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大切なもの

 今日私は髪を切ることにした。
 背中の真中で大きく揺れる長い髪。ここまで伸ばすのは結構時間がかかったし、わりと
気に入っていたのだけれど。
 ここのところ、則夫と些細なことで喧嘩ばかりして、それでぎくしゃくして、謝ろう
にもなかなか素直になれなくて、そうしたらだんだん則夫よりも自分自身にむしゃくしゃ
して……
 気分転換とむしゃくしゃした気持ちをすっきりしたいから、髪を切ろうと思った。
 最初はいつもの美容室で、いつも通り毛先だけ揃えてもらおうかな、と思っていただけ
だった。
 鏡台に何気なく置いてあったティッシュの裏側に入っている宣伝のチラシを見て、ここ
で切ろうかなと考え直した。
 そこはいつも則夫が行っている床屋の名前が印字してあった。
「そう言えば何度かお子さんを見せてもらいに行ったっけ……」
 三、四年ほど行っていないから、お子さんも大分大きくなっているに違いない。
 そう言えば、私が髪を伸ばし始めたのも三、四年ほど前ぐらいだよね。
 そうだ。どうせだから則夫が普段行っている床屋で髪を切ってもらおう。
 もしかしたら規夫がいるかもしれない。そうしたら素直に謝ろう。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 則夫の行っている床屋は、家から五分足らずのところにある。
 外見は古くさく、いかにも「昔ながらの床屋さん」という感じなのだが、内装はもちろん綺麗だし結構おしゃれだ。
 世間話をする時にはさりげなく行けたのに、バクバクドキドキする心臓を何度か深呼吸
で抑えながら、ようやく床屋の手前にたどり着く。
 店主の高橋さんは客席のところで新聞を読んでいたけれど、私が扉の前に近づくなりぺ
こりと一礼をする。
 ――ひゃあああ。もう気づかれちゃったよ。
「おや、紘子ちゃん。いらっしゃい。旦那さんなら今日は来てないですよ」
「いや、あの……そうじゃなくて……今日は髪を切りにきたんです」
「え? 髪を切りに?」
「……はい」
 ますます激しくなる心臓の音が聞こえるのじゃないかと心配で、か細い声を絞り出すの
が精一杯だった。
 それじゃあこちらへと案内されたのは、一番通路側の椅子だった。
 私が普段通っているいる美容室のちんまりとした椅子ではなく、その椅子はまるで「重
役席」のような重厚で、どっしりとした漆黒の椅子だ。
 見た目とは裏腹に、座ってみると案外ふかふかしていて座り心地が良い。
 高橋さんは手際よく片方の手で櫛を操りながら、霧吹きで私の髪を濡ら
してゆく。
「どういたしますか?」
「あ、あの……み、短くして欲しいんです」
「え? 短く? このぐらい?」
 驚いた顔で高橋さんが手を止めた位置は、肩ぐらいの位置だ。当たり前だけれど、そこ
 から下の部分がなくなるということだ。
 うわあ。ど、どどど、どうしよう……結構バッサリ……だよね? で、でも……
「あ、あのもっと短くして欲しいの」
「じゃあ、このぐらい?」
 それは肩の上の部分、私は思いきって首を横に振る。そして高橋さんの手がさらに上の
位置になる。
 まるでヘップバーンの映画のように、私が首を振ると高橋さんの手はどんどん高い位置
へと上がる。
 高橋さんの手が耳下あたりで止まると、
「これ以上切るのかい?」
 とあきれたような声が耳に入った。
「うん……あの、あのね、則夫ぐらいに短くして欲しいの」
「え? そんなに?」
「うん」
「耳もすっきりと出して、刈り上げちゃうよ?」
「うん」
「後ろの方なんか結構短く刈り上げちゃうよ?」
「うん。わかった。バッサリやって」
「よし……わかりました。バッサリやりましょう」
 再び高橋さんの手が動き出す。それが櫛の動きとなって私の髪の中で泳ぎ出す。
 ふいに櫛の動きがなくなり、ヒヤリとしたものが肌に触れる。
 最初に聞こえたのは、ジキという鈍いうえに耳の奥に突き刺さるような嫌な音。その後
断続的にジャキリという音が響き出す。

 ――ジャキ、ジャキリ

 たったそれだけで、左サイドの髪が顎のラインでスッパリとなくなった。
 さらに鋏は反対側のサイドの髪も切り落としてゆく。
 え? と思っている間に両サイドの髪が顎のラインでプッツリと消えていた。
 呆然としているのも束の間、項のあたりにひやりとした感触があたる。
 さらに重い重い鋏の音が後方の方で響き渡る。
 鏡ごしに映っていた髪がストン、ストンと見えないところへと落ちていくのが嫌でも目に入った。
 一拍遅れて長い髪束がカットクロス越しに背を叩く。

 ――ジャキ、ジャキ、ジャキン

「あ……」
 つい先ほどまで背中を流れていた髪がプッツリとなくなった。
 ついさっきまであったんだよ!
 それがたった数分で……
 そう思ったらいきなりとてつもなく悲しくなってきて、両目に並々と涙がたまってき始
めた。
「うん、うん。ショートボブの紘子ちゃんもいいね」
「……え?」
 ポツリと高橋さんがつぶやいたその声に思わず反応して、私は改めて鏡に映った自分を
見てみる。
 鏡の中には顎先で揃えたおかっぱ頭の私が映っていた。
(中坊みたい……)
 頭が軽くなったせいか、なんだかだんだん気分まで軽やかになってくる。
「うん、いい! すっごく軽くなった」
「これより短く切るからもっと軽くなりますよ」
「ほんと! じゃあお願いしまーす」
「わかりました」
 再び高橋さんの手が動き出す。耳を隠している髪を耳の上まで掬い上げ、そこで鋏の音
がなる。
 心なしかさっきより鋏の音が軽くなったような気がする。時々当たる鋏の冷たい感触が
なんだか心地よい。
 バラ、バラ、バラとカットクロスに短い髪が滑り落ちていく。その髪が丁度腰下あたり
にできたカットクロスのくぼみに集まる。

 すっかり耳が露わになっても、高橋さんは櫛を動かしてどんどん髪を短くしてゆく。
 多分櫛の縁あたりかな……器用に櫛で耳の縁を動かして、生え際まで丁寧に切ってゆく。
(うわあ……左半分耳が出ちゃってるよ)
 思わず恥ずかしくなって、耳がほんのり赤く染まる。幸い高橋さんは後ろの方に回って
いたので気づかなかったみたいだ。
 今度は高橋さんの鋏が項から頭上のあたりにすくい上げるように動く。
 思ったより高橋さんの鋏の動きは軽やかだ。パラパラと小雨のように切られていった髪
が背に当たってゆく。
 男の子のようなベリーショート。すっかり短くなっちゃった。
 高橋さんは鋏を持ち替える。鏡から見えるのは鋏の刃のところに細かくギザギザがつい
ている。
 たしか「すき鋏」とかいうのだ。池袋のハンズで一度見たことがある。
 高橋さんの手が再び動き出す。
 ジャギ、ジャギ、ジャギとなんとも言えない音が響き出すと、おびただしいほどの髪が
カットクロスに降り注ぐ。
(え? あんなに切ったのに……)
 サイドの方は、頭の上まで切るように鋏が動いてゆく。
 耳の周囲の地肌がすっかり短く刈り上げられた髪から透けて見える。
 後ろの方では思わず声をあげそうになるぐらいに、鋏が下から上へ動く。
 か、刈り上げちゃっている! すごく刈り上げている!
 なんだか結構頭の上まで切っちゃってるようだけど……大丈夫かな?
 高橋さんのことだから、そんなことないと思うけれど……
 ようやく後ろの方が終わったかと思うと、反対側のサイドに回り込み、鋏を入れてゆく。
 そして最後に前髪にもすき鋏が入っていく。
 高橋さんは一房ずつ丁寧に持ち上げて、ざ
くざくと切っていく。
 バラバラと目の前に切った髪が降り注ぐ、目の前のカットクロスのお洒落な色合いが
真っ黒に染まっている。
 まだこんなに髪あったんだと。びっくりな気持ちが一杯なせいか、悲しくはなりはしな
かった。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 その後の襟剃り、顔剃りと未体験ゾーンを体験した私の姿はかなりすっきりと変わった。
「どうかな。前髪の方は少し長めにして残しておいたけど」
「うん! すごく良い! すごいさっぱりしちゃった」
 店を出ると短くなった髪に春風が心地よく染み込む。
 規夫、この髪見たらなんて言うかな……
 正面から短い髪の男の人がこちらに近づいてくる。
 あれ? 規夫? でも規夫は確か肩までの髪だし……でもまさか……まさか……
 むこうの男性もびっくりしたかのように絶ち尽くし、私と同時に同じ言葉を発する。
『どうしたの? その髪!』

「なんだよ、お前。高橋のとこ行ったのかよ」
「あんたこそ私の馴染みの美容院行ったじゃない!」
「そこに行けば、お前に会えるかと思ってたわけ。でさ、お前いなかったし、なんかむし
ゃくしゃした気持ちすっきりさせたくてさ、で、ガーと丸刈りにしてもらったわけ」
「えー……どうすんのよ。今度行ったら絶対なんか言われる」
「それはこっちのセリフ。今度高橋になに言われるか」
 アー……私と思考回路おなじだわ。私たちとことん似たもの同士でお似合いってわけ
ね。
 そう思ったとたん、なんだか急に馬鹿らしくなって急に笑いがこみ上げてきた。
「なんだよ? 急に笑って」
「ごめん。なんだかお互いおんなじことやってるなと思ったら、急におかしくなっちゃっ
て」
「たしかにそうだな」
 規夫もケラケラと笑い出す。
 むしゃくしゃして見失いそうだった大切なもの。それが今ここにある。
「ねえ。今度高橋さんとこに一緒に行って髪を切ろうよ」
「いいけど。お前それ以上短くするのかよ」
「規夫とおんなじ丸刈りにしようかな」
 え! と規夫が浮かべた驚いた表情を私は「冗談」と笑い飛ばした。


       完

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