髪を切った女性たち-五つの抄
前書き
本作品はオムニバス形式です。どこから読んでも結構ですが、順番通りに読んでいただけると幸いです。
(一)最後のクリスマス
(二)ショートカットのサンタクロース
(三)始まりの儀式
(四)賢者の贈り物
(五)シザーズ・ラブ
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
(一)最後のクリスマス
待ち合わせはいつもの場所。
彼が時間通りに来ないのはいつものこと。
彼の心の中では私のことなんかきっとすみっこに追いやられていて、しかも埃なんかかぶっているに違いない。
彼に他に女がいるのはとっくに気がついている。
そう……私はピエロ。
知りながらも彼の前ではまるで気がつかない女を演じて、ずっと踊り続けているピエロ。
踊れば、踊るほど、彼がいなくなったとたんに胸の奥に虚無がしこりのように残る。
それもこのクリスマスで終わり。
ちょうど世紀末なんだから区切りをつけるのにはいいかもしれない。
「待った?」
わざとらしく息を切らせながら彼は私に駈け寄る。待ち合わせの時間から一時間半も遅れて。
私はいつものように静かに首を横に振る。
「私も今来たところ……」
(嘘……)
「そう。よかった。なんかさあバイトも長引いてさあおまけに電車が遅れて遅れて……」
(これも嘘)
「そうなんだ。なんか大変だったね」
「ああ、もう今日せっかくのクリスマスなのになあ……で、どうする? どっかで軽くメシでも食うか」
「それよりあなたに渡すものがあるの」
「お! なに? ひょっとしてクリスマスプレゼントってやつ?」
私は小さく作り笑いを浮かべて彼に背を向け長い髪を手繰り寄せる。
背中が隠れるほどの黒い髪……自分で言うのもなんだけれどサラサラしていてとても大好きな自慢の髪。私はそれを一掴みにして、内ポケットにしまっていた鋏を取り出す。
「……お、おい! なにを」
ザク!
彼の戸惑う表情を尻目に私は鋏を閉じた。
思っていたよりあっさりと切れた長い黒髪。振り向いて私は彼に切ったばかりの黒髪を手渡す。
「私から最後のプレゼント……。さよなら」
私はそのまま駅へと走り出す。次第に小さくなる彼の姿は顔を真っ青にして彫刻のように立ち尽くすだけだ。
やっと言えた。おしまいの言葉。
やっと切れた。彼が「きれいだよ」と誉めてくれた長い髪。
彼の想いの分だけ長い髪を切ったつもりだから、心の中は晴れやかだ。
それでも顎あたりで切った毛先がちくりと当たるたびに、すっかり覆い隠すものがなくなった首筋に冬風が通りすぎるたびに、少しだけ切なくなって悲しくなって少し涙が零れた。
今世紀最後のクリスマスにさようなら。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
(二)ショートカットのサンタクロース
「本当にいいんですね?」
美容師は三度目の確認の言葉を鏡の中に映る自分の姿をもう一度確認する。
いつもは背中にたっぷりと広がる自慢の髪は、いくつものカラフルなクリップにはさまれ、私の頭の上にたたずんでいる。
だれもがいつもよりも増してきれいになりたくなるクリスマスイブ。
「可愛く見える髪型にしてださい」とか
ヘアカタログを片手に「XXXXみたいな髪型にしてください」と言う女の子はいるけれど……
こんな雪が降りしきる凍えそうな夜に
「バッサリと男の子に見えるぐらいにうんと短くしてください」
なんてことを言うのは私ぐらいだろう。
「せっかくきれいに伸ばしているのにもったいない」
とか言いながらも美容師は手際よく切る準備を整えていった。あと鋏が入るだけ。
髪をバッサリ切ろうと思ったのはほんの出来心。
トレードマークの長い髪がなくなっても、ちゃんとあいつ私を見つけられるのかなって。
クリスマスイブにもし雪が降ったらバッサリ切ろう……
冗談半分のほんの出来心だったのに、天気予報でも『明日は雲一つない晴天となり、小春日和のよう天気になりそうです』って言ったのに……
「それじゃあ切りますよ」
という声がしたとたんに耳の下あたりに冷やりとした感触が当たる。
ジャキジャキと鈍い音がしたと思ったらバサバサと切られた髪が刈布をつたって俯き加減の私の視線に映る。
(あーあ……切られちゃった)
それでも鋏の音は鳴り止まない。
時々私のことを盗み見ているおばさんの目がいかにも
「失恋したのね。かわいそうに」
って目つきでなんだか嫌だった。
どのくらいたただろうか、「お疲れ様でした」という声とともに刈布外された。
鏡に映ったのは今まで見たことのない姿。小さ目の耳は丸出しになって、後ろの方の髪なんか全然見えやしない。
ケッコウイイカモ……
鏡に向って無理矢理私は微笑んだ。
再び駅前に戻ると、そこは車の騒音と電車の音それに周囲の人たちのざわめきでせっかくのクリスマスソングが台無しだ。
「ねえねえ? 聞いた聞いた?」
「なに?」
「ついさっきね。男の前で長い髪をねバッサリ切った女の人がいたんだって」
「うっそー。なにそれ。ちょっとキモイねえ」
「うん。でもさあすごいよねえバッサリ髪を切っちゃうなんてさあ。
あたしだったらぜったいできないな」
「で、その男の方はどうしたの?」
「なんかさあ。そいつったらさあボーゼンと立ち尽くしちゃってさあ。長い髪手に持ちっぱなしだったからさあ、さっきおまわりさんに連れてかれちゃったよ」
「なにダサイー」
――へー……そんな事があったんだ。
女子高生らしき二人の会話を盗み聞きしていると、背後から「真菜?」と聞き覚えのある野太い声。
振り向いたら驚き表情を浮かべたあいつの顔があった。
「おまえ……どうしたんだよ! その髪!」
「え? あ、エヘ、エヘヘヘ……切っちゃった……」
「なにが『エヘヘ』だよ! どうして切ったんだよ! あんなに自慢にしてたくせに」
「いやなんでって……気分転換のつもりで……なんだか急にショートにしたくなちゃってさ。それで」
「大ウソだろ。そんなの。なんでだよ? あんなに大切にしてたじゃないか。俺が髪を誉めたらいつでも喜んでいたじゃないか」
「……だって……長い髪がなくなっても……私かどうかわかるか不安だったんだもん」
「バカ……大馬鹿だな。おまえ」
「……私も……そう思う」
すっかり弱々しく涙で一杯になった私の顔を準一は大きくて温かい手でそっと優しく包みこんでくれた。
「ベリーショートでもロングでも真菜は真菜だろ?」
「うん……うん、うん!」
嬉しくなって私はおもわず準一の胸へと飛び込んだ。準一は顔真っ赤にして慌てふためいたけれど……
「なあ……」
「なに?」
「短いのもいいけれど……やっぱり俺……長い髪のサンタが好きなんだけど」
「……」
彼は「駄目?」と目で訴える。
わがままな真っ赤な顔のトナカイさんの唇をゆっくりと重ねた。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
(三)始まりの儀式
澄香は大きく伸びをして、白いカーテンから遠慮がちに外を覗いた。
(ホワイトクリスマスだ……)
白い綿状のものがちらちらとアスファルトの道路に落ちていく。
アスファルトから窓に映る自分の姿へ澄香は視線を移した。
少し明るめの栗色の長い髪……去年渋谷の美容室で染めた髪……。
ふいに部屋の扉が乾いたノックの音をたてる。
「澄香? 用意できたわよ」
「有り難うお母さん」
すでに居間にはフローリングの床にはビニールシートが敷かれている。
テーブルには鋏とバリカンが置かれていた。その二つが目に留まると澄香は一瞬強張った表情を作った。
「本当にいいの? 澄香」
「……うん」
中学から大学まで一貫教育の学校に通っていた澄香は、父の転勤の都合で違う私立高校へ通うことになった。
澄香が受験することになる高校は筆記試験と面接がある。澄香は面接対策に髪を黒く染め直すことにしたのだ。
「昨日澄香が言った髪型でいいのね」
「うん。バッサリやって」
きらりと蛍光灯の光を反射する銀色の刃、それが徐々に澄香の顎先に近づく。
チキチキと嫌な音をたててしだいに二筋の刃が徐々に交差する。
ジャキリという鈍い音が居間に小さく響くと、澄香の体内に幾筋もの雷が走った。
母の手に握られた鋏はゆっくりと澄香の髪を切り刻んでいく。
左半分はおかっぱ、右半分はいつもの自分……。鏡に映った自分の姿のあまりの滑稽さに澄香は歪んだ笑みを浮かべた。
後ろの方に鋏が進むと、バサ、バサと切った髪が澄香の背中を軽くたたいた。
残りの右側にも鋏が通ると澄香は顎下までのおかっぱ頭になっていた。
「このぐらいにしておく?」
目を真っ赤に泣き腫らしながらも鏡を見据える我が子に清美は柔らかい声をかけた。
「いいの……昨日、お母さんと決めた髪型にして」
母と昨日決めた髪型――サイドは耳が半分隠れるまで、後ろの方は思い切り刈り上げたおかっぱ――澄香の決意に揺るぎはなかった。むしろ清美の方が戸惑いの表情を浮べていた。
やがて意を決したかのように再び清美の手に握られた鋏が動き出す。
先ほどとは打って変わりシャキシャキと軽い音をたてて鋏が進んでいった。
「今日……お母さんね、美容院に行ったの」
「うん……」
「隣に座ってる女の子、そうね澄香より五、六歳年上の子かな……その子がね長い髪をバッサリ切っているところ見ちゃったの。
最初は失恋したのかなって思ってたんだけれど、なんだか違ったみたい……それでだんだん見ているうちになんだかつらくなっちゃって……」
「その女の人、泣いていたの?」
「ううん。そうじゃないの。これから澄香の髪を切るんだなと思ったとたんにね、澄香とその人となんだかイメージが重なって……」
「……お母さん」
パラパラと刈布に切られた髪が散ってゆく。そのリズムに安心したかのように澄香はゆっくりと瞼を閉じた。
鋏の音が鳴りおわると後ろの方で聞き覚えのないモーターの音が響き始める。その音の主はゆっくりと露わになった澄香の首筋に近づいてゆく。
――ザリッ!
そのとたんに澄香の両目はこれ以上にないというほど見開き、口は驚嘆を象る。
時々鏡から見え隠れする小さな棒のようなものが澄香の後頭部を這うたびに大量の栗色の髪が床へと落ちていく。
やがてバリカンの音がピタリと止まると、後ろから手鏡が映った。
「このぐらいでどう?」
手鏡に映った後頭部はあまりにも変わり果てていた。首筋は青白くくっきりと露わになり、
そこから耳の半分当たりまでは刈り上げられており、黒く短い地毛が無数に覗いていた。
「……お母さん」
「なあに?」
「もっと短く刈り上げちゃって」
「いいの?」
「うん」
再びバリカンは澄香の後頭部を撫でるように動き出す。
新しい環境、新しい学校、私も新しくなるんだ……
澄香はその言葉を呪文のように何度も心の中で繰り返した。
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
(四)賢者の贈り物
日下部和子はその日何度となくため息をついた。
あと数日で結婚してから五度目となるクリスマスイブ……。
新婚の時からずっと夫の身の回りのものばかり。五年目は例年と違うものをプレゼントしたい。しかしいざ考えるとなかなかこれといったものが思い付かないのだ。
夫が好きなもの……
お酒は日本酒とワインが好き。食べ物はお刺身とか魚料理が好き……そう言えばまだ大学生だった頃、夫はパフェとサンデーに目がなくてデートの時良く注文していたっけ。見た目はいかにも硬派の体育会系なのに……。
和子はその時の光景を思い出し思わず吹き出しそうになった。
――随分前に「髪を切らせて」と頼まれたことがある。もしかしたら冗談半分かもしれない。でも……
和子は腰あたりまで伸びる黒髪をしばし見据える。
高校の頃から伸ばし始めてそれ以来一度も短くしたことのない髪。
和子は意を決し、そっそく夫へのプレゼントの準備に取り掛かった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
パタパタとお気に入りの猫か犬だかわかりない動物の顔が入ったスリッパを鳴らして和子は夫を出迎える。
下駄箱にはクリスマスに合わせたテーブルクロース、その上には雪だるまに模したぬいぐるみとサンタクロースの小さな人形が置かれていた。
「ごめんなさい、あなた。しばらくそこで待っててくれる?」
「? ああ、別にいいけど……」
その言葉を耳にするなり和子は急ぎ足で居間へと戻っていった。
――まだできていないのかな? いつもなら手際よく準備しているはずなのに……さてはなにか企んでいるな
夫は訝しみながらも玄関で待つことにした。
「あなた。もういいわよ」
「ああ」
居間の奥から和子の声が聞こえると同時に、夫も落ち着いたばかりの腰を上げる。
居間に入り和子の姿を見るなり夫は思わずその場に立ちつくした。
和子は白い刈布を身に纏いテーブルの椅子にちょこんと座っているのだ。
「……おまえ……なにやってるんだ?」
「あなたに髪を切ってもうの」
「……なんで?」
「前に私に言ったでしょ。『髪を切らせて』って」
「でも和子、おまえ……」
「いいの。これが自分自身でできる精一杯の贈り物だから。……だめ?」
「いや……俺は嬉しいけれど。本当にいいのか?」
和子は夫の両目をじっと見据え、こくりと小さく肯いた。
「わかった。どうせならビデオに撮ろう」
「そ、そんな!」
「いいだろう。二人にとって忘れられない思い出になるはずなんだ。だからそれをずっと
とっておきたいんだ」
「いいわ」
夫は妻の横顔の方にビデオカメラを置いた後、丁寧に霧吹きで妻の髪の一房一房を濡らしてゆく。
和子と付き合い出したのは高校一年の時。その時は肩につくかつかないかぐらいの長さだった。
『なあ……和子』
『なに?』
『おまえさあ、その髪さあなんとかしろよ』
『なによ。いきなり』
『せっかくきれいなのに長さが中途半端なんだよな。切るかもう少し伸ばすかどっちかに
しろよ。なんなら俺が切ろうか。こう見えてもケッコウ器用なんだぜ。な、切るんだった
ら俺に切らせてくれよ』
『……じゃあ伸ばす』
『……なんだよ』
『だって変な髪型になったらやだもん。だったら伸ばす』
『いいじゃねえかよ』
『だーめ。もう伸ばすことに決めたんだもん。そうだなあ……この髪が腰を超えるぐらい
までになったら考えてもいいかな』
『本当か?』
『うん……でもそこまで伸びるのは十年ぐらいかかちゃうかもね』
『なんだよ……』
夫は和子の髪を櫛で梳かしている途中で突然思い出し笑いを浮かべた。
「なんですか?」
「いや……昔おまえが髪を伸ばすと言った頃を思い出したんだ。あの時お前、腰が超えるぐらいまでって言っただろう」
「ええ、憶えてる」
「今おまえの髪がちょうどそのぐらいの長さになって、約束通りになったんだと思ったら……ついな」
「あ……そうね。うふふ全然気づかなかった。その長さまで届いていたなんて」
「うそつけ。毎日鏡見て梳かしていたらわかるじゃないか」
「本当よ」
「じゃあ切るぞ。どういう髪型がいい?」
「あなたに任せるわ」
「わかった」
夫の厚く大きな手に握られた鋏がゆっくりと和子の左側に近づく。
ジョキリ……
左サイドに流れる長い黒髪がバサリと音をたてて床へと落ちた。
今にも泣きそうな表情を浮かべながらも和子は壁に掛けた――和子の顔がようやく映るぐらいの大きさの――鏡をじっと見据えている。
左側がとたんに軽くなると次は後ろの方でけたたましい音が聞こえ始めた。
バサバサ、バサバサバサ……
あっという間に右側にも鋏が入ってゆく。
「ほら」
「え?」
「昔の伸ばす前の髪型」
「本当……でも顔はもうおばさんね」
「それじゃあ俺はオヤジだ。もっと……思い切り短くするけどいいんだな」
「いいの」
夫は一度小さな音をたてていたビデオカメラを止め、それを和子の正面に置いた。さらに夫は電気カミソリの少し大きくしたものを取り出した。
「あなた? バリカンなんていつ買ったの?」
「お前と結婚して間もない頃にさ。いつかこれが使える日がくればいいと思って」
バリカンのスイッチが入ると軽いモーター音が響き始めた。その音がゆっくりと和子の首筋に近づく。
ヴィーン……ジョリザリザリザリ……
その瞬間和子の両目から涙が流れ始め出した。バラバラと切られた髪が和子の背や肩をたたくたびにくぐもった泣き声を小さくあげる。
「……あなた、お願いだから……ビデオ止めて……」
「なんで?」
「だって。こんな涙でくしゃくしゃになって顔……恥ずかしいから……」
「ありのままのおまえを撮りたいんだ。俯かないでじっと鏡を見つめて」
「バカ……バカ……バカアア……」
――ジョリジョリジョリ
和子の弱々しい抗議の声はバリカンの音で掻き消されていった。
「できたぞ」
「これが……私?」
バリカンが鳴り終わりようやくまともに鏡を見つめられるようになった和子は信じられないような表情で自分の姿をしげしげと見つめる。
サイドも、きっと後ろも刈り上げられた男の子のようなベリーショート……
和子は刈り上げた部分を何度も手で撫で付ける。
ザラザラとした感触で刈り上げられた髪は、なんの抵抗もなく和子の手の平を頭上へと運ぶ。
「こんなに短くして……」
「だめか?」
夫はさすがにやりすぎたかという表情をあからさまに浮かべ、鏡の中の和子を覗き込む。
「ううん。とってもいいわ。でも今、冬でしょ。これじゃあ寒くて仕方ないわ」
「大丈夫。冬の間ずっと俺が暖めてやるよ」
「バカ……」
今にも湯気が出そうなほど顔を赤くした表情で和子は夫の唇を求める。
「じゃあ、あなた……今夜からお願いします」
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
(五)シザーズ・ラブ
――前略
突然文をしたためたことをお許しください。
私たちは鋏。二つの別々の体と意識を持ちながらも『一体』としてみなされている鋏です。
鋏の話をしましょう。特に髪を切るためだけに生まれた鋏の話を。
私たち、鋏は数え切れないほどの髪を切っています。
白髪交じりの髪や、もはや地毛の色がどんな色をしていたか分からないほど染め重ねられた髪や、それに黒く真っ直ぐな髪まで。時にはくせのある毛だったり、柔らかい髪だったり、硬い髪だったり、細い髪だったり、しっとりとした髪だったり……その種類も様々です。
しかし、どんな嫌な髪でも、どんなに愛しく思えた髪でもその逢瀬はわずかな時だけ。
それはご主人様の手に握られ、そしてその髪を切る瞬間だけ。
やっと会えたと思ったらあっという間に私たちもとから離れていってしまう髪。
それは切るためだけに生まれた鋏の宿命のようなものですから仕方のないことなのです。
それでも時々空しくなることがあります。
――どんなに拒んでも触れなくてはならない
――どんなに望んでも一瞬しか触れることができない
それでも私たちは鋏として生を受けたことを幸福だと思います。
確かに一度切ってしまえば終わりですが、再びその髪が伸びればまた会うことができるのですから。
それにあの時切った髪はどうしたのか。どのぐらい伸びたのか。そういう想像するだけでこの身が一杯になるほどワクワクするのです。また今まで一度も巡り合えたことのない髪に触れることもあるのです。
もし機会がありましたら私たちに胸の中で結構ですから是非声を掛けてください。
「また会いにきたよ」とか「はじめまして」とか。
嗚呼、もしかしたらこれを読んでいる貴方の髪に会えるかもしれません。
その機会をお待ち申し上げております。
草々
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了
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