遙かなるマウンド
ー一ー
私は小さい頃から野球が好きだ。まだ小さい頃は近所の男の子に混じって空き地で一緒に野球に興じたものだ。
中学に入学しても私は迷わずに女子野球部に入部した。
なんとなくお遊びの延長上のように感じて物足りなさを覚えたが、お互い気心の知れた友達同士と和気藹々とやれてそれなりに楽しめた。それでも私は日に日に心の底に積もってゆくわだかまりを感じていた。
学校は高校まで一貫教育なのでそのまま女子野球部が続けられると思っていた。
しかし高校に進学すると、あれほど仲の良かった野球部員たちは大学受験やら恋人が出来たりと、一人また一人女子野球部を離れていった。そしてついには部員は私一人だけとなり女子野球部は廃部となった。
その時の私はまるで枯渇した陸地にあげられた魚のような気分だった。
このまま野球を止めてしまったらいつしか自分自身も消えてしまうのではないか――そんな言い知れぬ不安に掻きたてられた。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
「どうだ? 進んでいるか」
「ちょ、ちょっと……のぞき込まないでよ」
志賀沙織は傍らからひょいと覗き込む川原達彦の顔をあわてて制止した。
「いいじゃないか。完成したらあと俺に読ませるんだろ? 今見たって変わらなだろ」
「だからそれまで見ないでって言ってるじゃない」
「……わかったよ」
つまらなそうな顔を浮かべ達彦はぶつぶつ愚痴をつぶやきながら居間のソファにどかりと腰を落ち着かせた。
くすりと微笑を浮かべ沙織りは再び愛機のノートパソコンに向かう。
そうあの時のことは今でも鮮明に覚えている。目を閉じれば今でもその光景がはっきりと目に浮かぶどころか音までも聞こえてくる。
あのときの決断は自分でもそう何度もないだろう。
沙織は手を止め、目をゆっくりと閉じた。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
――男子野球部に入ろう――あの日私はそう決意をした。
男子野球部に入るということは、腰まで届く自慢の髪を切らなければならない。それも丸刈りだ。
何度も鏡を見つめ、髪を手繰り寄せ髪を短くした自分を想像してみる。だがいくら髪を隠しても髪は見えてしまう。野球部員の坊主頭を自分の姿に重ねようと思ってもあまりピンくるものはなかった。
髪はいつでも伸ばすことができる。でも野球を続けられるかどうかの選択は今しかないように思える。それなら髪を切るほうを選ぶ!
……でも……でも……
なんだか悲しくなった。声を出して「嫌だ」と叫びながらどこかへ逃げ出したくなった。
逃げたらだめよ! 沙織! もう決めたんじゃない。
翌日の放課後私は入部届を監督の石原先生に渡した。
「今度の日曜夕方5時に入部式を行う。それに来たらお前を正式に入部させる。もしこなかったらうちの部の入部は一切認めん。いいな」
「はい」
私は硬い表情で頷くと石原先生は厳しい監督からいつもの「先生」の顔に戻った。
その夜私は髪を洗うことにした。たぶんこの先こんなに髪を長く伸ばすことはない――そう思ったからだ。
ふいに両目から溢れ出してくる涙を私は熱いシャワーで洗い流した。
日曜日の夕方私は野球部の部室へと向かった。家から学校までは徒歩で30分程度かかるが、そのときだけは学校に着くのがやけに早く感じた。だが一歩一歩の足取りはまるで鉛の靴でも履いたかのように重々しい。
部室に入ると、石原先生が暖かい笑みで迎えてくれた。
「よくきたな。正直言って部室にくることはないと思っていた。志賀、本当によくきたな。
志賀、もうわかっていると思うがうちの野球部に入るにはまず丸刈りにしなければならない。それは男子だろうが女子だろうが例外はない。いいんだな、志賀」
「はい」
「そうか。それじゃあ。まずはユニフォームに着替えてくれ。入部式はそれからだ」
部室と隣り合ったところにある女子更衣室で私はユニフォームに着替える。
白地に黒という地味なユニフォームだが私はそれを手に取っただけで胸がいっぱいになった。
まだ背番号も割り当てられていないユニフォームに身を包んだ私は、壁にくくりつけられた大き目の鏡の中に映った自分の姿をしげしげと見つめる。
もう野球部員みたいだ……あとは……この髪を……丸刈りにするだけ……そう、それだけでいい……
部室に戻るとすでに入部式の用意は調っていた。部室のほぼ中央にぽつりと椅子が置かれ、その脇の机の上には無地の刈布と霧吹きそれに電気剃刀に似たものが置かれている。
私が椅子に座なり石原先生は背後から刈布をかぶせた後、霧吹きで私の髪を丹念に湿らせていった。
「本当にいいんだな」
「はい」
「丸刈りにするんだぞ」
「わかってます。もう……覚悟はできてますから」
先生にもわかってしまうほどあからさまに作った微笑み。それでも私には精一杯に作った笑みだった。
「……そうか。それじゃあ、入部式の宣誓を言ってもらうか」
「私……志賀沙織は、自慢の髪を丸刈りにして……男子野球部に入ります」
言った……言ってしまった……もう、後には引き返せない。
「よし。じゃあ始めるぞ。いいな」
「はい」
返事をしたとたん背後で聞きなれないモーター音が鳴り始めた。その音が徐々に私の頭上に近づく。
先生の手がゆっくりと私の前髪を掻き揚げそこに音の主がゆっくりともぐりこんだ。
――ザク! ザリ、ザリザリザリザリ
「――!」
異様な音を鳴らす――バリカンという――それは私の頭皮を這うように進んでゆく。そのたびに私の体はまるで雷で撃たれたような衝撃が走った。
その音にわずかに遅れて切られた黒髪が私の目の前に落ちてゆく。前髪のほぼ中央がやけに涼しい。
再び姿を現したバリカンは、二、三度ほど前髪を通った後そこを通ることはなかった。
え? もう終わったの? そう思った矢先だった。今度は左側の髪を先生が無造作に掴むと掴んだ髪の毛先にバリカンの刃を潜り込ませる。
ザクザクザク……
バリカンの刃が一気に私の頭の上まで進むと、長い髪がバラリと先生のもう一方の手にぶら下がった。
もう一方にもバリカンが入っていく……
最後に残った後ろの長い髪にも容赦なくバリカンが入ってゆく。
後ろの髪がひとまとめに掴まれ項が露わになったかと思うと、そこに冷たい刃の感触がした。その刃は勢いよく私の後頭部を駆け上がった。
ザクザクと進むたびに見えないはずの後ろの髪がなくなってゆくのが嫌でもわかった。
私の顔はすでに涙でぐしゃぐしゃになっているというのに、そこに新たに大粒の涙が流れた。
「終わったぞ」
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
何年も何年も伸ばしてきた長い髪、その髪がまさか一瞬でなくなるなんて今でも信じることができない。でもあの時のバリカンが頭の上に滑るように進んだ感触、バリカンの獰猛なモーター音、そして長い髪が床に落ちる音。その光景だけは嫌でも鮮明に蘇る。
最後に後ろの髪にバリカンが通ったとき一番大きくて重い音がした。あの時切った髪も今では胸に届くほどまでに伸びている。
入部してから私はがむしゃらに野球に打ち込んだ。三年になった頃私はようやくレギュラーになることができた。結局甲子園のマウンドに立つことはできなかったけれど。
卒業するときにもらった大原先生からの推薦状のおかげで私は大学でも野球を続けることができた。
「……ねえ、達彦さん」
「なんだ?」
「達彦さん、どこが良くて私をスカウトしたわけ?」
「ん? なんだよ。今更……最初に会ったときに言っただろう。女だてらに野球をやっている馬鹿がいるって言ったら、たまたまアメリカのマイナーリーグのあるチームからオファーがかかったって。そのチームのオーナーは好奇心旺盛で口頭の説明と簡単な履歴書でノープロブレムだったって」
「そりゃ日本人の女性でここまでの野球馬鹿がいるのかって物珍しがられたからでしょうけど」
ついこぼれた失言に達彦は気まずそうに視線をそらす。こういうところ見ると沙織はとても達彦が七歳年上だとは思えない。年上どころかいたずらしたのを叱られているただのやんちゃ坊主だ。
「オーナーが沙織をえらく気に入ったのは確かだ。それにある選手からも太鼓判を押されたからなおさらだ。めでたく沙織が活躍できればやっと俺もフリーのスカウトから足抜けできるってわけだ」
「あら? 私を買ってくれた選手? 初耳ね。誰なの」
「ふふん。これからそいつに会いに行くところさ。車をXX市営球場へ向かわせてるところだ。
おまえを待ちきれずに日本に来ちまいやがった」
「XX市営球場? ちょっと……聞いてないわよそんなこと。それにそんなとこよって飛行機の時間に間に合うんでしょうね」
「大丈夫、大丈夫」
沙織たちを乗せた車は半ば強引に右折をするとそのまま勢いをつけてXX市営球場へ向かった。
ー二ー
XX市営球場は『球場』とは名がついているものの、照明とわずかばかりの椅子のないスタンドだけで縁取られた狭い球場だ。あまり整備されていないのか、芝の長さはバラバラでグラウンドの土もマウンドとバッターボックス以外はでこぼこだらけだ。
バッターボックスで無心に素振りを繰り返す背の高い男性が沙織の目に映ると、その目が驚いたかのように大きく広がる。
「小鷹さん?」
「久しぶり」
小麦色に焼けた肌から洪水のような無数の汗を流しながら屈託のない笑みを浮かべ、沙織たちに近づく。
かつて東京ガーディアンズで不動の四番に座し、本塁打王、打点王の二冠を欲しいままに獲り、和製ソーサ、あるいはポスト王の呼び名も高い名選手――小鷹和輝。しかしその名は二年前ガーディアンズとの契約交渉がもつれ、自由契約となったままぷっつりと聞かなくなったままだ。
「もしかして私に会いたがっている人って……」
「まあ……そういうことだ」
「なんだ、川原さん。ちゃんと説明してくれなかったんですか。ひどいなあ。
志賀さん、君が同じチームに入る前にどうしてももう一度君の球を見たくてね。僕が川原さんに頼んでみたのさ」
沙織はにらむように達彦の顔を見据えると、達彦はあさっての方向を向いて不器用な口笛を吹いていた。
「達彦さん!」
「ああ、いやあ……急なオファーだったんで。詳しいことは現地でするつもりだったんだ」
「へえ……志賀さんはいつ声をかけられえたんだい?」
「それが二週間前ぐらいにショットバーで。最初はたちの悪い私の追っかけが酔っ払ってからんできたのかと思ったんです。その後Eメールとかでやりとりして、冗談にしては真実味がありすぎる話だったんでついOKだしちゃったんです。プロにしろどっかの企業にしろ、女ってだけでろくに相手にしてもらえなかったから。そしたら今日いきなり現地でテストって、その結果しだいで即採用とか言われて……」
「はは……相変わらずだな。川原さん」
「小鷹さんも川原さんから?」
「ああ……二年前ぐらいにね」
「二年前? 達彦さん、かなり強引な手を使ったんじゃないでしょうね」
「ああ、誤解しないでくれ。僕はむしろ川原さんに助けられたんだ」
「助けられた?」
「今の球団の実情を知ってるかい? ドラフトとかFAとか、加重制度とかやって一見公平な感じがするだろ。でも内情は裏腹さ」
「あの? 加重制度って……」
「加重制度っていうのは、力のあるチームが受けるハンデみたいなものさ。たとえばドラフトでAという選手いたとする。その選手を手に入れるのに契約金を払うだろ? 戦績のいいチームにはそれに手数料みたいなものを加算するのさ。加算した手数料はそのまま野球連盟がプールするんだ。逆に最下位のチームには契約金の一部を連盟がプールしたお金で負担するのさ。FAの場合はその手数料が獲られた球団のところにいくだけであとは変わらない」
「それならそんなにはひどくならないんじゃないですか」
「ところが……資金力があるチームにとってはその手数料も焼け石に水程度ってわけだ。むしろそれを逆手にとって有力な選手を他球団から青田刈りもできる。どこのチームだって球団経営はこの不景気の中じゃ厳しい。そこに多額の手数料が自分の目の前にぶら下がればどこだって飛びつく。それに東京ガーディアンズが豊富な資金力で今の球団どころか連盟すらも牛耳っているしね。
志賀さん、なぜ僕がドラフトで東京ガーディアンズを蹴らなかったのかって不思議に思うだろ? 僕はね……断れなくなったんだよ。高校二年からかな。XX放送が学校に寄付金を送ってきたのさ。そのお金で学校のお役に立ててくださいってね。おかげでうちは奨学金とかいう名義で学校から援助を受けられたよ。それ以来親からも学校からも東京ガーディアンズ行きを強く勧められたよ」
「そんな……それじゃあほとんど犯罪じゃないですか」
「あくまでも『寄付』だからね……それに寄付された学校だって悪い気はしないだろ? みんな必要悪ってことで目をつぶってるのさ。それに時には現金じゃないものだからなおさらだよ」
ため息混じりに話す小高の目は物悲しさを訴えていた。
「沙織、小鷹が言ったのはなにもこいつの学校だけじゃないさ。定員数が決まっている学校が甲子園で何回か実績を残すとそのあとグラウンドとかきちんと整備されるようになったり、新しい設備ができたりするだろ。そりゃ活躍したところに余計に予算を回してるのかもしれないが、それにしてもって感じがするだろ」
「じゃあうちの学校も……」
「まあ、こんな話はここらへんでよそうぜ。気がめいるだけだろ。キャッチャーは俺がやるから始めようぜ」
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
小鷹さんと対戦したのは四年前ぐらいだっただろうか……
恒例の大学選抜とプロ野球優勝チームの東京ガーディアンズで私が投げることになったのだ。
大学野球で女性選手がいるという話がどこからか伝わり、物珍しさと話題作りのために選ばれたらしい。
2イニングわずか30球程度だったが、あのときの緊張感と興奮は何度も味わえるものではないだろう。
沙織はウェティングサークルでバットを振る小鷹を見てあのときの事が脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「6回の裏すでに14対0……お! ここで大学選抜側のピッチャー交代のようです。なんとここで選抜側は女性のピッチャーをだすようです。これは驚きです。解説の江山さんどう思われますか?」
「これは驚きましたね。しかし油断していると手痛い目にあうかもしれませんよ」
「しかしツーアウトながらガーディアンズは四番の小鷹です」
沙織がマウンドに立つと同時に観客席からは驚きととまどいの歓声が沸き上がる。
「おい! ネーちゃん。始球式ならもうすんだぞ」
そんな罵声も沙織の耳には入らなかった。
マウンドに着くまでは沙織は走って逃げたいような気分でいっぱいだったが、プレートに足が着いたとたんそれがきれいに霧散化した。
小鷹がバッターボックスにたったとたん小鷹の体が倍以上に大きく見えた。
初めて立つマウンドでしかも初めて対峙するプロの選手。
逃げたい! 正直そう思った。だがここで逃げたら今まで自分の中で必死に積み上げてきたものがなくなりそうな気がした。
第一球目、沙織は渾身の力で投げた。スローボール、小鷹はあわてて形を崩しながらもバットを振る。
バットの風圧がこちらにも届きそうなぐらいすごいスイングだった。あんなスイングで打たれたらあっという間にホームランだ。だが、ボールはわずかに三塁席に切れていった。形が崩れた分打球がそれてしまったのだ。スイングの軌跡はまるで見えなかった。
二球目沙織は変化球を投げることにした。本当なら決め球に使いたかった球だ。だが、今はそんなことにこだわっている余裕はない。
人差し指、中指、薬指を曲げ小指と親指で挟むようにボールを握る。そして砲丸投げの要領で投げた――変化球の中でも「魔球」と称される球種だ。横にぶれながらフォークのように落ちるため、その球を投げると見抜かれない限り打者にとってはこの上なく厄介な球だ。ただしその球種を制した投手はプロでも数えるほどしかいないだろう。
スピードもさきほどの球と同じぐらいだ。小鷹はそのスピードにあわせてバットを振る。
ゴウ! という感じでバットが空を切った。その瞬間小鷹の表情は冷水をしこたま浴びせられたように蒼白になった。
三球目――小鷹の顔から「余裕」が消えた。
鬼だ――鬼はこんな表情に違いない。そのとき沙織はそんな感じを受けた。
殺気のような張り詰めた空気が小鷹から溢れ出し、それが広い球場内はおろか観客席すらも支配していた。観客席はクラシックコンサートの最中のように静かになっていた。
まだ二球しか投げていないのにもかかわらず沙織の顔から大量の汗が噴出していた。
三球目、三球目で勝負をつけるしかない。沙織はそう思った。全身の力が今まで以上に集中し沙織は三球目を投げた。
あのときと同じように小鷹はバッタボックスに立っている。ややオープンスタンス気味に構えていたが、どこにも無駄もスキもない感じを受ける。あの時と唯一違うのはすでに小鷹の顔に「余裕」がとれていることだけだ。
正直言って二度と投げたくない相手のうちの一人だ。しかし沙織もあのときの対戦をあのまま終わらせたくはなかった。
三球目に投げた球はすっぽ抜けになり、よけた小鷹の尻を直撃した。もし打たれたら――そんな気持ちがわずかに力みを生じさせ、腕の振りもわずかながらもぶれを生じさせた。あの三球目は今までにないほど悔いの残る一球となった。
打たれてもいい。今度は悔いが残らないようにしたい。沙織はその思いで一球目を投げた。
ー三ー
五大湖の近くグリーンベイ市に着いたのはすでに18時をすぎていたころだ。初夏にもさしかかるというのに日が暮れただけでも薄着では少々肌寒く感じる。
アメフトチーム同様ここに本拠地を置く「グリーンベイ・ユニコーンズ」もまた市民たちが支えている。
人口10万人程度の小さな町だが、地元住民たちの熱気とチームにたいする情熱や愛情の注ぎ方は日本のどこの都市に比べても劣らないものだ。もっとも今シーズンからはれてメジャーリーグの1チームになるのだから、市民たちの歓喜と熱狂はひとしおだ。
沙織たちがユニコーンズのテストを受けると聞いたホテルのオーナーはただでさえ安い宿泊料を棒引きにしてくれた。さらにそのオーナー、一見すると近寄りがたい容貌と熊のような巨体の持ち主だが、大の日本びいきとあいまってその歓迎ぶりは熱烈を極めた。
ようやく沙織たちが解放されたのは深夜近くだ。
「やれやれ。やっと終わった。もう何も食えない」
「そうね。私も今日は食べ過ぎたわ。ところで私に初登板兼テストはいつなの?」
「三日後にタンパと練習試合で先発登板して結果が出せれば合格ってところだな。とりあえずそれまではこっちに慣れるのとコンディショニング作りに励むんだな」
「うん……それより明日お願いがあるんだけど」
「なんだよ。あらたまって」
「髪をね、切って欲しいの」
「切るって……まさか」
「うん。プロテストを迎えるにあたって気合い入れようと思って。私にとってこれが最後のターニングポイントになりそうな気がするの。だから高校と同じようにしたほうがいいかなって」
「……せっかく伸びてきていい感じだったのに」
「いいの。短いほうが手入れしやすいでしょ」
「するともう隣で熟睡している俺を髪でくすぐって起こすというのもできなくなるわけだ」
「バカね」
くすりと笑う沙織と達彦はゆっくりとベットの中で一つになった。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
翌朝少し遅めの朝食を済ませた後広めのバスルームで沙織の髪を切ることにした。
あまり手入れをしていないという沙織の言葉とは反して胸まで届く髪は黒々と艶やかで枝毛もない。
「いっそのことだから鋏でジャーンと切ってから剃刀でクリクリに剃っちゃって」
そう言って沙織は鋏を達彦に手渡した。
「いいのか? 本当に」
「いいの」
達彦は意を決したように鋏を握ると、沙織の前髪を一房掴み根元ぎりぎりのところで鋏の刃をゆっくりと閉じた。
ジキジキ……ジョキリ
鋏の鈍い音が部屋にこだますると沙織の笑顔が少しくもったかのように見えた。
ジョキジョキ……ジャキン
根元からかなり適当に切っているため、切った後の長さはまばらになってしまう。
前髪の部分だけまるで稲刈りを済ませた田んぼのような感じになってしまい、余計不格好だ。そんな惨めな姿を鏡越しに見ても沙織はわずかに濁りの混じった笑顔のままだ。
勢いがついたのかサイド髪はいきなり一まとめに掴まれ、半ば強引に鋏が入ってゆく。
耳元で鋏が髪を切り刻む音が大きく響く。それに耐えかねたかのように沙織は何度も目をしばたかせる。
前髪だけでなく、サイドの方も地膚がすっかり短くなった髪から見えるところがところどころに現れる。
「あは……生まれたばかり雛鳥みたい」
「後ろの髪切るぞ」
ジョキリ――後ろのほうで一際大きな音が響く。沙織は少し涙が出た。
ジョギ、ジョギ、ジョギ。鋏の音が三度響いた後、達彦は静かに鋏を置いた。
床一面に放射状に広がった切られた黒髪の束。それが沙織の目には今も艶やかに映る。
「ツルツルに剃っちゃって」
幾筋の涙を頬に伝わせながらも沙織は微笑を鏡越しに達彦に返した。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
達彦の手がゆっくりと私の頭の上で動く。そのたびにゴリゴリという音とともに白い泡に包まれた私の頭から真新しい道ができる。
洗面器には泡ととも短い髪の束がごっそりと浮かび上がる。
それは今まで私の頭にあったもの……今までの古い私の抜け殻。
達彦の手が止まる頃新しい私がこの鏡に映ることだろう。
だから古い私はもういらない――なぜだろういくらそう思っても悲しくなるのは。なぜだろうこの喪失感は。
ゾリゾリと身の毛がよだつ音がすると新たに私の頭に青白い部分ができた。そして白い泡がポチャリと洗面器に汲まれた水の上を漂う。
どうせ頭を洗うのだから少し泣いても分からないはずだ。そう思ったとたん私の両目の奥からぶわっと涙が溢れ出した。
白泡から青白い肌が次々と現れる。その白い泡も所々こびり付いているだけだ。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
オーナールームに立つと沙織は緊張した面持ちでゆっくりと深呼吸をする。それを見た達彦は思わず吹き出す。
「なによ」
「いや……オーナーがその頭を見たら何と言うかと思ってね」
「べつなにも言わないわよ」
木製の扉をノックすると中から女性の声が聞こえた。
「どうぞ。入って」
「失礼します」
中にいたのは白髪の初老の女性だった。
(秘書なのかな……それにしては……でもここはアメリカだし……)
「あらそんなところで立ってないで座ってくつろいでていいのよ。それからお帽子もお取りなさい」
「は、はあ」
失笑する達彦を睨みつけ沙織はおずおずと帽子を脱ぐ。
「まあ! どうしたの! その頭」
「……切ったんです」
履歴書に添付された写真の姿は胸まであった時の沙織だ。それが青白い坊主頭になっているのだからこの老婆が驚くのも無理はない。
「タツヒコ! 本当に彼女はサムライガールね。気に入ったわ」
豪快に笑われ沙織は顔から火が出るぐらい恥ずかしくなった。
「ところでオーナーは? それに監督は」
「くくく……沙織、おまえの目の前にいるじゃないか」
「え! じゃあ」
「ようこそ! ユニコーンズへ。ミズ・サオリ。私がグリーンベイ・ユニコーンズのジェネラルマネージャー兼監督のメリンダ・バークホワイトです」
「ミズサオリ、このチームにはどうしても守らなければならない言葉があるのよ」
「なんです?」
「Enjoy your BASEBALL And Take IT Easyよ。勝つ負けるはその後。だから三日後のこともテストなんて堅く考えないでちょうだい」
「わかりました。精一杯楽しませてもらいます」
マネージャー室に明るい三人の笑い声がこだました。
ーエピローグ
20XX年 グリーンベイ
対ツインズ戦で日本人女性初めて大リーグのマウンドにたった女性のことが新聞やテレビで大々的に報道された。
6回1/3を投げ2失点という好投ぶりを見せたがその後の継投に失敗し、彼女ともどもユニコーンズはホームグラウンドで初勝利を逃してしまった。しかしそれはほんの160試合のうちの1試合が終わったに過ぎなかった。
現在30試合を消化しグリーンベイユニコーンズは13勝17敗。うち志賀沙織は5試合に登板し39イニング15失点、防御率3.46という成績をあげている。
――了
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