてくれた。
美穂は自慢の髪を母の櫛に委ねながら髪を切らなければならなくなったいきさつを思い起こした。
密かに憧れていた一学年上の高原誠に告白されたのは高校二年になったばかりの春、それ以来美穂のあれほど平凡でつまらない高校生活は一変した。
期末試験の時も軽い足取りで学校へ向かったぐらいだ。
誠自身から国立大学でも難関のZ大学を受けると聞いたとき、美穂の心に「先輩のために何かできることはないか」という気持ちが芽生えはじめた。
そしてそれは無我夢中になって勉強に取り組む誠の姿を見るたびに強くなっていた。
そういえば家に代々伝わる儀式を行うと願い事が叶うという話を耳にしたことがあった。
その儀式が自分の自慢の髪を切らねばならないと知っても美穂の気持ちは変わることはなかった。
それを母親の口から聞いたとき美穂は地獄に突き落とされた気分になった。
でも……先輩のためだもん……
美穂は思わずこみあげてきそうな涙を必死にこらえて、今にもゆるぎそうな決心を再び固める。
「お母さん、切って」
感情も何もこもっていない娘の短い一言。それだけに加奈子の胸に鋭く胸の深部まで突き刺さった。
「美穂。それじゃあ始めるわよ」
「……はい。私、伊織沢美穂は一番大切な宝物、もう少しで腰まで届くこの髪を切り落とします。だから、どうか……」
美穂は一心に祠に向かい祈る。背後では母が鋏を桶にあまった残りの水に浸した後、白いタオルで丁寧に拭き取った。
果たして白銀に光る刃が美穂の肩の上にあたる。
「お母さん……もっと切っちゃって」
「美穂?」
「もっと短くしちゃって、ほら今短めのショートボブってはやってるみたいだから」
「美穂……」
「髪なんていつだって伸びるんだから」
――いつでも伸びるけれど、そこまで伸ばすのは……
加奈子は思わず口に出しかけたその言葉を心の奥にしまった。
「本当にいいのね?」
「うん」
加奈子は鋏の刃を耳の上あたりまで上げる。刃の下から優に六十センチは超える髪が流れている。
指先に力を込めれば一瞬にしてこの髪が美穂から失われてしまうのだ。再びこの長さまでになるのは何年も先になるだろう。
それでも加奈子は迷いのない表情で鋏を一気に閉じる。
――ジャキリ……
広々とした空間に鋏の音がこだまする。
切られた髪はスルリといとも簡単に床に落ちていった。
美穂はたった今自分自身に起きたことが信じられないような惚けた表情で固まった。
まるでそこで一時停止のボタンを押したビデオ画像のようだ。だが加奈子の手に握られた鋏は止まることはない。
その表情が再び動き出したのは次の鋏の音が響いた後だった。切られた髪が美穂の肩にパサリとあたると、美穂のからだがビクリと小さく動いた。
美穂の瞳は大きく見開き、口を細かく震わせていた。
髪が、私の髪が切られている!
毎朝お母さんがブラッシングしてくれた髪、誠先輩が奇麗だねって誉めてくれた髪、時には大きな手でなでてくれた髪。
その思い出が一杯つまった髪が信じられいような速さどんどん私のところからなくなっていく!
――ジャキ、ジャキ、ジャッキン……
お母さん! どうしてそんなに冷静に切っていられるの?
お母さんだって私に「長いほうが美穂らしい」って言ってくれたじゃない! あんなに大事に自分の宝みたいに髪を梳かしてくれたじゃない!
それなのにどうして?
――ジャキ、ジョキリ……
そう……これは夢なんだ。
鋏の嫌な音も、床に落ちる髪の音も、耳の上あたりがチクチクとするけれど全部夢なんだね。
なんてリアルな夢、朝起きたらまた元どおりの私だよね……。
――ジョキ……バサバサバサ……
「美穂後ろは刈り上げるわよ」
え? 刈り……上げる……どういうこと?
ふいに美穂は先ほどから気になっていた耳のあたりを触ってみる。
いつもならそこにサラサラと流れている髪がある。だが、美穂の手はしきりと空を切る。
どこいっちゃったの? 私の髪……
頭の上からゆっくりとなぞるようにして手をあててみると、ようやくいつもと変わらない髪の感触が手から伝わる。美穂はほっと胸をなで下ろす。
――スルリ、その感触はあっという間に終わった。
「?」
美穂は一気に眼が覚めたように何度も何度も手で触ってみる。
「え? え? あれ、髪?」
ふと背後から手鏡を手渡される。
鏡に映っているのは、耳の上あたりで一直線に切られた髪、そしてそれをなでる美穂の手。
「あ、ああ……」
美穂はズルズルと現実へと引きずり戻され、塞き止められたダムが放水したように美穂の目から涙が一気に流れ出した。
そのショックから立ち直れないまま、再び鋏は美穂の背後の方で動き出す。
先ほどよりも一層重い音をたてて加奈子の手に握られた鋏は美穂の項あたりでその刃を閉じる。
――ドサ、ドサ、ジャギン、ジャギン
美穂はもう夢と思うことはできなかった。やがて横一直線に切る進んでいた鋏の動きが変わった。
項あたりの髪を根元から掬い取ると、そのまま鋏の刃が閉じられた。
「――!」
切られた髪は一度背中をあってから床に落ちた。
美穂の見えないところだがその背中に当たった感触でどのぐらい切られたかが美穂自身にも十分に伝わった。
鋏は耳のあたりまで容赦なく刈り上げていく、何度も何度も。
「終わったわよ」
美穂は何度も手鏡を見つめなおす。もはや長い髪の面影はどこにも残っていない。後ろの方はサイドの位置とあわせたところで切り揃えられ、そこから項までは地膚が見えるほどにすっきりと刈り上げられている。
本当に切っちゃったんだ……
さらに美穂の止めを刺す出来事が次に起こった。
「美穂。切った髪を自分で奉納しなさい」
ドサリと美穂の両手に手渡された、こよりで固く結ばれた長くてつややかな黒髪の束。
「――ひ!!」
それはまぎれもなくたった今切ったばかりの美穂の髪だった。
美穂は恥も外聞もなく泣きじゃくり、その髪をしばらくなで続けた。
加奈子は娘の惨めな姿をただ呆然と立つくして見守ることしかできなかった。
やがて加奈子の手からスルリと鋏が零れ落ち、石畳に鋭い音が響いた。
ーエピローグー
ようやく落ち着いた美穂は涙を潤ませながらも祠に切った髪を納めた。
「美穂、大丈夫よ。美穂の気持ち十分に伝わったわ」
「ありがとうお母さん」
ようやく加奈子が「いつもの母親」にもどる。
美穂も何事もなかったように加奈子に微笑みがえした。
国立Z大学合格発表の当日、受験生達にとって神経を逆なでするような大雨となった。
雨にぬれないようビニールにつつまれた白く大きな掲示板には、乱数表のようにただ数字が行儀よく並んで書いてあるだけだった。
学生達はそれを真剣な眼差しで片手に握り締められた白い紙と必死に見比べ、そしてある者は喜び、ある者は肩を落としてその場を立ち去っていく――その繰り返しが止まることなく行われていた。
「先輩……ありました?」
誠は雨に濡れるのもかまわずその場でうな垂れる。
「まさか……あの、なかったんですか番号……」
誠は大きな赤い傘に向かってがっくりと肩を落として両手で「X」を作る。
「……先輩そそかっしいから、見間違えたんでしょう。しょうがないな、私が見てあげましょう」
美穂はゆっくりと誠の受験票を持って掲示板へ近づく。一歩一歩進む毎にまるで自分のことのように鼓動が高鳴ってゆく。
「――18027番……。なんだあるんじゃないですか」
「受かったよ」
「それじゃあさっきの『X』は?」
「美穂が『あの、なかったんですか番号……』って聞いたじゃないか」
「もう! まぎわらしいことしないでください。……心配しちゃったじゃないですか」
涙ぐんで俯く美穂に誠は小箱を渡す。
「開けてみてよ」
「え?」
美穂は誠の顔を見詰める。美穂の涙顔が不思議なものを見つめるような表情にかわっていく。
「いいから」
誠に言われた通り小箱を開けるとそこには小さく光る指輪が入っていた。
「これ……先輩?」
「美穂があんなに大事にしてた髪をバッサリと切ってくれたおかげで受かったようなもんだからさ、せめてものお礼のプレゼント。安物だけどさ……。それからもう『先輩』って呼ぶのよせよな」
照れくさそうに頭を掻く誠に美穂は勢いよく抱きついた。誠もしっかりと美穂を受け止める。
今の二人にはこの激しい大雨も祝福のファンファーレにすら聞こえた。
ー了ー
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