初恋
今日私は髪を切ることにした。
十年ぶりに訪れた郷里に着いてもその気持ちは揺らがなかった。
駅に着くとあの頃とはすっかり姿を変えた町並みが私を迎えた。
十年前駅前にはお世辞ばかりの小さいキヨスクと喫茶店。大きい木を目の前にあるバス
停以外は、田園風景と遠くにたたずむ険しい山岳があるだけだった。
それが今では高層ビルとマンションが立ちはだかり、あの田園と山の風景は小さく追い
やられているような気がする。
変わり果てた風景を見ても私はさしてショックを憶えることもなく、商店街へ足を向け
る。この風景のように私も変わってしまったのかもしれない。そしてあの人も……。
前略
鹿山優美子様
ご無沙汰しております。
お変わりなくお元気でお過ごしのことと存じ上げます。
この度、私ども下記の住所へ移りましたのでお知らせ申し上げます。
こちらへお越しの際にはぜひともお立ち寄りください。
△△県○○市◇◇◇町1-23-5
TEL:xxx-xx-xxxx
首藤将人
素っ気ない移転知らせの差出人を初めて見たとき、私は思わずお気に入りのマグカップ
を紅茶ごと床に落としそうになった。
高校の時に初めて好きになった人。初めて失恋をした人。
たしか高校卒業と同時にカリスマ美容師を目指し上京したはずだ。その後それっきり全
く彼の音沙汰がわからなくなり、私の記憶からも徐々に彼の面影は小さくぼやけていき、
あの手紙を見るまでは全く思い出すこともなかった。
本当は来るつもりはなかったのに、私はいつの間にかこうして彼の引っ越し先へ足を伸
ばしている。
今彼はどうしているのだろうか。結婚しているのだろうか? 子供は? 美容師になっ
たのだろうか? それとも他の仕事をしているのだろうか?
小さな疑問がふつふつと沸きだし、しだいにそれが積もりに積もり、今では私の頭の中
であふれんばかりの状態だ。
やがてチェーン店の理容室と小さな本屋を挟んで見えるが見えると、その先は住宅と田
園が建ち並びがたたずみその奥にたたずむアーチが商店街の終わりを告げる。
アーケードの奥に悠然とそびえる山はあの時と同じままだ。その山から振り下ろすよう
に強い風が商店街の前に吹き込む。暖冬とはいえこの時期の冬風は体が縮むほど冷たい。
背中が隠れるまで伸びた黒髪が乱暴に中に舞う。十年前よりは伸びてはいるが長い髪の
ままであることには変わらない。
風が落ち着いたあと、乱れた髪を手で直すのに私は窓ガラスのある理容室に視線を向け
た。
比較的狭い店内に移るのは一人の店主と一人の客。店主は髪を染めていなければ私と同
じぐらいだろうか。初老のお客は気持ちよさそうに顔を剃られている。
やがて反対側に店員が回った時に見えた横顔に私は目を奪われる。
将人!?
もっとゆっくり探すはずだった。それよりもこんなに簡単に出会えるとは思ってもみな
かった。
散髪が終わったのか、初老の客は会計を済ませ足早に店を去っていった。
店内にはただ一人将人だけが残り、次の来客のための準備をしている。
もし私が店に入っていったら、すぐに彼は気づくだろうか? 気がつかなかったら……
ううん、すぐに気づいたら、この髪をバッサリと短く切ろう。
まるで自分が自分ではないような想像に包まれながら、私は吸い込まれるように店の中
へ入っていった。
自動扉が開くと当時に明るい声が耳に心地よく響いた。
「いらっしゃいませ」
彼は私の姿を見ると驚いた表情のまましばし呆然とし、まるで壊れた人形のようにゆっ
くりと口が動き出す。
「ゆ、優美子か」
「久しぶり」
気づいてくれた、それだけで胸が一杯になる。
「元気だったか?」
「うん、なんとかね。ねえ、それよりお願いがあるの」
彼はあきれたように大きなため息をつく。
「なんだよ。久しぶりの再会をしてみればこれかよ。まったくおまえは昔からかわらない
よなあ。それで、なんだよお願いって言うのは」
「うん、この髪をね切って欲しいの」
「へ? 切るって……」
「いいの。少しうざったくなったから、思いっきり短くして欲しいの」
*** ◆◆ ※ ◆◆ ***
「いいのかよ。本当に」
「うん。っていうか、一応お客さんなんだから、お客さんに接するようにやってよ」
霧吹きをかけながらも彼は不安げな表情を露わに鏡に映している。もうすぐやれやれと
言うに違いない。
「やれやれ……それじゃあお客様どのぐらい短くされますか?」
ほーら、やっぱり。すっかり気が軽くなった私はとっておきの言葉を返す。
「うんと短く刈り上げてください」
「か、刈り上げって……おまえ」
「ほら。接客、接客」
「刈り上げですか……バ、バリカンは使ってよろしいですか?」
バリカン。普段コマーシャルで何気なく聴いている名前なのに、今は恐ろしく緊張する。
「はい」
「上の方までバッサリと短く刈り上げてよろしいですね?」
「はい」
ゆっくりと椅子が上がってゆく。もうすでに私の鼓動は今にも飛び出しそうだ。
彼は先ほどの表情とは打って変わって真剣な表情をしている。
顎先に鋏が当たると同時に鈍い金属音が大きく耳に鳴り響く。
――ジャキリ!
バサリと一気に長い髪が私の見えないところへ滑り落ちる。あっという間に反対側にも
鋏が入る。 ――ジョキ、ジャキ、ジャキン
首筋にひやりとした金属の感触がした瞬間、重い音と髪が滑り落ちる音が響く。
ザク、ザク、ザクリ。スルスルスル。バサ……
今までずっとあった長い髪がたったこれだけで断ち切られてしまった。そう考えると今
にも泣きたくなる。
彼はことりと鋏が置くと、鏡の澄で眠っていてものを手に取った。
カチリとスイッチの音の後に低いモーター音が小さく鳴り響く。
耳下あたりにとんとなにかが当たる瞬間の後、バリカンがあっという間に髪を耳の下か
ら耳の上あたりまで刈り上げてゆく。そしてそのまま耳に沿ってバリカンが動いてゆく。
そのたびに髪が一房ごとにカットクロスへ束になって舞い落ちる。
右半分は顎までのおかっぱの私。左半分はまるで男の子のようになってしまった私。そ
うしてと頼んだのは私なのに、まるでなにかの罰を受けているような気分になった。
反対側にも容赦なくバリカンが入る。耳の上まできっちりとバリカンのは私の髪を短く
刈り取っていく。もうこのまま丸坊主になってもいいや、とやけな気持ちもわき上がる。
今の自分は明らかに変だ。まるで情緒不安定というか、自分が今ここにいないような気分
だ。
首筋にバリカンの刃が当たる。わずかの間もおかないうちにバリカンの刃は首筋から進
入し、そして一気に頭上近くまで進んでいく。ある髪はそのまま床下に、ある髪はほかの
髪とほつれながらカットクロスに、そしてある髪は首筋に伝わりやがて床下に。
バリカンの音が鳴りやむと、彼は素早く鋏に持ち替えて髪を切りそろえていく。
「こんな感じでいかがですか」
背後から映った私。それはまるで別人だった。まるで少年のようになった私。髪を短く
刈られたせいか、すこし顔がほっそり見えた。
「ははは……ボーイスタイルというか坊主みたいだねこりゃ」
「いや結構イケてると思うぞ。俺は」
前髪は眉の上あたり、横の方は頭の上に髪が流れているけれど、そこから下は地肌が透
けるぐらいに刈られた髪が松の葉のように短くなって立っている。後ろの方は正面から見
えないけれど、後ろの鏡から見ると横と同じように短く刈られている。
おそるおそる手で後頭部を触ってみる。シャリシャリとした感触。まるで何かの動物を
さわって見るみたいだ。意外と感触がよく気持ちよくていつまで手でなでたくなる。
「ほんと。結構いいかも」
カットクロスが外され、私は勢いよく立ち上がる。頭が軽くてグラグラするが、自分が
生まれ変わった気がしてかなり気持ちがいい。
「なあ……優美子」
彼は何か言いたげな言葉を今に吐き出しそうになる。
「はい、料金。じゃあ……ね。将人」
「あ、有り難うございました」
彼は寂しげな表情を見せながらも笑顔で私を送り出してくれた。
「さよなら」
「……じゃあな」
この日ようやく私は長い髪と一緒に初恋を捨てることが出来た。
完
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