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初めての床屋

 就職氷河期とはよく言ったものだ……
 高原遼子はせまい四畳半ほどのフローリングの床に仰向けに寝そべる。
 そろそろ内定の一つぐらいは欲しいところだが、すでに二十社近く入社試験を受けたというのに最終面談までこぎつけることができたのは一社、二次面接までが五社しかない。
 家に届いた当初は何よりも頼もしく思えた分厚い就職情報雑誌は、今ではすっかり部屋の隅に追いやられ頼りなげに映る。
「就職は自分一人で決める」と大学入学と同時に実家を飛び出した自分がひどく惨めに感じる。加えて安い家賃で手に入れた自分の城すらも狭い牢屋にも感じてくる。
「いかん! いかん! 落ち込んでる場合じゃないぞ! 遼子! 今日は淺川銀行から最終面談の結果の電話がかかってくるんだから、しゃんとしなきゃ」
 遼子は背筋を正し電話機を見つめる。さながら盤面に向かう女流棋士のようだ。
 淺川銀行といえば地方銀行で安定した経営が有名な銀行だ。バブル絶頂期でも大きな博打はせずこつこつ地道にやってきた事が現在になりようやく評価され、徐々に人気が高まってきた企業の一つだ。
 遼子は難関とされる二次面談が受かりそれなりに手ごたえを感じた会社だ。最終の個人面談も特にミスらしいミスはせず無難に応対できたと感じている。しかし、実際に受かるかどうかは遼子が決めるわけではない。相手が決めるのだ。いくら自分自身を何度励まそうともその声は虚しく響くだけだ。それでも遼子は心の中で自分自身を鼓舞しつづけた。
 やがて電話機が静かにメロディを奏で始める。遼子は慌てずゆっくりと受話器を取った。
「はい。高原です」
「淺川銀行人事部の山川と申します。高原遼子さんはご在宅でしょうか?」
「あ、私です」
「高原遼子さんですか。先日は弊行の面談を受けていただきまことに有り難うございます。
 面談の結果、誠に申し訳ありませんが不採用となりましたことをお伝えに伺った次第なのですが」
「そう……ですか」
「大変申し訳ありません。弊行とはご縁がなかったということで……それでは失礼致します」
 そそくさと切れた受話器を遼子はため息混じりに戻し、そのまま床に寝転がる。
 胸が隠れるほど伸びた髪が扇状に床に広がる。わずかに胸元に残った一房の髪を遼子は所在なげに弄ぶ。
「なんか……やんなってきた」
 雨の日も暑い日も強風の日もまるで外回りの営業のようにいくつもの会社訪問をしてきたことが馬鹿らしくなってくる。面接対策のため5月ごろ肩先までカットした髪もすっかり元通りの長さだ。
「気分転換に髪でも切ろうかな……」
 そう思ったとたんA県で父、堅三の経営している床屋が脳裏に浮かぶ。
 遼子が高校二年のとき妻に先立たれ、それ以来堅三は一人で店を切り盛りしている。おそらく今でも「若いのは雇わん」と言って周囲の好意をことごとく断っているに違いない。
 ――父は元気にやっているだろうか。家を出るとき口では「俺の心配はいらん。おまえの好きなようにしろ」と言っていたが、そのときの父の後ろ姿はいつもより小さくて寂びそうに見えた。
 そのことを思い出すたびに遼子は胸の小さな痛みとともに例えようもない寂寥感に襲われるのだ。
 遼子はやおら立ち上がると、大き目の鞄に荷物をまとめ出す。
 ――父に会おう。その思いが遼子の体中からあふれんばかりになり、それが遼子の体を動かせる。遼子もそれに逆らうことはない。遼子は飛び出すように部屋を出た。


   * ◆ ※ ◆ *

 駅から降りると遼子は飛び込んできた風景にしばし目を奪われた。
 駅前に聳え立つ大きなデパート、広々と整備されたバスターミナルと道路。唯一変わり映えしないのは商店街の通りとその先にうっすらと連なって見える山々の峰だけだ。
 遼子は商店街をさながら新参の観光客のようにあたりをキョロキョロと見回しながら足を進めてゆく。
 五分ほど歩いたところに堅三の経営する「理容室 タカハラ」の文字が遼子の目に映った。無意識に遼子の足は足早になる。その遼子の足もいざ店の前に立つと竦み上がったかのようにピタリと止まった。
(ど、どうしよう。どういうふうに言えばいいかな)
 徐々に高鳴る心臓の音がフルスロットルで鳴り響く。
「有り難うございました」
 にわかに扉が開かれ不意に遼子の視線と堅三の視線が重なり合った。
「あ……あ、あの……た、ただいま」
 体が破裂しそうなほど膨れ上がった緊張を押し切った遼子の挨拶に対し、堅三からでてきた言葉は気が抜けるほど素っ気なかった。
「なんだ。遼子か。そこに突っ立てるとお客さんの邪魔だ。さっさと中に入れ」
 あまりの飄々とした堅三の態度に遼子はムッとなったが、それをこらえて居間にあがりこんだ。
「我が家は相変わらず……か」
 店内と一つ壁を隔てて間取られた狭い居間。そしてその奥には大きな音を立てて回る洗濯機。人一人が通れるほどの幅しかない階段を上っても遼子が出て行く時と変わったところは何一つない。
 おそらく堅三はいつ遼子が帰ってきてもいいように何も変えなかったのだろう。
 遼子は家全体から滲み出してくる暖かさにいつしか目を潤ませていた。
「やれやれ一段落だ」
 肩を揉み解しながら堅三は居間へと上がりこむ。ただしいつ客が来てもいいように視線と足は常に店内を向けている。
「お父さん、お茶」
「おう」
 堅三のごつい両手が小さな茶碗をそっと包み込む。
 ――小さい頃はよくひっぱたかれたな……
 あのときの堅三の平手はなによりも怖かったが今となってはやけになつかしい。
「で、何のようだ」
「え?」
「わざわざ家を飛び出した放蕩娘が戻ってきたんだ。なにか用があるんじゃないか」
「べ……べつにたいした用はないわよ。ただお父さんの顔を見たかっただけ」
「ほう……どういう風の吹き回しだ。今日は雨が降らなきゃいいけどな」
「もう! そういうこと言うんだから」
 遼子は肩にかかる髪をうるさそうにかきあげ、そっぽを向いた。
「……たな」
「なに? お父さん」
「いや、髪が伸びたなと思ってな。遼子……おまえ最近髪切ってないだろう。切ってやるから座りなさい」
「え? いいの?」
「せっかく来たんだからこのくらいはもてなさないとな」
 遼子はおずおずと店内の椅子に座る。
 ――本当に晴香に似てきたな
 堅三は遼子の後ろ姿を見つめ思わず苦笑いを浮かべた。
「なあに? お父さん。にやにやして」
「ああ。なんでもない。毛先を揃えるだけでいいか?」
「ううん。短くしちゃって」
「……短くってどのくらいだ?」
「ベリーショートぐらい。あとはお父さんに任せるよ」
「いいのか?」
「いいの。就職の面談対策でショートにしなきゃって思っててなかなか踏ん切りがつかなかったから。このさいだからさっぱりと」
「わかった」
 堅三に握られた霧吹きが丁寧に遼子の髪を濡らしてゆく。すっかり濡れた遼子の髪を堅三はゆっくりと櫛を通す。
 こうして遼子の髪を切るのは初めてだったな……
 つややかな遼子の黒髪を見つめ堅三は回想にふけった。
 ――遼子が小さい頃はちょうど店を始めたばかりで遼子のことをろくにかまってやれなかった。いや、俺は逃げていたのかもしれない。初めてできた子供とどう接すればいいのかわからなかった。悩めば悩むほど泥沼にはまって、つい店のほうに目がいってしまった。それにしても本当に妻の晴香に似てきた。さすがに背は少しばかり晴香より高いが、顔も声も髪の色も髪質もなにもかも瓜二つだ。こうして髪だけを触っていると晴香が生き返ったのではないかという錯覚に陥りそうだ。
 今日初めて娘の髪を切る――そう意識したとたんに堅三は今までになく緊張し始める。その緊張は初めて人の髪を切ることになったときに感じたあの緊張感にひどく似ていた。

 鏡越しに映った堅三の姿はどことなく優しい感じがする。思わず遼子もなんだか気恥ずかしくなってくる。
 ――初めての床屋、初めてお父さんに触られてゆく髪、そして初めてお父さんに切られる髪……なんだか初めてづくしでどんどん鼓動が速くなって、今にも店中に響き渡りそうだ。あんなにごつごつしていた手なのに髪から伝わるお父さんの手の感触はこんなにも優しく感じることができる。そういえばずいぶん白髪も増えた。すっかり皺も増えた。昔はあんなに大きく見えたお父さんがなんだか気の抜けたビニール人形のように小さくしぼんで見える。
(うわ……鋏が近づいてくる)
 ジャキリという音がしたとたん左側の髪の一房が顎のラインでスッパリと切られていった。切られた髪はスルリと宙を舞い小さな音をたてて床に沈んだ。
 勢いがついたかのように堅三の手は矢継ぎ早に遼子の髪を切ってゆく。
(うわ、うわ、うわ!)
 後ろの髪を残して遼子の髪はすっかり顎下のボブへと変わっていった。そして後ろのほうで今までにない重い音が響き始めた。
 ジョギという鈍い鋏の音が鳴り響く。切られた髪はトンと遼子の背中をたたいたかと思うとそのままスルスルと流れいった。
(え! え! ええー!)
 鏡越しにカーテンのように映っていた後ろの髪は見る見る間に切り落とされていった。
「あは……子供みたい」
「いいのか本当に?」
「うん。短くして」
 ひやりとした感触がしたとたん、ジョギリと耳の上あたりで大きく鋏の音がこだまし始める。
(み、み、耳の上に鋏があたってる!)
 地肌を滑るように冷たい感触の鋏が潜り込みその刃が閉じられるたびに、地肌を通して鋏を閉じた衝撃が小さく響く。そのたびに遼子は声なき悲鳴をあげる。
 やがて鏡に映った遼子の左側だけが耳が露わになると、反対側のほうにも鋏が入りだす。
 両側からひょっこり耳が姿を現すと、後ろの髪がアンバランスに映る。
 後ろの髪に櫛が入り掬い上げるようにして鋏が進む。
 シャキ、シャキ、シャキと宙に浮いた分鋏の音は軽く響きだす。比較的高い位置で切られた髪は、バラバラと小雨のような音をたてて切られた髪が遼子の背中を断続的にあたってゆく。そのたびに遼子の背中は小さな電流が走ったかのようにピクリと小さく痙攣する。
 ふいに鋏の音が鳴り止むと、堅三の姿が遼子から離れる。鏡に映る遼子は男の子と見間違えられるほどに短くなっていた。
 再び堅三の姿が鏡に映し出されると、先ほどの鋏とは明らかに違うものが手に収まっていた。上半分は先ほどの鋏と形状は変わらないが、下半分がまるで違う。両刃は平らな直線状の刃ではなく、鮫か鰐のような獰猛な肉食獣を思わせるぎざぎざの刃がびっしり生えている。それが再び遼子の髪を舞い躍らせる。
 あれほど切ったというのに大量の髪がバラバラと遼子に降り注いだ。さすがに「まかせる」と言った遼子自身もまだ短くするのかと次第に不安になる。
 わずかに段をつけたような程度でサイドを切り終わると、後ろの髪を項から掬い上げるようにして鋏が進んだ。
(か! か、か、刈り上げてる)
 頭の上まで切ったのではないかという感じがするぐらいに梳き鋏は遼子の髪を刈り上げてゆく。
 項のあたりの音がザキ、ザキという重い音から軽い音に変わると、その部分が急に寒々しく感じる。
「よし……と。こんな感じかな」
「あは……さっぱり……なんかまるで映画に出てくるキャリアウーマンみたい」
 唯一ボリューム感を残すため長めに切った前髪を除いてサイドも後頭部もスッパリと短く切られていた。
 遼子はなれないショートヘアに戸惑い混じりの笑顔を浮かべ、しげしげと鏡に映る自分を見つめる。
 なんだか急に首が長くなったみたい……
「少し短くしすぎたか」
「ううん! そんなことないけど。後ろのほう全然見えない」
「ほら」
「え?」
 新たに背後から小さな三面鏡のようなものが差し出されると、そこには遼子の想像を絶する姿が映し出される。
 項のほうは青白い地肌が見えるほど短く切られ、そこから耳の上のほうまで思い切りよく刈り上げられている。サイドも後頭部も生え際のあたりにうっすらと青白い線が帯びている。
 遼子は恐る恐る後頭部に手を当ててみる。ザリッという手に突き刺さるような感触がした。そこから刈り上げたばかりの部分を沿うように自然に手が動く。そのとたんにゾクゾクとしたなんとも言いがたい奇妙な刺激が体中を駆け巡る。
 サイドも後ろもあれほど長かった髪は今ではなんとか指先でつまめる程度だ。
「わ、わ……うわ……うわ、うわ、うわ」
 まるでうわ言のように驚嘆の声をあげながら遼子は何度も刈り上げた髪を手でかきあげる。
「お父さん、ありがとう」
「……ふん。礼などいらん」
 堅三は少し顔に朱を混じらせながらも照れ隠しにわざと不機嫌な表情を浮かべる。
「なあ……遼子。まあ、その……なんだ……就職のほうは大丈夫なのか」
「うん? ま、まあ一応」
「そうか……」
「ねえ、お父さん。もしさ、就職先がどこも決まらなかったらの話なんだけど……お父さんのお店手伝っていい」
 おずおずと尋ねる遼子に堅三は満面の笑みを浮かべ、すっかり短くなった髪をなでる。
「ああ。別にあてにしとらんが、いつでもいいから戻ってきなさい」
「ありがと」
 店を出るとすっかり露わになった地肌にそよ風が通り過ぎる。
「長いときはあんまり感じなかったけど……」
 少し肌寒意風だがかえってそれが遼子には気持ちよかった。
 遼子は何かが吹っ切れたかのように足取りを軽くして帰路へ向かった。

――了


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