エレベーターを止めないで
序章
一月二日、時計の針が15時を少し過ぎたあたりだろうか。
二人の男女の影が静まりかえった商業ビルに静かに入り込む。
「ねえ……直斗。本当にここでやるの?」
「忘年会の罰ゲームでやろうと言ったのはおまえだろ。絢」
「だってあのときは酔った勢いで……」
「一昨年はそのせいで俺が丸坊主にされたあげく、SNSでアップされて、 おまけにバズって。散々な目に遭ったがな!」
絢は調子外れな口笛を吹いて明後日の方向を向く。
やがて絢の視線にエレベーターホールが映ると、絢の足取りがピタリと止まる。
直斗は獰猛な笑みを浮かべ、背の半ば過ぎまで届く絢の黒髪に触れる。
「ここでルールを確認しておこう。エレベーターに乗っている間、絢の髪を バリカンで切る。もし途中でエレベーターが止まって誰かが乗ってくればそこでカット終了しても良い。もちろん絢が続けてほしいと言えば切るけど」
「とにかく人が乗ってくればそこで終了でお願い!」
「それじゃあ絢にエレベーターを選ばせてあげよう。もちろんここでエレベーターが開いて、誰かが出てくればそこで終わりだ。さあ、どれが良い?」
一気に高層階まで止まらないエレベーターはだめだ。絢は各階に3台のエレベーターのうち、真ん中のエレベーターを押す。
直斗は大げさに大きく手を広げ、高らかな声を挙げる。
「さあ、ゲーム開始だ」
第一章
直斗と絢はエレベーターに乗り込んだ。
無情にも絢が選んだエレベーターには誰も乗っていなかった。
「さて髪を切る前に準備をしないとな。いきなり切るほど俺だって鬼じゃない」
――お願い。エレベーター止まって! 誰か乗ってきて。
絢の切実な思いを裏切るかのように、エレベーターの階層表示の数字が次々と上がっていく。
ふと背後から聞き慣れないモーター音が響く。
直斗の獰猛な笑みが深みを増し、絢に残酷な一言を告げる。
「さあ、カット開始だ。とりあえず後ろの方から切っていくぞ」
ヴィーン……
直斗は絢の後頭部の真ん中の髪を一房手に取り、バリカンをよっくりと近づける。
チリチリ……ジジジ。ジョリジョリジョリ
バリカンの音が変わった瞬間、電流に似た嫌な刺激が絢の体中を駆け巡る。
「イヤ! イヤイヤ! 無理無理! やっぱりやめて」
「やだね」
直斗はバサリと何かを床に捨てて、絢の後頭部にバリカンを走らせる。
ジジジ。ジョリジョリジョリ。バサ!
「おっと……やべえ切った髪を落としちまった」
突然絢の目の間に落ちた長い黒髪。その髪がエレベーターの照明を浴びてつややかな光を浮かべる。
「いやああああ……」
「大丈夫。まだ後ろの真ん中と右側の内側だけを刈っただけ。残ってる後ろの髪でまだ隠せるよ。このあとエレベーターが止まればな」
――誰でもいい! 誰か乗ってこのエレベーターに乗ってきて。
第二章
直斗は上機嫌に口笛を吹きながら、絢の後頭部の髪をバリカンで刈っていく。
ジジジ。ジョリジョリジョリ。バサ、バサバサ!
「ヒッ! ウウウウ……」
「あーあ。後ろの髪、全部刈り終わっちまった。次は右サイドの髪な」
「う……そ……嘘でしょ。嘘でしょ! ね、ねえ! 鏡見せてよ」
「鏡? そういうのは後の楽しみにしようぜ。それより絢にボーナスチャレンジだ」
「ボーナスチャレンジ? なによ。どうせまたろくでもないことを考えてるだけでしょ」
「そんなことないって。ここでエレベーターを止めて別のエレベーターに乗り換える。別のエレベーター待っている間、誰か一人でもエレベーターに近づいてきたらそこでゲーム終了。
もちろんその別のエレベーターに誰か乗っていたり、後から誰か乗ってくればそれでもゲーム終了だし、このエレベーター止めたとき、だれかこのエレベーターに乗ってこようとしたり、エレベーター周辺に誰かいてもゲーム終了だ。どうする? このまま同じエレベーターに乗っていても良いぜ。誰か乗ってくるかもしれないしな」
「わかった。そのボーナスチャレンジに賭けてみる」
「そうこなくちゃ」
直斗は笑みを浮かべたまま次の階のボタンを押す。
ここでエレベーターが止めれば、誰かに会うチャンスは大きいはずだ――絢の脳裏に淡い希望が広がる。
このときの絢は忘れていたのだ。今日が一月二日であることを。
第三章
エレベーターが止まり扉が開くと、遅れてエレベーター周辺の照明が自動的に点灯した。
「嘘……」
「残念。誰もいないみたいだな。さ、別のエレベーターを選べよ」
そうだ。次のエレベーターに誰か乗っていれば……絢は祈る思いでエレベーターのボタンを押す。
エレベーターの電光表示がゆっくりとこの階の数字に近づいていく。
それにしてもやけに後ろが寒々しい……
「ね、ねえ……切ったところどうなってるの? 触るだけでもいいでしょ」
「今はだめだ。それよりエレベーター開くぞ」
エレベーターが止まり扉が開く。エレベーターの中には誰も乗っていなかった。
「残念だったな。さあ次は中継階までだ。それまで誰か乗ってくれば良いな」
「うるさい」
「ククク……さて右サイドを遠慮なく刈らせてもらうぜ」
うなじあたりに冷たい刃の感触を絢が感じると同時に、絢の耳に鈍いモーター音が鋭く突き刺さる。
ヴィーン……ジャリ! ジョリジョリ。バサ!
「イヤアアアア!」
「今のはもみあげだけだ。まだまだこれからだ」
直斗は容赦なく右サイドの髪にバリカンを走らせていく。
ジョリジョリ! バサ! ジョリジョリジョリ! バサバサ!
「もう許して! お願い! やめて」
「もうすぐ中継階だ。嫌でもすぐ中断してやるよ。それよりこのエレベーター、後ろに鏡が付いてるぜ。自分の姿見てみろよ」
絢は恐る恐る振り向く。
エレベーターの後ろに貼り付けられた大きな鏡に映った自分。
正面から左側にかけては背の半ば過ぎまであるいつもの自分の姿だ。
後ろの方は青白い地肌が映るだけ。さらに右側は耳がはっきりと映るぐらいに妙にすっきりしている。
「え……は? あ……ああああ! 髪が、髪がない!」
「あー。さっき右側もきれいさっぱり刈っちゃったぞ」
「うううう……こんなんじゃどこにも行けない……もう坊主にするしか……う、うううう」
「……残りもきれいに刈ってやるよ」
第四章
ヴィーン……ジョリジョリ。バサ! ジョリジョリ……パサリ。
「残りは前髪部分だけだからな」
直斗は絢の左側の髪を刈り落とすと、手早く前髪の方にバリカンを移す。
前髪の一房を手に取り、その下にバリカンの派を潜らせる。
バリカンの刃は黒髪の中に姿を消すが、髪を落としてすぐさま姿を見せる。
パサリ。パサリとバリカンによって切られた前髪が、絢の目の前を次から次へと通り過ぎていく。
「よし終わった」
「……触って良い?」
「どうぞ」
「……ジョリジョリする……あああ……もうどこにも髪がない。もう外出れない」
「安心しろ。ウイッグは用意してある」
「それ先に言って!」
エレベーターからふいに短い音がなった
「ねえ……」
「なんだよ」
「もしかしてこのエレベーター、止まるんじゃない」
「ああ……」
「なに悠長にしてるのよ! こんなくりくり頭、他の人に見せたくない! はやくウィッグ渡してよ!」
「待てよ。まだ止まるまで大分ある……あれ? ウイッグどこしまっちゃったっけ」
「ちょっと! ふざけてないで早く渡してよ」
もしかしたら、その間にエレベーターが止まる階が増えるかもしれない。そんな不安が絢の脳裏によぎる。
――お願い! エレベーターを止めないで!
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