光のオールアウト
プロローグ
――20XX年 ミラノオリンピック 女子自由形200M決勝
「――川本選手現在のところ二位か三位でしょうか。このまま行けばメダルは確実です! 残り50M……40M! あ! ああああ……川本選手三位に転落! さらに背後からロシアの チェメゾワが迫る! 頑張れ! 川本選手……
200M個人メドレーではあとわずかのところでメダルに手が届きませんでした。なんとしてもこの自由形でメダルを獲りたいところ……しかしチェメゾワがぐんぐん追いついてくる。川本もう少し、もう少しだ。ああ、しかしチェメゾワと並ばれた! そしてそのまま……ゴール。200M自由形の女王になったのはアメリカのバーンズ、二位はドイツのフェルカー、三位はロシアのチェメゾワ、四位の川本陽子わずかコンマ三秒の差でメダル獲得ならず!」
オリピックが終わるとほとんどのマスコミでは彼女に同情的な姿勢をみせたが、彼女の長い髪が敗因では、という記事を載せた雑誌も少なくはなかった。
そんな記事もやがて金メダル獲得選手の話題で次第に掻き消されていった。
やがて『黒髪のマーメイド』川本陽子の名は、時間がたつとともに人々からも忘れられていった。
ー一ー
その日は寒い朝であった。室内プールを覆う木々もその身を縮ませて寒さに耐えているようである。
空調こそ効いていたが水温は凍てつくような冷たさだ。
そんな中ただ女性が一人淡々と泳ぎ続けている。
そんな姿を一人の男がハンディサイズのビデオ越しに見守る。
一キロほど泳いだところでその女性はようやくプールから上がる。
「お疲れさん」
男は人なつっこい笑顔を向けるが、女性の方は無表情で差し出されたタオルを奪い取るようにして手に取った。
競泳用キャップをおもむろにはずすと、そこから大量の黒髪がバサリと彼女の背に流れる。
かつての『黒髪のマーメイド』の輝くような笑顔はない。
そんな後ろ姿を男はやれやれという表情で見送った。
* ◆ ※ ◆ *
N県Y市最大の総合スポーツセンター――あたりを深い山林に覆われた大きな湖にその施設がポツンとたたずんでいる。夏には絶好のレジャー施設として観光客やでにぎわうが、それも九月を過ぎればひっそりと静まり返る。
陽子はそこから急勾配な坂道を息一つ乱さずランニングで登り切ると、別荘が建ち並ぶ一画へと足を向ける。
比較的新しい別荘に入るとすぐに陽子は熱いシャワーを浴びる。
「大会まであと半年……」
事実上オリンピック代表を決める東京大会。そこで一位になれば代表入り確定となる。
今の陽子のタイムでは選考標準タイムには及ばないものだ。
陽子は今年で二十四歳になる。年齢的には精神的にも体力的にもピークを迎える。
だが、代表に選ばれるのに非常に厳しい年齢であった。
焦り、いらだち、挫折感、屈辱感。
そして不安。
様々な負の感情が渾然一体に混じり合い、それが幾層にも積み重なり陽子の心の奥底に混沌の世界を生成する。
陽子は熱いシャワーとともにそれを必死に洗い流そうとする。
それでも陽子の心の底にわずかにそれらがこびりつき残るのだった。
「まったく! 先に帰るんだったら一言ぐらい声をかけろよ」
「ごめん……。それよりどう?」
タンクトップに半ズボンという霰もない出で立ちで居間に戻ると、先ほどの男がビデオの巻き戻しボタンを押す。
陽子は先ほど泳いだ自分の姿を食い入るように見つめる。
「……そうだね。全体的なフォームは大丈夫だけど、少し腕の振りが遅いわ。足も後半になると少しムラがあるしバタついてる感じね。
あ、そこもう一度巻き戻してくれる?」
「ああ」
陽子がまるで自分の体をすり寄せるかのように男のそばへと近づく。
洗い立ての濡れた長い黒髪の一房がバサリと男の頬にかかる。
洗いたての陽子の髪からはほのかにシトラスの香りが漂う。
「なににやにやしてるのよ」
「別に」
「変な人ね」
陽子はちらりと男の表情を盗み見るが再びテレビの画面に目を移す。
男の鼓動は今にも飛び出しそうなリズムを刻み出す。それでも男の視線は陽子の濡れた髪に釘付けのままだ。
このまま心臓が破裂してもかまわない。ただ彼女の長い髪をいつまでも見つめていたい。男は心の中でそう呟いた。
ー二ー
前日のビデオを踏まえたフォームの修正をしても陽子のタイムは伸びることはなかった。
今のタイムではたとえ本選を通ったとしてもオリンピック選考メンバーのリストに載ることはない。そう考えれば考えるほど陽子のからだは無意識のうちに萎縮していく。
なぜタイムが伸びないのか――すでに陽子はその答えに気づいていた。今まで気づかないふりをしていただけなのだ。
それがわかっていてもその日の夜もなめまわすかのようにビデオをチェックした。
ビデオの停止ボタンを押すと、すでに午後十時から始まる「ニュース・タイムステーション」の番組の後半に差し掛かっていた。
テレビ画面に「今日の特集」という白い太字のテロップが表示されていると、司会の男性が作り笑いを画面に向ける。
「それでは今夜のゲストをご紹介致します。前回のオリンピックの女子200M自由形で見事に金メダルを獲得したバーンズ選手です」
「コン……バン、ワ」
たどたどしい日本語とともにバーンズと紹介された女性が映ると、陽子は驚きとも悲鳴ともつかないような声を上げる。
ミラノオリンピックの時は肩まであった見事なまでの燃えるような赤い髪。それが惨たらしく五分刈り程度に短く刈り込まれていたのだ。
「随分イメージが変わりましたね。以前は髪が長かったですよね。
そこまでバッサリと髪を切ったのは、やはり何か次のアナハイムに向けて期するものがあるのではないかと思うのですが」
「いえ、髪を切ったのは単に気分転換なんです」
短くなった髪を右手で撫で付けながらバーンズは屈託なく微笑む。
「本当ですか? そこまで切るのはかなりの勇気が必要だったのではないですか? やはりそこまで短くしたのは……たとえば……そう、少しでもタイムを短くするためとか」
「ここまで短くしたのは確かに自分でも思い切ったと思います。でもこれだけ短いと手入れとすごい楽なんです。でもいくら短くしてもあまりタイムには影響しないんです。
最近は競泳用のキャップもいいものがありますし」
「そうですか。だいぶ話がそれてしまいました。ところでバーンズさん。最後にあなたのライバルがいましたら教えていただきたいのですが」
その直後今まで和やかな雰囲気が急に冷たい水を打ったようにクールダウンする。バーンズの表情は相変わらず笑みを浮かべていたが、両の瞳からはそれが消え去っていた。
「――ヨウコ……カワモト」
「え? あ、ああ川本陽子選手のことですか」
バーンズが小さくポツリとつぶやくと、キャスターは慌ててフォローする。
「なぜ川本選手をライバルと?」
「まだ勝ってないからです」
「確かにミラノより前のオリンピックでは川本選手があなたを下し金メダルに輝きました。しかし前回のオリンピックでバーンズさんは川本選手を下したのでは」
「あの時は本当の川本選手の力ではありませんでした。私は本当の力を出した川本選手に勝ちたいのです」
そのバーンズの言葉が陽子の脳裏を強く叩き付ける。いつしか自然と陽子の両目から涙が溢れ出す。
「おい、風呂あがったぞ」
風呂上がりの男の胸に陽子が飛びつくように抱きついた。
「お、おい!」
「抱いて……」
突然の出来事に男は慌てふためく。
「なんだよ。いきなり」
「いいから抱いてよ」
「……本当にいいんだな」
陽子は男の胸でただ小さく頷いた。
* ◆ ※ ◆ *
陽子は一糸もまとわぬ姿で逞しい男の厚い胸の上で子猫のようにじゃれていた。
お互いの体が一つになった時間は快楽はまるで甘い蜜のようで、思い出しただけでもとろけそうになる。陽子の全身が溶けそうになることに不安を覚え男の体にしがみつく。
「ねえ」
「なんだ」
「もう名前ぐらい名乗ってくれてもいいんじゃない」
「いいじゃないか名前ぐらい」
「あなたのことなんて呼んでいいかわからないじゃない。それともジョー・ブラックと呼んでおこうかしら」
「俺を死に神兼国税調査官にする気か」
「嫌だったら本名ぐらい言ってよ」
「……わかったよ」
進藤一幸――男は独り言を呟くようにただ一言だけを吐き出した。
「それだけ? ほかにもっといろいろあるでしょ。職業とか趣味とか」
「今は名前だけさ」
「相変わらず素っ気ない人ね。それじゃあもう一つ頼みがあるんだけど、聞いてくれる?」
「なんだよ」
「買い物から帰った後髪を切ってほしいの」
陽子の瞳が男の目を鋭くとらえる。
「いいのか? 俺で。不器用かもしれないぜ」
「いいの。ねえ、それより」
その言葉は男の唇の中へと飲み込まれる。
二人は再び甘いまどろみの中へと落ちていった。
ー三ー
「それじゃあ約束通り髪を切って」
陽子は買い物から帰ってくるなり背中越しに男へ紙袋を渡す。
男は紙袋に入っている正体に気づくと顔をひきつらせる。
「お、おい! なんだよこれ」
「見ればわかるじゃない」
淡い青地のプラスチック製のボディ。その中央には白いボタン、そこから金属製の小さく細かい刃が無数に生えている――それはバリカンだった。
「田舎のデパートだからそれしかなかったの。そ、それでね……ま、丸坊主にしてほしいの」
「……ま、丸坊主って……おまえ……」
「私ね、今までずっと『黒髪のマーメイド』という亡霊に引きずられていたと思うの。今までのタイムがよくなかったのは精神的なものだったのよ。
この髪を切っただけで、坊主頭になっただけで克服できるとはおもわない。でも何か自分のなかでふっきるとしたらそれしかないと思ったから……」
「本当にいいんだな」
フローリングの床にポツンと座った陽子の背後から男が声をかける。
「いいの」
今まで一度も聞いたことのない陽子の少し震え気味の弱々しい声。その声がちくりと男の胸に鋭く突き刺さる。
男の目の前には陽子の背の半ばまである艶やかな長い髪が光沢を帯びている。それを見ただけで男のバリカンを握った手はしばし逡巡する。やがて男は意を決したようにバリカンのスイッチを入れる。
十分に充電したバリカンは永い眠りからたたき起こされたのか、不機嫌にも聞こえるほどのモーター音を鈍く咆哮する。
小さいが獰猛に思える無数の刃は激しいバイブレーションを休む間もなく繰り返している。
「本当にいいんだな」
「う……ん。バッサリやって」
ゆっくりとバリカンが陽子の前髪のほぼ中央に進入する。
静寂が支配する居間にザクリともジャキリとも聞こえる嫌な音が響くと、陽子の前髪がパサリと舞い落ちる。
陽子の怯えきった両の瞳は小刻みに痙攣しながらも自分の髪が落ちる様をしっかりととらえていた。
バリカンは休むことなく陽子の髪を刈り込んでゆく。陽子の前髪をかき分けるようにしてバリカンが進むと、無惨にも数ミリ程度に刈り取られた髪だけが残った。
「……もっと……ゆっくり切って」
陽子の前髪の中央部分に短い髪の道が後頭部のあたりまで引かれている。涙混じりの弱々しい陽子の声を聞いてももう後戻りすることはできない。
男は陽子の言葉に従いゆっくりとバリカンを進める。それでも数十本ほどの黒髪が床に
舞い落ちてゆく。
最初はおっかなびっくりバリカンを動かしていた男の表情は今までにない異様な興奮に包まれていた。
「ハ……ハハハ……。時代劇に出てくる落ち武者みたい」
無惨に短くなった前髪を鏡越しに見て陽子は歪んだ笑みを浮かべる。その笑みが無理に作ったものだということは、小刻みに震える体と鏡越しに映る陽子の表情を見れば明らかだ。
――ドクン
それとは正反対に男の鼓動はさらに激しい音を繰り出す。
「後ろのほう先にして」
「わかった」
陽子は背の半ばまで達する長い髪を右手でたくし上げると、根元近くで髪をひとまとめにする。長い髪で今まで見ることが出来なかった襟足とそこからスラリと伸びる白く細い首筋が露わになる。
ヴィーンというバリカンの音が徐々に陽子の首筋に近づく。
――ザク、ザクザクザク……ザクリ
嫌な音を立ててバリカンは陽子の髪を手のあたりまで刈り上げる。
陽子は次第にひとまとめにした長い髪が徐々に軽くなってゆくのを感じた。それと同時にバリカンの音も頭上に近づいてゆく。
陽子の鏡にバリカンの刃先がちらりと映る。陽子はおそるおそる右手に掴んだ髪を頭から離す。
なんの抵抗もなく右手が陽子の後頭部から離れていく。そのまま陽子は右手を自分の目の前へと戻す。
優に四十センチはある艶やかな長い髪が力無く横たわっている。
「……じゃあね……」
わずかに右手の力を抜いただけでも黒髪の束は床へ流れ落ちていった。
バリカンの音が鳴り止むと、陽子は乾いた笑みを浮かべる。
「あは……あははは……。虎刈りになっちゃった」
「だから不器用だって言ったのに」
「いいの。気にしないで。どうせ尼さんみたいに全部剃り落とそうと思っていたんだから」
「陽子……」
ー四ー
男は短くなった陽子の髪に資王堂のシェービングジェルを丹念に塗る。
資王堂のシェービングジェルは無色無香で他の製品と比べると若干ベタつき感も抑えられている。
十分にジェルが陽子の頭になじんだのを確かめると、男は次に新品同様のフラウン製剃刀を手に取る。
「いいのか?」
「ちゃんときれいに剃ってよ」
陽子の両目が閉じると、陽子の前髪に剃刀の刃があたる。そのまま額のあたりまで這うようにして進んだ。
――ゾリ……ゾリゾリ、ジョリ……ザリゾリゾリゾリ
剃られた髪はジェルにより小さな一塊となる。それはまるでコロニーのように陽子の額に次々とこびりつく。
すっかり露わになった青白い地肌の色が徐々に広がってゆく。
前髪、サイド、男の手に握られた剃刀は次々と陽子の頭をきれいに剃り上げていく。
残りの後頭部の髪だけが海にポツリと浮かぶ半島のように残っている。そこにも無骨な刃があたる。
――ゾリ、ゾリゾリ……
今まで一度も体験したことのないおぞましい感触に陽子の表情は再びひきつり出す。
「ひっ!」
陽子の口からついに小さな悲鳴が漏れる。それでも剃刀の動きは鈍ることはなかった。
* ◆ ※ ◆ *
「終わったぞ」
男の一声とほとんど同時に陽子はおもむろに目を開く。
鏡に映った自分――それはまさしく別人の姿だ。
前髪にもサイドの方にももはや短い髪すら存在しない。あるのはただ青白い肌のみ。
陽子はおそるおそる変わり果てた自分の頭に手を当てる。
――ズゾゾゾ……
「え?」
陽子の顔は頭の色のように青ざめる。全身の血という血がまるで氷水と化したような悪寒が陽子を包み込む。
(前も横も……後ろも! どこもみんな同じ感触だよー!)
陽子は心の中で絶叫する。
「大丈夫か?」
「え? ああ、うん。大丈夫。それより私、頭洗ってくる」
おぼつかない足取りで陽子は浴場へと向かう。
「まるで頭がなくなっちゃったみたい」
陽子はシャワーを浴びる。いつもと変わらない温度にしているはずなのにやけに熱くかんじる。
シャワーを止め湯気で陽子は白く濁った鏡を手で拭く。
「! あは……やっぱり変わらないか……」
寂しげに笑う鏡の中の陽子の目から再び涙が溢れ出す。
陽子はシャワーの勢いをさらに強くした。
ー五ー
――数ヶ月後 東京女子水泳選手権当日
更衣室で着替えし始めたとき全員の視線が陽子に向けられた。
「ヨ……ウ……コ? あなた……」
バーンズだけでなくほかの選手も一様に顔が青ざめ唖然とした表情を浮かべている。
「ミスバーンズ、今度は負けないわよ」
陽子は競泳用キャップをつけ終わった穏やかな笑みを浮かべ一足先に更衣室から姿を消す。
陽子がいなくなった後でもほかの選手たちの視線は陽子のロッカーに釘付けとなる。
「……どうやら本気のヨウコと戦えそうね」
バーンズは不敵な笑みを浮かべロッカーを後にした。
「さあいよいよ注目の東京女子水泳選手権200M自由形決勝です。
アメリカのバーンズ、ドイツのフェルカー、ロシアのチェメゾワ、ベラルーシのパラノフスカヤ、中国の王と外国からの招待選手たちは実に錚々たるメンバーです。これを迎え撃つ日本選手は山梨学院の萩原、日体大の庄司、そして川本陽子です。
さあどこまで日本人選手が食い込むことが出来るのでしょうか」
プールに選手が入場すると歓声が一層大きくなる。
くじ引きの結果、第一コースにフェルカー、第二コースに庄司、第三コースに王、第四コースにバーンズ、第五コースに川本、第六コースにパラノフスカヤ、第七コースにチェメゾワ、第八コースに萩原となった。
各自がスタートにつくと急に会場は緊張した雰囲気に変わる。
すっかり静まり返った会場にスタートを知らせる電機音が鳴り響くと同時に選手達は水の中へと一斉に飛び込んだ。
先頭はいいスタートをきったチェメゾワ、そして逃げる獲物をじわじわと追い込むようにバーンズが続く。川本陽子は三番手についていた。
陸上の競争と違い水泳の場合当然水の中で争うことになる。しかも同じプール場でありながら互いが平行に泳ぐために自分がどの位置にいるのかわからないのである。唯一それがわかるのは最後まで泳ぎ切った時である。
100メートルにさしかかると各選手がターンをする。そのターンの良し悪しにより上位と下位の間にわずかな隙間が生じる。その隙間がゴールに近づくごとに徐々に広がる。
一位はバーンズ、二位にチェメゾワ、三位に川本陽子、四位にフェルカーという順位だ。
残り50メートルになり川本陽子がチェメゾワと一気に並ぶ。そしてバーンズの姿をとらえる。
ゴールが近づくにつれ歓声は一層大きくなる。バーンズと陽子の二人は激しいデッドヒートを繰り返す。
やがて一つの手がゴールをタッチする。
ゴールにたどり着いた選手たちが次々と水の中から顔を出しタイムボードを食い入るように見つめる。
バーンズ 1分58秒23
チェメゾワ 1分58秒89
川本陽子 1分58秒21
陽子は競泳用キャップとり一気に盛り上がった歓声に応える。陽子の姿を見るなり観客の声が歓声からどよめきに変わる。
陽子の頭にはかつての長い髪はなかった。ただ無惨に青白く剃られた地肌だけが覗いていた。
混沌としたどよめきの中にやがてまばらな拍手が生まれる。それにわずかに遅れて一斉に拍手の洪水となる。陽子の変わり果てた姿に心を打たれ中には涙を流す観客もいる。
「ヨウコ……おめでとう」
「……ありがとう、バーンズ」
二人は固く握手を交わす。お互いの目には涙がこぼれていた。
ーエピローグ――後日談
アナハイムオリンピック200M自由形で見事に金メダルを獲り、凱旋後の記者会見で引退を表明した。
突然の展開に報道陣もその場にいたコーチも一様に驚きの表情を浮かべる。
騒然となった会場の中で陽子はただ一点の曇りもない柔らかな笑みを浮かべていた。
フェニックス州 サン・デビルスタジアム
荒涼とした大地にその広大なスタジアムがある。
シーズン中ともなれば常に満員となる――七万人を収容できる――観客席にはまばらに人がいるだけであった。
それだけ広いグラウンドには身長190センチを越える大男たちがしきりに汗を流している。その中でただ一人一回り小さな影がやけに目立った。
赤地のユニフォームの背中には白い字でこう書かれている――11 K.Sindouと。
今日一日の練習が終わった頃には一様に選手たちが汗まみれになって控え室へむかってゆく。そこに小さな影がポツンとたたずんでいた。
「よ、陽子?」
「やあ」
陽子は気恥ずかしそうに微笑んだのもつかの間涙をこぼし顔クシャクシャにしながら男に飛びついた。
「ばか! 探したんだから」
「……わるい。でも来週には日本に帰るって手紙に書いといただろう」
「待てなかったの」
「なあ陽子……頼みがあるんだけど」
「なに?」
「俺の活躍を生で見ていて欲しいんだけどな……そ、その……シーズン中もそうでないときも……ずっと……」
「もう! もう! そんなの決まっているでしょう」
いつのまにか二人囲むようにして集まった羆のようなチームメイトが冷やかしと祝福の声を上げる。
その日一日サン・デビルスタジアムは二人の幸せを称える声で包まれていた。
――了
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