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彼女が髪を切った瞬間 ー朋子の場合ー

  ー1ー
「今日はやけに静かだな」
 俺は二メートルと離れていない隣の朋子の部屋をカーテンの隙間から覗いた。
 いつもは演劇部の練習なのかリズミカルな音楽をかけて踊っていたり、時には大きな声を出して発声練習をしていたりするのだ。
 一番近い俺としてははた迷惑もはなはだしいのだが、たまに役得もある。
 いつもは背中の真ん中であるつややかなポニーテールにまとめている髪をほどく時だ。
 彼女がリボンをほどくと、つやのある黒髪がファサリと背中で踊るのだ。
 それは直線的にまとめられた髪がまるで今までリボンに縛られていた解放感を歓喜するかのようである。
 朋子のポニーテールも十分に魅力的だが、髪をほどいた方が太陽の光を浴びて光沢を増しより魅力的だ。
 俺はその光景を見るたびに何とも表現しがたい興奮を覚えるのだ。
 だが今日の朋子は部屋に入るなりただ鏡台を呆然と見つめている。
 いったいどうしたのだろうと、俺は朋子の様子にいぶかしんだ。
 そしてその直後俺は一生脳裏に焼き付いて離れないであろう光景を見ることになる。

  ー2ー
 朋子は何かを決心したかのように鏡に強張った顔を向ける。
 そしてポニーテールの根元を無造作に片手でつかんだ。
「お、おい。ま、まさか……」
 急に俺の鼓動が激しいテンポになり、カーテンを握る手には汗が滲み出す。
 俺は固唾を飲んでその光景を見詰めるしかできなかった。
 朋子は掴んだポニーテールの根元にゆっくりと鋏を近づける。
 きらりと銀色の刃が朋子のポニーテールに光ると、その光が勢いよく閉じられる。
 ジョキ……。
 聞こえるはずもない切られた髪の断末の悲鳴が俺の耳に響いた。
 ハラリとギンガムチェックのリボンが落ちた後、黒い髪が束になって床にバサリと落ちていった。
 朋子は不揃いに肩の長さになった髪に次々と鋏を入れていく。
 サイドは耳が露わになり、前髪も眉のところまでに朋子は切ってしまったのだ。
 朋子の目からはすでに大粒の涙が出ていた。そして後ろの髪を掴み直すと再び鋏を入れていった。
 俺は言い知れぬ罪悪感と未知の興奮で気がおかしくなりそうになり、たまらずカーテンを閉めた。
「何をこんなに興奮してるんだ?」
 俺の戸惑いをよそに興奮は依然収まらず、心臓の鼓動も高鳴っていた。

  ーエピロ-グー
 翌日朋子の髪はさらに短くなっていた。
「お猿さんみたいでしょ。あーあ、ベリーショート計画大失敗」
 俺と目が合うと朋子は苦笑いをこぼした。
 今度演劇部で男の子に配役が決まり、役になりきるために髪を切ったのだという。
「へー、結構ショートもイケテルじゃん」
 俺は朋子の短い髪を手でくしゃくしゃにして足早に逃げた。
「もー、せっかく朝苦労して整えたばかりなのに」
 朋子は怒って俺を追いかけてくる。
 髪型はすっかり変わってしまったが、朋子は相変わらずいつもの通りだった。
 俺は足を止めて、小春の風になびく短い髪を見守る。
 朋子が追いつくまでしばらくショートの朋子を見ておくことにした。
  ー了ー

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