黒髪儀礼秘話ー第四話 宝物ー
ー1ー
長くてひたすら暑かった夏休みが終わり、中学生最後の学校が今日からまた始まる。
「――暑い……!」
九月の初旬だというのにちっとも涼しくならない。私は頬にかかる長い髪をパサリと払いのけ、校門まで続く急な坂道を上る。そのたびに背中が隠れるほどの黒髪がバサリと揺れる。つい先ほどまで大活躍していた私のお気に入りの自転車は、この坂道ではお荷物さんでしかない。おまけに衣更えでお気に入りのセーラー服もすっかり冬バージョンだ。
――バッサリと短く切ってしまおうか
この夏何度も私はそう思った。時には美容院の椅子に座る前まで「短くしてください」と言おうと決心した。でもいざ鏡の前に座ると結局、「毛先を揃えるだけ」になってしまうのだ。単に私が意気地がないだけかもしれないけれど、やっぱりこの髪は切れない。私にとってこの髪は唯一の取り柄なのだ。料理やスポーツをする時はいちいち結わえないといけないし、シャンプーだってあっという間になくなっちゃうし、それに毎日の手入れは大変だし……
「大切な宝物だもんね」
そよ風に舞う一房の髪を手に取り、じっと見つめる。それは朝日を浴びてつややかに輝き、サラリと小さく音をたてた。
「おはよー! 唯。うーん、相変わらずキレーな髪」
「ちょ、ちょっと……範子、私の髪にスリスリしないでよ。もー!」
「いいじゃない別に。だってさ、唯の髪サラサラしてて、スリスリすると気持ちいいんだもん。それに夏休みでずっとご無沙汰だったし」
「だからって……あー! 理美もなにやってんのよ」
「あ、ウス。唯」
理美は無愛想な表情で私の髪のひと房を手にとり、黙々と三つ編みを編んでいる。範子は飽きずに私の髪をスリスリしているし。範子ってばまるで猫なんだから!
でも卒業して高校に行ってもずっと三人一緒だといいな。
登校初日というせいか、私の髪はいつも以上にクラス中の話題となった。
――夏暑かったのに、切らなかったんだ。
――髪は傷まなかったの?
――唯の髪っていつも毛先までつやつやしてていいなー!
約一ヶ月ぶりのみんなの反響、嬉しかった。みんな私の髪のこと忘れていなかった。
そうだよ。夏は大変だったんだよ! 今年は特に陽射しが強かったから、大好きな海水浴も控えたし、いつもより髪に気を使ったんだよ。
高校生になっても私の髪話題になるかな?
まだ見えない未来に期待と不安で私の胸は一杯になった。
ー2ー
中学卒業後、私たち三人はあえなくバラバラになってしまった。
範子は男女共学の公立M高校、理美は難関と言われていた私立W女子高校――お嬢様学校として有名らしい――。そして私は父の仕事の関係で東京から一気にN県のH村に引っ越しすることになった。
H村の周りは、田畑ばかりで、繁華な町に行くには一日に四、五本しかないバスに乗るしかない。
唯一の救いは近くに――とは言っても歩いて三十分以上はかかるけれど――Y女子高校があることだ。私は一も二もなく、その女子高校の入試を受けることにした。
試験当日、どういうわけか私の周りの女の子たちは短い髪型の子ばかりだった。私の隣にいる女の子は胸までのポニーテールだけれど、他の子は肩までのボブ。きっと中学の時校則が厳しかったのだろう。
私は難なくY女子高校に合格し、新しい学校生活に胸を膨らませた。
「みんなこの髪を見たら何と言うだろう?」
――いつ頃から伸ばしはじめたの?
――手入れとか大変じゃないの?
私は新しく訪れる学園生活の夢想に酔った。ようやく生徒手帳の存在に気がついたのが入学式三日前になるほどに。
その夜私はベッドですっかり忘れていた生徒手帳に目を通した。
「よかった。そんなに厳しそうじゃない学校で……。残りは明日また目を通せばいいかな」
思っていたより薄い生徒手帳をパラパラとめくるうち、突然心臓がひっくり返るほどの文章が目に入った。
「第六条第二項、髪型――髪型は基本的に自由。ただし一年生・転校生は、顎より短いおかっぱ」
肩より短いおかっぱ……え? う……そ……で……しょ?
今までの眠気は一気に覚め、もう一度目を凝らして読んでみる。次のページにまだ続きがある。きっとそこに「または結ぶこと」とか書いてあるはずだ。
「――一年生・転校生は顎より短いおかっぱ、あるいはそれ以上に短くすること。いかなる例外を認めないものとする」
嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘ー!
そうよきっと私寝ぼけてるんだ。明日ちゃんと読み直そう。そうすればどこか読み落とした部分とかあるはずよ。
私は布団を頭からかぶり、そのまま目を閉じた。
――ドクン、ドクン、と激しい鼓動が耳に入り、結局私は朝まで眠ることはできなかった。
翌朝、私は改めて最初から生徒手帳に穴が空くほど何度も目を通した。寝ぼけていたわけじゃなかった、読み落とした所もなかった、本当だった……。肩にかかる髪の一房を手に取りじっと見詰めているうち、両目から止めどもなく涙がこぼれる。
学校に問い合わせてみたが「生徒手帳に書いてあるでしょ」と冷たい答えしか返ってこなかった。そして私は結局入学式前日になるまでなにもできなかった。まるで糸の切れた操り人形のように。
ようやく私にかすかな希望が思いついた。そうだ、駅前の美容院なら、あそこのお姉さんはやさしいから、きっと長めのおかっぱにしてくれるに違いない。私は駅前のバスの時刻表を見る。
私のほんのかすか希望。それが今一気に崩れた。すでに今日の最終便の時間からはとっくに過ぎていたのだ。
もはや近所にある小さな床屋しかない。入学式は明日だ。私はしかたなしに近所の床屋へ向かった。
「いらっしゃいませ」
店にいたのは四、五十くらいのひょろりとしたおじさん。店の中には、三人分の椅子と鏡、しわくちゃになった新聞や雑誌が無造作に置かれたテーブル、気休め程度の小さなソファ。それに美容院にはない男性化粧品の香りとかすかな煙草の匂いが私の鼻をくすぐる。
「お嬢さん、見ない顔だね」
「は、はいこの前引っ越ししたばかりなんです。それで今度Y女子高校に入学することになったんで……」
「ああ、Y女子高校ね。あそこ髪型には厳しいからね。それじゃあ今日はバッサリと切っちゃおうか」
私は床屋のおじさんのなすがままに、一番端の椅子に座らされた。その上から白地に花柄模様のケープをかぶせられ、おじさんはケープから私の長い髪を引きずり出した。
「それにしても奇麗な髪だねえ。それにこんなに長く伸ばすの大変だったでしょう」
そうよ、大変だったんだよ! だからせめておかっぱでも長めにしてよ。
鏡の中私はもはや硬直し、唇はまるで極寒の地にいるかのように細かく震えている。
どうして? 「長めにしてください」って言えない。ちゃんと喉から出ているんだよ。でもいざ口から出そうとすると、その言葉が湯気のように消えていく……
「Y女子高校は、本当に新入生とか転校生の時だけ妙に髪型にはうるさいからね。このさいだからさっぱりと短めにしようね」
おじさんの、にこりとした表情から飛び出した無残な言葉が、グリグリと私の心臓にえぐり込む。
やだ、そんなのやだよ! だってこの髪のためにすごく苦労したんだよ! 髪の手入れの時とか、シャンプーの時とか、髪を乾かす時とか、髪をまとめるのだって時間がかかるんだよ? 今までずっと費やしてきた時間どうなっちゃうのよ? この髪切ったらその時間戻って来るの? それにこの髪は私にとって唯一の取り柄なのよ! 神様が現れてあっという間に切った髪を元の長さにしてくれるの?
おじさんは鼻歌まじりに私の髪を霧吹きで湿らせ、櫛を入れていく。無骨な手のわりにその櫛通りはやさしく私の髪を整えていく。
髪全体が水気を帯びた時、急におじさんの櫛が止まった。
――あ、バッサリ切るのもったいなくなったんでしょ? そうよ、そうだよね! 次におじさんは「やっぱり長めにしとうこうね」と言うんだ。きっとそうだ。
――ジャキリ、ジャキ、ジャッキン!
耳たぶあたりで今まで聞いたこともない鋭く重い音が私を襲った。そして黒い束が目元にバサリと舞い落ちてきた。
――なに、これ? この黒くて長いの? おじさん、今糸落とさなかった? 大事な糸でしょ? ほら、こんなに長くて、奇麗な糸。柔らかくてつやのある……
鏡の右半分はいつもの私。左側……髪が、あれ? 耳のあたりしかない。
「――! あ、あ、ああ……!」
体全体の血がと止まりそのまま逆流したようなショックのあと、激しい電気が体中に駆け巡るような激しいしびれを感じた。
――ジャッキン、ジャキン、ジャキン!
鋏の鋭い音の後、ドサドサ――とまるで雪崩のような重い、重い音。
鏡に映った顔はまるで恐怖映画に出てくる、今まさに惨殺される寸前の少女の顔。
切られた髪はバサリと音をたてて、床へと落ちていく。
後ろの方はもっと、もっと凄い音、ジャキ! ドサ、ドサ……。ジャキ! ドサ、ドサ……。ようやくその音が止む頃には、もう後ろの髪は私に見えないぐらいになっていた。
これ、私じゃないんでしょう? ねえ、そっくりさんだよ。ほら! 恐る恐る、髪に手を当ててみる。サイドの髪はサラリと小さな音をたてて私の耳のところではねる。そこから先の髪がない……ない――! 鏡に映った自分が正真正銘本当の姿と知り、私は一気に地獄の現実へ引き摺り戻された。もはや両目はこれ以上にないほどに開き、口はパクパクと醜く開閉するだけ……。
後頭部をグイと押され、私は無理矢理下を向かされた。床には切られたばかりの長い髪
が散らばっていた。
「――!」
私の口から出たのは悲鳴……。声はかすれて出ないが、心の底から出した、生まれて初めての悲鳴。そして後ろの方で再び鋏の音、シャキ、シャキ、シャキン。鋏はまるで私の髪を掬い上げるかのように進んでいく。
前髪を切る時には強引に鏡に顔を向かされた。
そして――ジョッキン、ジャッキンと、鋏が私の目の前で大きな音をたてる。
もういい! もういいよ!
最後はぎざぎざの鋏で刈り上げられた。あれ程切ったというのに髪は、次々と床に散っていった。
「お疲れ様」
私は恐る恐る顔を上げると、鏡にはまるで別人のような自分の姿が映っていた。
前髪は眉の前でスッパリと切られ、サイドは耳に少しかかる長さに一直線に切られている。後ろの方はもはや正面からだとわからない。でも、やけに後ろの方がスースーと涼しい……
「後ろはこんな感じでいいかな」
「は、はあ……あ、ああー!」
おじさんの手に持った小さな三面鏡に映る後ろ姿。それは私の想像を絶する姿だった。
サイドのラインに合わせるかのように後ろの髪は揃えられ、そこから項までは地膚が見えるほどに思い切りよく刈り上げられていた。
私はお金を渡して一目散に床屋を後にした。嘘であって欲しい。家の鏡に映せば元の自分の姿になっていて欲しい。
家に帰ると私の姿に両親は声を失った。そして取り繕った表情で「似合うよ」、「さっぱりしたじゃない」と固い笑みを浮かべた。
お父さんもお母さんも下手な芝居はやめてよ! どうせなら、気づかないふりしてよ!
私は、笑顔とも泣き顔ともつかない顔でそのまま自分の部屋に向かった。
祖母の形見で、私も気に入ってずっと使っていた鏡台に自分の姿を映す。
「あ、ああ! やっぱり……姿、同じ姿だ」
つい床屋に行く前まであった私の宝物。でも、もう今は……
今頃になって両目から涙が出てくる。後にも先にもこんなに泣いたのはこれが初めてだろう。
ーエピローグー
入学式当日。同じ学年の女子は皆私の頭をコピーしたような髪型をしていた。同じ髪型が講堂の中を埋め尽くしているのは、異様な光景だった。
「あれ? あの子……」
下校時に前を歩く女の子。どこかで見覚えがある。そうだ! 試験の時私の隣に座っていた女の子だ。あの時は胸のあたりのポニーテールにしていたけれど。
春風に舞うはずのポニーテールはなく、今は小さく揺れるだけだ。私は彼女の姿に親近感を覚えた。思い切って肩をたたき声をかけてみよう。
「ねえ。一緒に帰らない?」
ー了ー
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