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黒髪儀礼秘話             ー第三話 L女子中学入学前夜ー

  ー一ー

 あれほど降った雪はどこへ消えてしまったのだろう……
 佳奈は通学路にすっかりと泥にまみれ小さくなった雪の固まりを見て小さく首をかしげた。
 ついこの前までは天気予報のおじさんがいかにも心配げな顔で「今年は例年にない大雪で……」という言葉をあんなに繰り返していたのに、今では明るい表情で「各地の桜の見頃」を予想している。
 そういえば小学校に通うのもあと一ヶ月足らずだっけ……。裕子ちゃんも有奈ちゃんも明子ちゃんも別々の中学に行ってしまう。どうして小学校のクラスと同じまま中学にいけないのだろう?
 お父さんはニューヨークに出張中で、入学式もセーラー服姿も写真でしか見せられない。 それを思うと佳奈は一抹の寂しさを覚えるが、それも初めての中学校という未知の期待と不安のブレンドにかき消されていった。
 荒々しい春風が佳奈の腰下まで届く自慢の髪を激しく揺さぶる。佳奈は風に乱暴にもて遊ばれる三つ編みを自分のもとへたぐり寄せる。
 母の手で結わえられた三つ編みは強風になぶられても形が崩れることはなかった。その三つ編みの編み目のどこに触れても指が通らないほどきつく縛られている。その編み目に指を滑らせると、解いたとき感触の感触と違い、そのたびに佳奈は母の結わえた三つ編みが好きになれるのだ。
 佳奈自身でも三つ編みを結わえることはできるのだが、どうしても編み目がところどころ緩くなったり、だらしのない三つ編みになってりしてしまうのだ。
 ――いつかお母さんみたいにちゃんと結べるようにならなくっちゃ
 佳奈は再び三つ編みを春風に任せて帰宅の徒についた。
「ただいま!」
「お帰りなさい」
 居間の奥に間取られたダイニングキッチンで夕食の支度をしていた紀美代に佳奈が飛びつく。
「ちょ、ちょっと、佳奈。夕飯の支度してるんだから……もう! そんなにひっついたら危ないでしょう」
 小猫のように紀美代の腰まで届く髪にじゃれつく佳奈に苦笑いを浮かべ軽く諌める。
「だってお母さんの髪、気持ちいいんだもん」
「だからって、ほら……くしゃくしゃになっちゃうでしょ。そんなことしてる暇があるんだったら食器並べてちょうだい」
「はーい」
 しぶしぶ紀美代から離れた佳奈は、おとなしくテーブルに食器を並べ始める。
 ――ほんの少し前までは危なっかしくて、ちょっとでも目を離すと何枚もお皿割られたっけ……
 紀美代は手際良く食器を並べていく佳奈の姿に自然と目を細めた。


  ー二ー

「ねえねえ、佳奈ちゃん。聞いて聞いて」
「なあに? アキちゃん」
 ホームルームの終了音が教室のスピーカーから残音をこぼし終えると、噂好きの明子が癖のあるポニーテールを揺らして佳奈の席に椅子ごと近づく。
「佳奈ちゃん、L女子でしょ。なんか制服とか校則が変わるみたいよ」
「え? 本当?」
「うん……お母さんが噂で聞いたみたいなんだけど」
 そう言えばお母さんが学校の制服買うのもう少し後になると言っていたけれど……
「ね、ねえ、校則ってどのくらい変わるの?」
「そこまではわからないんだけど……」
「そう」
 佳奈は不安で胸を万力で締め付けられるほどの圧迫感で一杯になる。
 この髪切るのかな? そんなことはないよね? きっと大丈夫……だよ。
 いくら自分を勇気づけてもその不安は一層深まるばかりだった。

 佳奈は自宅に戻ると居間のテーブルに真新しい生徒手帳が置いてあった。おそるおそる佳奈は生徒手帳を手に取る。
 外見は以前の生徒手帳と同じだった。佳奈は震える手で最初のページをめくる。

 ――ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……

 ページの中頃にさしかかっても校則は以前のとおなじだ。佳奈は安堵の吐息を軽くついて生徒手帳をさらに読み進める。
「うわあ……」
 次のページをめくったときそこには新しい制服のデザインが載っていた。
 夏は白い半袖とチェック柄のスカート、春・夏・秋はモスグリーンのブレザー。『ネクタイは市販のものでも可』と記されてあった。
 ブレザーの左胸あたりには西洋の古城の紋章のように学校のイニシャルと学章が型どってある。
「この制服じゃあ三つ編みは地味かな……」
 結ばない方がいいかな? それともポニーテール? 制服に合うアレンジがないかヘアブックを買っておかなくちゃ……

 佳奈の表情はすっかり緩み、頭の中では早くも楽しい中学校生活が思い浮かび始める。
 そんな甘い夢の時間は次のページをめくったと同時に残酷にも粉々に崩された。

『――新入生の髪型――新しく始まる学校生活に向けて髪もさっぱりとしましょう』

「……え?」
 佳奈は瞳を大きく開き次の文章に目を移す。

『――新入生の髪型は顎のラインで揃えたオカッパに。前髪は眉にかからない程度に切り揃えること。顎より長い髪は認めないものとします。なお例外は一切認めません』
「う……そ……」
 いまだに信じることのできない佳奈は声に出して読んでみることにした。
「し、新入生の髪型――あ、新しく始まる学校生活に向けて……か、か、か、髪もさ、さっぱり……としましょう……か、か、髪は、あ、あ、ああ、顎までのお、オカ、オカッパ……ま、ま、まま、ま、前髪は、ま、眉にかからない程度に、き、ききき、切り揃えること。
 顎より長い髪はみ、み、認めない……『なお例外は一切認めません』……そんな……そんな……」
 佳奈の手からスルリと生徒手帳が零れ落ちた。佳奈はだらしなく床の上で広がった生徒手帳を呆然と見つめる。
 ポロポロと大粒の涙が佳奈の頬を伝い出すと、次第にそれが止めどなく流れはじめる。
「……そ、そうだ。お母さんに相談してみよう。もうすぐパートから帰ってくる。そうしたら早速相談しよう。お母さんがきっとなんとかしてくれる。そうよ……なんとかなる」
 玄関で「ただいま」と母の声が佳奈の耳に入る。頬にできた涙のあぜ道を乱暴に拭き、佳奈は抜け殻になったように緩慢な動作で居間へ向かう。
「……お母さん」
「なあに」
 いつも元気で明るい表情とは佳奈とは違い、今日の佳奈の顔はすっかりと泣きはらし、まるで絶望で沈んだ表情を浮かべている。

 ――学校でなにかあったのかしら……

「お母さん、これ新しい生徒手帳」
「あら、もうきたの」
 ――佳奈の生徒手帳を持つ手が小刻みに震えている。生徒手帳になにか気にいらいないことが……ま、まさか……
 紀美代は佳奈に動揺を気づかれないよう、何気ないフリで生徒手帳をめくる。その手がピタリと止まる。
「……そうね。髪、切らなくちゃいけないわね」
「そ、そんな……い、いや」
「しょうがないでしょ。校則でそうなってるんだから」
「やだ! やだやだ! そんなの! だってずっと伸ばしてたんだよ。なんで学校行くのに髪切らなくちゃいけないの? だったら……学校なんて行かない!」
「佳奈!」
 滅多に怒ったことのない紀美代の怒声に佳奈の体は、飛び上がるほどにビクンと震える。
「入学式前日まで切ってきなさい。そうしないとお母さんが切りますからね!」
 紀美代の厳しい言葉に佳奈はただ力なくその場に座り込み鳴咽を漏らすだけだ。
 紀美代はそんな哀れな佳奈の目の前にカット代として五千円札を置き、そのまま居間に消える。
 すっかり目を赤く腫らした佳奈は五千円札を荒々しくポケットに入れ、自分の部屋へ一気に駆け込んだ。

「佳奈……ごめんね」
 居間のガラス戸を締め切ると、紀美代は今までの毅然とした態度が嘘だったかのようにその場に座り込み両手で顔を覆った。
 紀美代の心情を察したかのように、明くる朝まで大雨が降りしきった。


  ー三ー

 佳奈はなかなか髪を切りに行けず、一日中家で過ごしていた。紀美代の方もそんな佳奈の様子を見ても何も口に出すことはなかった。
 普段は母娘一緒に囲む食事の時にどちらかともなく会話が弾むのだが、あの日以来ぷっつりと会話がとぎれただ沈黙とテレビの雑音だけが居間を支配した。
 ただ時間だけが流れL女子中学入学式二日前を迎えた。
「どうしよう……と、とにかく行かなくちゃ」
 佳奈はくしゃくしゃになった五千円札をポケットにしまい込み、いつも紀美代と一緒に行くR美容室に向かった。
 R美容室の扉を開くと、待合席には佳奈と同年代の少女と付き添いで来た母親で満席となっていた。
「あら! 佳奈ちゃんいらっしゃい」
「こ、こんにちは」
「今日、お母さんは?」
「お母さ、あ……母はパートで……」
「そうなんだ。ごめんなさいね。今日は入学式前だから混んじゃって……」
 佳奈はふいにカット台の方に視線を向ける。
 そこには佳奈と同じ年の頃の少女が今にも泣きそうな顔で鏡を見つめていた。
 頭の高いところで結わえられたポニーテールは背中が隠れるほどの長さだ。そのポニーテールがゆっくりとほどかれると、一房だけを残しいくつものクリップで再び頭の上に止められていく。
 なに? なにが始まるの?
 その一房に白銀の光が一閃する。
 ジャキリ……
 嫌な音が佳奈の耳に突き刺さるように響き渡ると、佳奈は反射的に目を閉じた。
 パサ、と乾いた音をたてて美容室の床に何かが落ちる音が佳奈の耳に遅れて入った。目を閉じたせいか、鋏のなにかを刻む音がより一層鋭く佳奈の耳に響く。
 矢も楯もたまらず佳奈は目をゆっくりと開く。
 つい先程まで背中が隠れるほどあった左サイドの髪はスッパリと顎のラインで切り揃えらていた。反対側のサイドの髪にも容赦なく鋏が入っていく。
 美容師はすっかり泣き腫らした少女の顔を鏡越しに見てもその手を止めることはなかった。美容師はただ黙々とクリップをはずして少女の背に落ちてきた髪に鋏を入れていく。
 二本の刃が一旦大きく開く。そして美容師の手が再び動くと二本の刃が髪を挟んで交差する。その刃からはみ出した髪が鈍い音とともにするりと床に舞い落ちる。

 ――う……そ……うそ……嘘でしょう!

 佳奈はかろうじて悲鳴を喉元で抑えた。
「……ちゃん……佳奈ちゃん?」
「え? は、はい……」
「二、三時間かかっちゃうけどどうする?」
「そ……それじゃあ……またにします」
「そう。ごめんなさいね」
 すまなそうな表情を見せる店員に佳奈は小さくお辞儀を返すと、打ちひしがれたように美容室を後にした。
「ど、どうしよう……」
 佳奈は商店街を当てもなくとぼとぼと歩いていると、古びた床屋が目に入った。美容院と違うせいか外からでも狭い店内に並ぶ三台のカット台が見えた。
 一番外側のカット台に顎先できれいに揃えた少女が大粒の涙を流し鏡を見つめている。
「あんなに似合っているのになんで泣いてるんだろう?」
 佳奈は訝しげに視線を下に移すと、その理由が嫌でもわかった。
 カット台の周囲に漂う漆黒の海――それはまぎれもなく髪の毛だった。
 かつての持ち主であった少女にさらに鋏が入る。すっかりと少女の小振りの耳があっという間に露わになった。さらに佳奈の見たことのない棒状のものが少女の後頭部に潜り込む。
 その棒が少女の後頭部をなぞるように進むと、後頭部の髪が根元あたりからバラバラと少女の背中に降り注いだ。

 ――え……え? ええー? なに? なに?

 佳奈は見てはならないと思いながらもその足はすっかりと竦み上がり、瞳は小刻みに震えて瞼を閉じることができない。
 床屋の店員らしき中年の男性に握られた棒は、容赦なく少女の後頭部を蠕動する。それともにバサバサと黒い髪が新たに床へと降り積もる。
 棒がようやく少女の後頭部から離れると、襟足から耳のあたりまでの髪がすっぱりと刈り上げられていた。
 店員に握られた棒の先端には少女のものであった髪が無数についていた。
 佳奈は大きく口をあけ精一杯悲鳴をあげ、ありったけの力を振り絞って家と向かう。
 思いっきり走ったため声は出なかった。それでも佳奈は全身から絞り出すように声にならぬ悲鳴をあげ続けた。
 家に着いた佳奈は自分の部屋に飛び込むようにして入るなりベットの中へ潜り込んだ。
 いくら布団の中に潜ってもあの二人の少女の断髪の光景が生々しく蘇る。

 ――いやだ! いやだよう。髪切りたくない。絶対切りたくない!

 佳奈の思いとはよそに残酷にも時間は刻々と過ぎてゆく。
 佳奈は髪を切ることができないまま、ついにL女子中学校の入学式前日を迎えることになった。


  ー四ー

 結局あの子、髪を切れなかった……
 紀美代は深いため息をついた。
 できることならどこか私の知らないうちに切ってほしかった。この手あの子の髪を切らずにすませたかった。しかしそれは許されることではなかった。
 娘の髪を切りたくないと思う反面、紀美代は以前からいつかこの日が来るのではないかという予感があった。
 紀美代は両の拳を強く握り締め新たな決心を何度も自分自身に言い聞かせた。

 佳奈は自分の部屋の扉をノックする音でいつの間にか引き込まれた眠りから覚めた。
「佳奈……居間のほうまで降りてきなさい」
 その声はいつもの母の声と寸分違わなかった。
「なんだろう……あ! もしかして『髪を切らなくてもいいのよ』と言ってくれるのかな。そうよ……きっとそうだよ」

『佳奈、安心して。やっぱり髪切らなくていいんですって』
『本当? お母さん』
『元の校則の通りだって。制服だけが変わるのよ』
『それじゃあ、髪長いままでいいんだ』
『そうよ、佳奈。だから……
 ア・ン・シ・ン・シ・テ・イ・イ・ノ・ヨ』

 佳奈の頭の中は自分自身で勝手に作り上げた甘い幻想で一杯になった。そんな佳奈の幻想は居間に入った瞬間粉々に打ち砕かれた。
 フローリングの床にポツンと置かれた佳奈がよく座っている椅子、その周りに敷かれた新聞紙、ダイニングテーブルには鋏と霧吹きが置いてあった。
「佳奈、そこに座りなさい」
「い……や……。いやだ! いやだ! いやー」
 居間の入り口付近の柱にしがみつき佳奈は泣き叫ぶ。
「言ったでしょ。切りにいけなかったら、お母さんが切るって」
「やだー! 髪切るなんてやだ! やだよー」
「佳奈! いいかげんにしなさい! お父さんがそんな佳奈を見たら悲しむわよ」
 その言葉が紀美代の口から放たれると、佳奈はなにかに操られているかのようにおとなしく椅子に座る。
 紀美代はカットクロスを佳奈にかけた後、霧吹きで佳奈の髪を丁寧に湿らせてゆく。
 すでに佳奈の両目は真っ赤に充血し、止まることなく鳴咽を漏らしている。
 紀美代は今朝自分の手で結った三つ編みを解く。リボンの束縛から解放された髪は二つの螺旋を描いてゆっくりと佳奈の背中に広がる。
 紀美代はつややかな光の波を描く佳奈の髪を見ても表情一つ変えることなく、髪を一房手にとり鋏を近づける。

 ――ジャキン……

 鈍い鋏の音が居間中に響き渡ると、佳奈のむせび泣く声がピタリと止んだ。
 佳奈の瞳は大きく開き、まるで呼吸困難に喘いでいるかのように口は小刻みに何度も開閉させる。

 ジョキン、ザクザク、ジャキン

 佳奈のまだ未成熟な胸に鋏の音が深くえぐり込む。
 十分水気を含んだ髪は重い音をたてて新聞紙に落ちた。
 左半分は今までの長さだが、右半分はすでに肩のラインが露わになっていた。残りの左半分の髪にも容赦なく鋏が入る。

 ザキリ……ジャキ、ジャキ、ジャキン

 バサバサと音をたてて残り半分の髪も雪解けた瀧のように床へと流れ落ちる。
 佳奈の髪が肩の上で切り揃えられた長さになっても紀美代の手は止まらない。
 まるで時間が止まってしまったかのように佳奈の表情は恐怖を浮き出しにしたまま固まっていた。
 粗めに肩の上あたりで揃えた髪を紀美代は丁寧に顎のラインまで切り揃えていく。
 さらに紀美代は唇のあたりまでの前髪を佳奈の目の前で眉毛にかからないラインですっぱりと切った。
 切られた前髪は佳奈の目の前を素通りする。切られた前髪の何本かは佳奈の鼻や口や頬に涙で付着する。
 今まで止まっていた時間が一気に流れ出したかのように佳奈の両目から再び大量の涙が溢れ出した。
 紀美代はまるで冷徹に凍りついた仮面をつけたかのようにまったく表情を変えることなく佳奈の前髪を短く切り揃えてゆく。
 シャク、シャク、ジャ……キン
 最後の鋏の一切りが居間に一層大きく響き渡った。

「ほら、佳奈。終わったわよ」
 佳奈は背後から紀美代の手から差し出された手鏡を奪い取るようにして手に取った。

 ――誰? 鏡に映っているこの子、誰……

 前髪は額が露わになるほどに短く真っ直ぐに切られ、両サイドの髪は顎のあたりでスッパリと切られている。いつもは背後に映るはずの後ろの方の髪はすっかり見えなくなっている。
 佳奈は小刻みに震える指先を頭上のほうでぴたりと止め、そこからゆっくりと指を下へ滑らせてゆく。

 ――よかった……いつもの通りだ

 佳奈が安堵の息をついた矢先その感触は顎の少し上のあたりでプッツリと途切れた。
「あ……れ? あれ? あれ? あれ?」
 佳奈はありったけの勇気を振り絞って毛先のほうに手を近づける。サラリと小さく音をたてて髪が頬にかする。すっかりと短くなった毛先は手にちくちくとささった。
「そんな……そんな……そんなあ」
 佳奈は泣き声と悲鳴混じりのざらついた声をあげる。
「ひどい……ひどいよ! お母さん」
「しょうがないでしょ。切らなかった佳奈がわるいんでしょ」
「だって……だって……」
 佳奈は床に視線を落とす。その両目には大量の長い髪が新聞紙一面に横たわっているのが映った。
「! あ! ああ、あ……ひあああああああああ! 髪、私の髪ー! お、お母さんのバカーッ!」
「佳奈!?」
カットクロスを乱暴に取り飛び出すように居間から出ていった佳奈は、切った髪が体のあちこちについているのにかまわず自分の部屋へ飛び込んだ。
「ひどい。ひどいよ……」
 明かりも点けず床に塞ぎ込んだ佳奈は泣きじゃくりながら短くなった髪を見つめる。
 いくら泣いてもいくら母親を恨んでも切った髪は元に戻ることはない。やがて泣き疲れた佳奈はしだいに浅い眠りへ吸い込まれていった。


  ー五ー

 ……ジャクン、ジャキン……
 大きな鋏の音と女性の涙声が佳奈の耳に小さくこだまする。
 ――夢?
 佳奈は起き上がり声の主の所へ向かう。明かりが一つも点いていない居間から佳奈の耳に響いた鋏の音と女性の声が聞こえた。

 ――ゆ、幽霊? ま、まさか……

 佳奈は半開き状態の扉からおそるおそる覗き込む。

 ジャキン、ジャキン……バサバサバサ……
「ごめんね……ごめんね、佳奈。あなたの苦しみまだこんなものじゃすまないわよね。そうよね……」
 声の主は暗闇からでも一際映えるほどの黒髪に鋏を入れる。
 左側の方はすでに耳の下で無残にまばらに切られていた。右側にも一筋の白銀が走る。

 バサバサバサ……

 佳奈が切った時よりもさらにけたたましい音が居間に響く。
「ひ、ひい!」
 佳奈の口から思わず悲鳴が零れる。
「誰? ……佳奈? 佳奈なの?」
「ご、ごめんなさい」
「眠れないの? 今ホットココアでも用意するから待ってて」
 紀美代が明かりをつけた瞬間、佳奈は声にならない悲鳴をあげる。
「お……お……お母さん……その髪」
「ああ、これ」
 紀美代はペロッと舌を出し寂しげに微笑む。
「ちょ、ちょっと……鬱陶しかったから思い切って自分で切っちゃったの」
「そんな……あんなにお母さんが大事にしていたのに……山本のおばさんや安藤のおばさんや美容室のおばさんにも『きれいね』って誉められたじゃない。
 それなのに……も、もしかして私のせい? そうなの? 私が……私のせいだ……どうしよう」
 佳奈は床に落ちた一房の紀美代の髪を手にとり、まるで我が身のように涙を浮かべその髪をなで続ける。
「佳奈。あなたのせいじゃないのよ。お母さん本当にただ切りたかっただけだから……それだけ……そう、それだけだから……ね」
 紀美代は優しく佳奈の頭をなでる。
「う、うん」
 紀美代がにっこりと微笑んだ表情を見せると、ようやく佳奈の表情にいつもの明るさが戻る。
「お母さん……髪……」
「適当に切っちゃったから……変になっちゃったでしょ」
 クスクスと紀美代は微笑み佳奈にできたてのホットココアを手渡す。
「明日朝早く起きたらR美容室行きましょうね」
「うん」

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「お母さんよかったね。入学式間に合って」
「そうね。あとでお礼を言わなくちゃ」
 紀美代たちはR美容室の開店一時間前に訪れた。ちょうど店の前を掃除していた店長は紀美代の変わり果てた姿を見るなりすぐに紀美代のカットの用意をした。
 美容室を出ると紀美代の髪型は顎下までのザンバラの髪がベリーショートになった。
「なんだかお母さん背が伸びたみたい」
「首筋がすっかり出ちゃったかしら」
 紀美代は苦笑いを浮かべ思い切りよく刈り上げられた後頭部を何度も手でさする。
 耳は露わになりすっかりボーイッシュな雰囲気を装った紀美代の姿は佳奈の目から見てもまるで別人のようだ。
「ねえ……佳奈、おかしくない?」
「うん……前の長い髪の時のお母さんも好きだったけど、今のお母さんの方がもっと好き!」
「ありがとう佳奈。あ! 佳奈。そう言えばお母さんが渡したお金は?」
「え? えへへへ……あれ入学祝いということで。ねえ、いいでしょ? お母さん」
 眩しいほどの笑顔を紀美代に向けると紀美代も「ちゃっかりしてるわね」と顔をほころばせる。
 そんな二人を温かく見守るかのようにL女子中学の桜並木は満開に咲き誇っていた。


  ーエピローグー

 十数年の時が経過し、佳奈はすっかり一児の母親となっていた。
「お母さん、お母さん。三つ編みにして」
 今年で満七歳になる美世香が勢いよく佳奈の足に飛びつく。
「ちょっと、美世香! 今ごはんの支度してるんだから危ないでしょ」
「ごめんなさい」
 しゅんと塞ぎ込む美世香に佳奈はやれやれと苦笑いを浮かべる。
「ほら、美世香。お母さんの部屋で待ってなさい。あとでお母さんも行くから」
「うん!」
 すっかり元気を取り戻した美世香に佳奈は目を細めて見送る。

 ――母親に飛びつく甘えんぼなところは私に似たのね

 クスリと微笑んで佳奈は手際よく支度を済ませ、パタパタとスリッパを鳴らして自分の部屋へ向かう。
「お母さん、はやくう」
「はい、はい」
 佳奈は美世香の頭には少し大きすぎる櫛で丁寧に梳っていく。まだ若々しい美世香の髪は佳奈の手で解きほぐされ一層つややかさとしなやかさを増す。

 ――奇麗な髪……

 娘の髪に魅了されたせいか、佳奈の鼓動は不思議と踊り出す。
「――はい。できたわよ」
「わあ……ありがとう! お母さん」
 美世香はきっちり結わえた三つ編みを手で確かめ、佳奈にこれ以上にないほどの笑みを返す。

 ――いつかきっとあの頃の私のように美世香の髪を切ることになるのかしら……その時は私もあの時の母のように髪を切ろう。
 美世香を産んだ時肩まで切ってしまった髪も今では背の半ばまで達している。
「なあに? お母さん? にこにこして……なにかいいことあったの?」
「ううん、ちょっと考えごと」
「変なお母さん」
「あ! ほら! 美世香。学校遅れるわよ」
「はーい。お母さん、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
 大き目の赤いランドセルに結ったばかりの三つ編みが揺れる。
 佳奈はその三つ編みを見えなくなるまで手を振って見送った。


  -了-

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