天体観測
今日私は髪を切ることにした。
見知らぬ商店街の一角にある美容室で、背中を隠すまで伸ばした髪をバッサリ切り落とすことにした。
本当にいいの? と中年の女性美容師は、何度も私に鬱陶しいほどに確認した。
そのわりには思い切り良くバッサ、バッサと髪を切っていく。
頬に銀色の鋏が伝わるたび、私は何度も涙を堪えた。それでも鏡に映った表情は、情けないほど歪んでいた。
スルスルと艶やかな黒髪が、カットクロスを滑り台にして床へと落ちてゆく。
ずっと櫛をいれてきた髪。ヘアアレンジとか、アクセサリとかつけるのが大好きだった髪。その髪を銀色の刃が容赦なく切り落としてゆく。
ジャキジャキジャキという音が背後に映る。背に流れる髪があっという間に見えない
ところへ落ちていった。
「あ……」
切る前は髪に隠れて見えなかった後ろの光景が、今ははっきりと鏡ごしに見ることができる。
あーあ……
それでも鋏の音は鳴り止まない。耳を隠すほどのボブから耳が露になるほどのベリーショートに。そして露になった耳のところにヒヤリと鋏の感触が伝わる。
パラパラと耳に切った髪が当たり、さらに切られた髪は肩へと落ちる。
もう私の視界は涙でうすぼんやりとしていたが、切る前よりかなり頭が小さく見えた。
後頭部の方には鋏が何度も入る。
シャキ、シャキと項から頭上まで鋏が入っていった。
さらにぎざぎざした鋏で私の髪が切られてゆく。あんなに切ったというのに、バラバラと髪が振りそそぐ。
鋏の音が鳴り止むと、鏡の中に男の子みたいな私が映っていた。
望遠鏡を自転車の籠に載せ、思い切り良くペダルをこぐ。
ついこのまえまで逆風にあおられて、まとわりついた長い髪はもうない。
その代わりにまだ春には程遠いせいか、冷たい風が露になった首筋や項にまとわりつく。
その風の冷たさがかえって心地よく感じる。
和郎とよく行った川の土手で私は自転車を止め、望遠鏡をセットする。
去年まで和郎とよく一緒に観た天体観測。だが和郎はもういない。
私をほっといて遠いところへ行ってしまった。もう二度とは戻れない遠い、遠い場所。
長い髪のままだと見えないかもしれない。ひょっとして髪を切ったら、あいつの姿が観ることができるかもしれない。
自分でも浅はかで馬鹿な考えだと思った。それでも私は髪を切って、天体観測をしようと思った。
「和郎。あんたが好きだった長い髪、切っちゃった。似合うかな?」
望遠鏡を覗くと、暗闇に散らばる星星が目に入る。やはりその中に和郎の姿はどこにもない。
――やっぱり……
星星が涙で滲みだす。必死に涙をぬぐおうと思っても、涙は止まることはなかった。
ふとその時、
『……似合うよ』
とどこからともなく声が聞こえた。
慌てて振り向いてみたが、周りに人影はどこにもない。
和郎……きっとどこかで見ててくれてるんだね。
そう思うと、今までの痛いほどの寂しさが少し消えたような気がした。
来年もこの土手で天体観測をしよう。その時にはこの髪も少しの伸びている。
ー了ー
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