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初めての家庭散髪

 10回目の結婚記念日まであと一週間足らず。結婚記念日にはお互いに欲しいものやして欲しいことを頼める唯一の日だ。
 お互い無茶な頼みごとでない限りは相手の頼みを聞くのが大原則だ。だがここ五年陽一の頼みは門前払いとなり、その都度ネクタイやシャツなどに替えられた。
 今日こそ言おう! 今日こそ……
 村中陽一は帰途の間その言葉を何度も心の中で呟く。
 陽一長年の夢――それは妻の髪を一度でいいからこの手で切るということ。それも思う存分。もっとも背中の真ん中すぎまで伸びた艶やかな髪を切らせろと言われれば、女性なら誰でも引くのは決まっている。その髪を本人が自慢にしていればなおさらだ。
 それでもなんとかして髪を切ってみたい。だから10回目を山車にして玉砕覚悟で言ってみるのだ。
 陽一は固く拳を握り締め勢いよく玄関の扉を開いた。

「ただいまー」
「おかりなさい」
 パタパタと妻の桃子がスリッパを鳴らすたび、背中に流れる髪が左右にゆれる。
 ドキン! それを見ると陽一の鼓動は激しく鳴り響き始める。
「今日は早かったのね?」
「ああ……もうすぐ結婚記念日だからな」
 そう答えると妻は幼い顔満面に喜びの表情を浮かべる。
「嬉しい! 憶えてくれてたんだ」
「当たり前だろ。俺たちは夫婦なんだ。それに今度こそは」
「あなた……」
「う……な、なんだ?」
「まさか今年も『おまえの髪を切らせてくれ』って言うんじゃないでしょうね」
「いいじゃないか少しぐらい」
「少し? そう言ってバッサリ切るつもりなんでしょ」
 よ……読まれている! 陽一は内心ぎくりとしながらも平静を装う。
「そ、そんなことはないぞ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
 桃子はいきなり陽一の唇を上下に引っ張る。
「正直におっしゃい」
「い! いたたたた! も、もほほ! や! やへなはい」
(訳:い! いたたたた! も、ももこ! や! やめなさい)
「じゃ、正直に言って」
「だ……だから……だな。もうすぐ暖かくなるんだし。たまには夫婦の異なる交流をだな」
「なにわけのわからないこと言ってるんです! とにかくだめったらだめ!」
「いてー!」
 ぎゅー! っと思いっきり陽一の頬をつねって桃子はつかつかと居間へ入っていった。
 居間の扉からスルスルと村中家族の一員であるフェレットのリンクスが心配げに体を摺り寄せてくる。
「前途多難だな」
 陽一がリンクスの体を優しくなでると、リンクスは嬉しそうにペロペロと陽一の手をなめて慰めた。

 ――まったく! 陽一さんったらしつこいんだから!
 桃子は鏡に不機嫌な表情を映し一房一房丹念に黒髪を梳かしてゆく。
 中学生の時に「ももっちも髪きれいなんだから伸ばしてみれば」という女友達の一言がきっかけだった。
 大学入学の時に陽一と知り合いあっと言う間に深い仲になった。その時は陽一も自分の長い髪をよく褒めてくれた。
 あの時の陽一の言葉は偽りだったのだろうか? それとも陽一は自分の知らないうちにすっかり変わってしまったのだろうか……。もしかしたらこの自慢の髪が陽一にとってすっかり魅力を失ってしまったのだろうか?
 桃子はため息をもらし鏡台に櫛をしまい、鏡に映る自分の姿を見つめる。
 長い髪をたくし上げ桃子はショートヘアになった自分の想像をする。
「短くするのはやっぱり……」
 桃子は深いため息をもう一度ついて鏡台を離れた。
 フンフンと鼻をならしながらフェレットのリンクスが桃子の足下をぐるぐる回り出す。
「あら……ごめんなさい。心配しないでね。私はこの通り元気なんだから」
 桃子はリンクスを抱き寄せ自分の顔へと近づける。リンクスはまるで「元気を出して」と言わんばかりに桃子の鼻をペロペロなめ始める。
「ふ、ふふふふ……こら! リンクス止めなさい。私は大丈夫だから。ふふふふ……
 妻を困らせるなんて困ったお父さんね」
 桃子がリンクスの頭を優しくなでるとリンクスは桃子の首筋にまとわりつく。
「ほら……もう! 髪の中に潜り込まないでよ。あーん、せっかくたった今髪を梳かしたばっかりなのに。もう髪がぐちゅぐちゃになっちゃうじゃない」
 そんな桃子の言葉を無視するかのようにリンクスは桃子の髪にじゃれつき始める。
 桃子はじたばたと暴れるリンクスの体を首筋からなんとか引き抜く。
「め!」
 リンクスはすまなそうに顔をうなだれる。
 桃子はくすりと苦笑いを浮かべ顎下をゆっくりとなでた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 結婚記念日前日、陽一は再度アタックをかけることにした。ここであきらめたら営業マンの名折れだ。陽一もあきらめるわけにはいかない。
 相手のアプローチに合わせて臨機応変に対処をする――それしかない
 玄関に入るとエプロン姿の妻が笑顔で迎える。
 「ただいま」
「おかえりなさい。ねえ、あなた今晩のおかず唐揚げでいいかしらそれともほかのにします?」
「いや……刈り上げでいいよ」
「……あなた?」
「うんうん。やっぱり春らしく……」
 にわかに台所でシャリシャリという音が聞こえ始める。
「何の音だ?」
「包丁をね、研いでいるの。もっと切れやすくしたほうがいいかなっと思って。
 それで、唐揚げでいいのかしら? あ・な・た」
「……唐揚げで結構です」
「はい」
 桃子はにっこりと微笑んで研ぎ澄まされた包丁をおもむろにしまいこんだ。だが陽一の背中にビシビシと伝わる冷気は消えなかった。
 それ以来陽一と桃子の間に少し気まずい雰囲気が流れた。そのまま二人は結婚記念日当日を迎えた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

「あなた、結婚記念日のおかずなにがいい?」
「そーだな。かりあげがいいな」
「あ・な・た?」
「だから……刈り上げ」
「……もう一度言ってくださいな」
 妻はにこりと笑顔を浮かべ俺の口を思いっきり横に広げる。
「ひゃ、ひゃひはへ! い! ひぃー! い! いひゃひゃひゃ! ひょ……ひょひょきょ! ほ……ほへはわふはっは! だきゃら……ひょひょへをひゃにゃひははい!」
(訳:か、かりあげ! い! ひー! い! いたたた! も……ももこ! お……おれがわるかった! だから……その手をはなしなさい!)
「じゃ……あなたもう一度」
「だ……だから、か、かり、あげと……今日こそは……屈しないぞ」
「まあ、今日は頑張るのね。じゃ、これで言ってみて」
 妻の桃子はこちょこちょと俺の体をくすぐり始める。
「ぷ……か……りぷぷぷ! ぶわっははははははははははっはは! ひ……ひきょうだぞ! 桃子ー! ぐわっははっは! ひー! お……おまえ! あ、足の裏だけは! うひー! ひひゃはははあはっははははは! ひー! ひー! いっへはる! ぜったい! か……りあ……ひゃーはははっはははは げ……はははっはははははっは! 道具まで、道具まで使って……わはははははははっはははっはははははは!」
「……そんなに切りたいの?」
「へ?」
「そんなに私の髪切りたいの?」
「き、切りたい」
「もう……もう、もう! わかったわよ。そんなに言うならいいわよ」
「い……いいのか?」
 妻は俺に向かって悪戯っぽく微笑む。や、やな予感だ……陽一は胸の不安に心臓を躍らせる。
「その代わり」
「その……代わり?」
「ヨーロッパ海外旅行!」
「な!」
「いやならいいのよ。この話はなし」
「わ……わかった……のもう」
 陽一は一も二もなくその条件を受け入れた。しかしこれで陽一はこっそりやっていた貯蓄預金をほぼ全額おろさなければならない。陽一は顔で笑い、心で泣いた。

 陽一は丁寧に桃子の髪を霧吹きで濡らしていった。鏡に映る桃子の顔はすでに不安一色だ。
「ちゃんときれいに切ってくださいよ」
「わっかってる、わかってる」
 陽一は小躍りする鼓動を抑えながら桃子の顎下のところに鋏を滑らせる。
「ちょ、ちょっと!」
 桃子は慌てて陽一を静止しようとするがときすでに遅い。陽一は鋏を握った手の力を入れる。
 ジョキ……ン! という鈍い音が部屋に響いたかと思うと、ケープごしに切った髪が桃子の腕をスルリと流れた。桃子の顔は口をポカンと開き見る見る間に蒼白になってゆく。
 陽一はかまわず鋏を進めた。
「……どい……ひどい」
 ジョキン、ジョキンと鋏の音が響くたびに桃子の体がピクリと微動し、うわ言のようにその言葉を繰り返す。左側を顎下あたりできれい切り揃え右側にも鋏を入れる。手鏡に映った桃子の顔は半泣き状態だ。
 内心ドキドキしながらも陽一は努めて冷静に桃子に切り出す。
「後ろのほう、刈り上げてもいいか?」
「もう……好きにしてよ」
 ジーというモーター音が鳴り響くと桃子の顔はきょとんとした表情をかたどる。かまわず陽一はまだ長い後ろの髪を掴み、露わになった項にバリカンを入れる。
「ちょ! あー! あー! ああー!」
 ザリザリと音を立てて進むバリカンの感触に桃子は飛び上がりそうな勢いで驚く。
「お、おい! 暴れるなって……あ……」
「なに?『あ』って……今の『あ』ってなによ」
 桃子が振り向くと同時に30センチは優に超える髪がバサリと床に落ちる。
「いや……その」
「……見せて」
「いやまだきれいに整えてるところだから」
「いいから見せなさい!」
 陽一はしかたなく後ろから鏡を差し出す。後頭部の右側は長いままだ。だが左側の一部はすっかり変わり果てていた。項は地肌が透けるほど短く刈り込まれ、そこから耳のところまで刈り上げられている。
 桃子の顔は両目を飛び出さんばかりに大きく見開き、顔色が壊れた信号機のように赤と青を繰り返す。
「い、いやあ……あああああああああああああああああああああ! どうするのよ! どうするのよ! こんなに刈り上げちゃってー」
「だって急におまえが動くから」
「だってじゃないでしょ。ああ……首筋のところこんなに短くしちゃって。も、もう……だ……だから……あれほどいやだって言ったのに……もういいわよ。切り揃えちゃってよ。こんままじゃ外出れないし」
 ついに桃子は泣き出してしまった。さすがに陽一はこのまま桃子の髪を切りつづけてよいのか戸惑ったが、いくら迷ったところで元には戻らない――陽一は再びバリカンのスイッチを入れた。
 ブィーンというモーター音が首筋に入り込んだとたん鈍い音に一変する。
 ザクザクと長い髪が切られるごとに桃子の目からボロボロと涙が溢れ出す。それでも桃子は片手に持った手鏡をじっと見つめている。
「ここまで伸ばすの……大変だったんだから」
「だから、ごめん」
「謝っても許さないから!」
 涙でくぐもった桃子の声がバリカン混じりに陽一の耳にチクリと突き刺さる。
 結局桃子の髪型は耳下あたりの前下がりボブで落ち着いた。もともと顔が小さく童顔なせいか、短い髪の桃子は若々しく見えた。
 切り終わるなり桃子は陽一の頬に強烈な平手打ちを一発浴びせ、そのまま無言で買い物へ行った。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 すっかり短くなったせいで露わになった首筋を桃子は何度も手でさする。風が吹くたび後頭部がいやにスースーする。なんども後ろのほうに手を当ててみるが思い切りよく刈り上げた後頭部の感触に慣れることができない。
「あら? 村中さん?」
「あ……」
 スーパーの入り口で今一番会いたくない人物――隣近所の近藤節子――に会ってしまった。桃子はあわてて作った笑みを返す。
「こ、こんちは」
「『こんにちは』じゃないわよ。どうしちゃったの? バッサリ切って」
「ああ、あのちょっと気分転換に入った美容室で切られちゃって、変でしょ。短いの似合わないのに」
 夫に切られた、などと言おうものならたちまち節子の口から町じゅうにとんでもない噂が飛びかねない。桃子はあらかじめ用意した嘘をついた。
「ううん! すごく似合ってる。素敵ねー。ねえ、ねえどこにあるの?」
「え?」
「もう! とぼけないで。ね、減るわけじゃないんだから」
「あ、あ……あのう……それがたまたま通りかかった小さな美容室でね。今日入ったら『本日で当店も店じまい』とか言われてね。それで私が最後のお客だって言うから、つい思い切ってまかせてみたの。だからもうその店閉めていると思うわ」
 桃子は気晴らしに散歩でたまたま見かけた閉店の張り紙ついた小さな美容室の場所を教えた。節子は礼の言葉を軽く済ませいそいそとスーパーから姿を消していった。
(そんなに似合ってるかしら……)
 桃子はまじまじとスーパーのガラス戸に映る自分の姿を見つめる。そこに映ったのは今まで見たことのない自分だ。
 ザクザク切られているときは思わず泣いてしまったが、改めて見るとさほどおかしな髪型ではない。そう思うと今まで入りづらかったスーパーもすんなりと入っていけた。
 スーパーで会った顔見知りの店員や知人は桃子の新しい髪型を見て一様に驚きそして羨望のまなざしで見つめた。買い物をし終えスーパーを出る頃には桃子はすっかり上機嫌になっていた。

「やっぱり謝らなきゃなあ……」
 赤くなった頬をさすり達彦はため息交じり時計を見つめる。
 すでに家を出て二時間たっている。もしかしたらどこかの美容室に行って整えてもらっているのかもしれない。きっと泣きながら髪を切っているに違いない。
 ずっと自慢に伸ばしていた髪をあんなにバッサリ切るなんて。してはならないことに違いない。それも不可抗力にしろあんなに短くしたら誰だって怒るに決まっている。
「ただいま」
 達彦の耳に桃子の声が入る。謝ろう、そう思い達彦は玄関まで出迎える。
「おかえり……その、桃子、あの、だな」
「いいの、あなた! 髪はまた伸びるんだし。それにもう暖かくなってきたしさっぱりしてよかったわ。あなた、それより夕食にしましょ」
「へ?」
 出て行ったときとは一変して明るい表情を見せる桃子に達彦は思わず素っ頓狂な声をあげる。
「も、もも……こ? 怒ってないのか?」
「うん。さあて今日は腕によりをかけて作るわね」
 機嫌のいいときに出るお気に入りのエアサプライの一曲をハミングしながら桃子は手際よく夕食の仕度を始める。
 リンクスが甘えるように達彦の足元に体を摺り寄せてきた。
 達彦は狐につままれた思い出リンクスと一緒に桃子の姿を見つめた。
「リンクス……俺は桃子がわからなくなってきた」
 問い掛けられたリンクスは首を少し傾げする達彦の頬をただペロペロなめるだけだ。
「後で達彦さんにちゃんと言わなきゃね」
 桃子はそんな一人と一匹を盗み見て悪戯っぽく微笑んだ。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 達彦は罪悪感に耐えかね桃子より先にベッドにもぐった。
 ――あの笑顔は作ったものかもしれない。もしかしたら今夜あたり「もうあなたについてゆけません。別れましょう」と切り出されるかもしれない。
 寝室の扉をゆっくりと開いて桃子が布団の中に潜り込む。
「あなた……達彦さん? もう寝ちゃったの?」
「いや。桃子……」
「なんです?」
「今日はすまなかった」
「いいの。私こそ……ぶっちゃってごめんなさい。
 髪を切られた時、本当にショックで悲しくなったけれど……でもねこの髪型近藤の奥さんとかスーパーの店員さんとかに褒められちゃった。それで注目されていくうちにショートもいいなって思っちゃった。だから……そうしょっちゅうってわけにはいかないけれど……達彦さん、髪が伸びたらまた切ってくれます?」
「い、いいのか?」
 顔をわずかに朱に混ぜ桃子は小さく頷く。
「そのかわり」
「その……かわり?」
「切りすぎに注意してね」
 達彦がばつが悪そうな顔をすると桃子はくすりと笑顔を掛け布団の中から覗かせた。

――了

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