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アクトレス・アフター

 そろそろ外出したい……
 玲美はカーテンの隙間越しから漏れる日差しを眺めて、大きなため息をついた。
 あの感染症でずっと家に巣ごもりして、半年以上は経つ。
 以前ドラマの関係で、剃髪した頭は、今では肩に届こうかという長さになった。
 いい加減髪を切りたい!
 丸坊主にした時は早く伸びるように願ったはずなのに、今では胸先まである髪が鬱陶しく感じる。
 でも、もう外に出て良いのだろうか……
 テレビでは旅番組も復活してきたし、ニュースでも街に出る人が増えてきたという報道が目立つ。
 外出したいと思う一方、玲美はすっかりと出不精になっている自分に愕然とした。
 こうなったら強引に美容院に予約を取ってしまおう。
 慣れない手つきで玲美は画面に映る電話番号からなじみの美容室を探し始める。
 最近スマホの操作からすっかりご無沙汰になった玲美の指先は、なかなか思うように動いてくれない。
「あ……ちがっ!」
 玲美は間違えて馴染みところの一つ下の美容室に電話をかけてしまったのだ。
 よりによって電話番号だけで店の名前を登録し忘れているところに。
「はい。メロウです」
「あ、あのすみません」
「あれ? その声玲美ちゃん? 」
「え?」
「ああ、そうか。前は店の名前教えてなかったね。ごめん、ごめん。ほら、以前のドラマで、玲美ちゃんの髪をバッサリ切らせてもらった、前野です」
 思わぬ電話越しの再会に玲美の声は弾んだ。
「前野さん!? うわー! お久しぶりです」
「玲美ちゃん、元気? あ、もしかして久しぶりに坊主にしたくなった? なーんて!」
「あ……是非! 前ぐらいの長さまで伸ばそうと思ったですけど、もう髪がうるさくなっちゃって」
「ははは。一度あんなに短くしたらねぇ。でも、本当に良いの?」
「はい。せっかくですから今度の水曜日とか。あ! 予約大丈夫ですか」
「うん!もうこんな情勢でしょ。暇で暇で。じゃあ今度の水曜日、お待ちしております」
 予約してしまった。しかも丸刈りって……自分で丸坊主にしてって言っちゃった。
 あまりのテンションで言ってしまった一言に玲美の心臓は高鳴る一方だった。
 その日の夜、玲美はなかなか寝付けず、明日切ることになるのに、と思いつつ丹念に髪を洗うことにした。
 もうこの髪を洗えなくなるのか、と思うと少し切なくなるけど、それでも玲美の決心は揺らぐことはなかった。


   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「やあ、玲美ちゃん。いらっしゃい。予約より随分早いね」
「あはは。まだ30分前ですね。もう一回出直しましょうか」
 2時間前ぐらいには美容室に着いてしまった玲美は、さんざんスタバで粘ったあげく、コーヒー一杯だけで粘るのも申し訳なく、公園で時間をつぶした後だった。
「それじゃあ。玲美ちゃん、こちらに座ってくださいね。でも本当に坊主にしちゃっていいの?」
「はい! バッサリと1ミリぐらいにしてください」
「お! おおおお……1ミリ。結構短くなるよ? 青くなっちゃうけど、本当に良いの?」
「ええ。もう思い切ってやっちゃってください」
 内心の激しい鼓動とは裏腹に、玲美はしっかりとした声で答えた。
「わかりました。じゃあ、バリカンでいきなり切っちゃいますね」
 前野は手際良く玲美に刈布を描けた後、ネックシャッターを首にかける。
「苦しくないですか?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、バッサリと1ミリに切りますよ」
 バリカンのモーター音が店内に低く響き出す。
 前野は玲美の前髪のほぼ中央を片手ですこし書き上げ、バリカンを静かに玲美の前髪に潜り込ませる。
 あ、あああーー! バリカンの刃が頭に当たる! この感触! あああーー!
 玲美の両目は前髪部分に釘付けになった。そのせいで着られた前髪がすごい勢いで玲美の前を通り過ぎてゆく。
 ビーーン! パサ、パサパサ……
 降りかかった前髪はスルスルと刈布を滑り落ち、玲美の膝あたりにできた刈布の窪みにズサリと落ちていった。
 やめて! もう切らないで! 早く終わって!
 目まぐるしく刈り落とされていく髪を見て、玲美の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
 電流のように体中を掛け巡るバリカンの衝撃に、玲美は思わず足をバタバタとして抵抗したくなる。
 そんな思いを知ってか知らずか、前野は軽快なタッチでバリカンを操り、前髪の中央部をすっかり刈り落とし、今度は前髪の左側にバリカンの刃を走らせる。
 バサ、バサ……サラサラサラ。
 バリカンで切られた左側の髪が、勢いよく玲美の足下に落ちていった。
「玲美ちゃん。もう前髪左半分なくなっちゃったよ」
「ほ、ほんとだ。な、ない……左側がない」
「もう丸刈りにするしかないよ。いいよね」
「はい。続けでください」
「玲美ちゃん、良い答えです。じゃあ右側もバリカンで切っちゃいます」
「前野さん、なんだか楽しそうですね」
「そりゃ楽しいよ。美容室で働いて女の子を丸刈りにするなんて、人生に一度あるかないかだからね」
 玲美はバリカンで切られた恨みを半分声に載せる。
「前野さんが断髪魔だという事初めて知りました」
「あはは。髪を切る職業に就くやつは誰でもそうだよ? 勿論仕事だからきっちりとちゃんと切るけどね。でも思い切ってやれって言われたら、この職業のやつらならね。でもまあ、僕はさらにってやつかな」
「やっぱり! 前野さん断髪魔だった!? 撮影の時もそうだったの?」
「いやいや。撮影の時は勿論仕事だからね。プロとしてしましたよ。僕だってあのときは緊張したんだよ。玲美ちゃんの自慢の長い髪を丸刈りにするのかって。でも今は……」
「今はなんですか?」
「うん。やっぱり楽しいです」
「やっぱり前野さん、断髪魔だ!」
「ははは……良かった玲美ちゃんが元気になって。さっきから顔が強張っていたから。どう? 少しは落ち着いた」
 そう言えば……玲美はさっきまでどん底になった心持ちが少し晴れた気がした。
「はい。有り難うございます」
「じゃあ続けるよ」
 ビーーン! ジジジ……ジョリ! ジョリ! パサパサ……
「バリカンは痛くはない?」
「はい。まだ感触が慣れないですけど大丈夫ですよ」
「良かった。前髪は終わったから左側のサイドを切りますね」
「はい」
 前野は玲美の左側の髪をかきあげた後、バリカンを頭部へと滑らせていく。
 ザリ! ザリザリ! パサバサパサ……
 切られたサイドの髪は束になって玲美の見えないところへ消えていった。
 今まで髪で見えなかった耳が全て玲美の目から見えるころには、サイドの後方がバリカンで刈られていた。
 左サイドの最後の髪がスルスルと刈布を滑り落ちていき、パサリと乾いた音を立て床に落ちていった。
 サイドの髪を切り終えた前野は、玲美の後頭部に勢いよくバリカンを入れる。
 ジジジ……ジョリ! ジョリ! スルスル……バサパサパサ……
 バリカン後頭部を走っていくたびに玲美は後頭部がやけに涼しく感じるようになった。
 あれ? 右側が少し重く感じる……
「玲美ちゃん、あとは右側だけだからね」
 前野は右側の髪を一房手に持ち、そこにバリカンを入れていく。
 ビーー! ジジジ…… ジョリ! パサパサ……
 バサリ、バサリと右側から髪が離れていくたび、玲美は心がその分軽くなっていく気がした。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「はい。お疲れさま。うん、短い坊主頭も可愛いよ、玲美ちゃん」
「うわ……」
 切る前まであった髪は今、玲美の頭にどこにもなかった。
 鏡の前の玲美は青白い尼さんのような――以前のあのときと同じ――玲美だった。
「どう? あのとき以来でしょ丸刈り。ちょっと触ってみる?」
「はい……うわジョリジョリする! すごい! どこ触ってもジョリジョリする! 久しぶり丸坊主のわたしーーー!」
「ははは。喜んでもらえてなにより。それより良いの? こんな髪型にして舞台とか稽古とかに影響しない?」
「あー……明日、久しぶりにオーディションあるんだった……そうだ! このまま丸坊主姿で受けちゃおうかな」
「玲美ちゃん……結構度胸あるね……今の玲美ちゃんなら、なんとかなりそうな気がするよ」
「前野さん、有り難うございます。丸刈りにして色々とすごくすっきりした気がします」
「うん。じゃあ。またおいで。丸刈りにしてあげるから」
「えー……前野さんやっぱり断髪魔、いや丸刈り魔だ」
「でもそこまで髪を切るとすっきりするでしょ」
「まあ、そうですけど。あ! じゃあ今度ロングヘアにしてきます!」
「わー何年かかるんだろ……」
「大丈夫です。私結構髪伸びるの早いんですよ」
「わかりました。お待ちしております」

 店を出たとき冬の風が玲美の頭を洗うように吹いた。
 ――寒い!
 それでも冷えた空気が玲美の心を穏やかにしていく。
 こんな情勢だけど! 明日から頑張る!
 このまま女優を続ける! 玲美は改めて心の中で誓った。


 その後日曜のドラマで「敏腕弁護士マルガリータ」というドラマで玲美の主演が決まった。 ドラマは好評のうちに終わり、映画化の話も浮上した。
 玲美は嬉しい半分、また髪を丸刈りにしなくてはと苦笑いを浮かべた。


       完

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