見出し画像

Hello 

 私は今日髪を切ることにした。
 5年前につけ始めた日記。最初の日記は、この一行しか書いていない。
ポートレイトに入った一枚の写真。そして隣に置かれたボロボロの鞄。
 この鞄は公敏が海外出張に行くときにプレゼントしたものだった。10回目となる海外出張と公敏の誕生日が近かったので、私が奮発してちょっと高めの鞄を買ったのだ。
 公敏はまるで子供のように喜んで、寝る時に布団のそばに置いておくほどだった。
 私はまぶしいほどの公敏の表情を今のことのように思い出す。
 時々喧嘩はすることもあったけど、幸せだった。このままおばあさんになるまで公敏と一緒にいられると思っていた。
 のどかな小春日和の休日、私は何気なくテレビのスイッチを付けたときだった。
 海に浮かぶ真っ二つに折れた飛行機とあちこちに散った散乱物。
 ニュースキャスターは淡々と画面に映った名前を読み上げてゆく。
『東京都 ハセガワ キミトシ……』
 ――え?

 私はなにもかも真っ白になった。何かの冗談だと思った。
ごく身近だけの葬式が終わり、航空会社から彼の遺品を受け取っても、その思いは変わらなかった。
 それでも現実が容赦なく私を残酷な事実を突き落としていった。
 私は日記に髪を切ることを書き、腰まであった髪を肩のあたりまで切った。
 つい先日、公敏のお義父から届いた手紙。その手紙を読んだ翌日に私は公敏の実家のある北海道に経つことにした。ちょうど事件から5年目になる日だった。
 あの事件から5年。私は足繁く彼の実家である床屋と墓参りに行った。あの時切った髪は今ではすっかり背中の真ん中を優に超すまでになっていた。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 12月初旬、千歳空港を降りると粉雪がちらついていた。この時期になると、いつもならどか雪が降ってもおかしくはないが、今年に雪が降る日が意例年よりすかなくなるという。
 髪を切った後、あまりの寒さに公敏の実家に行った後に切ればよかったと後悔した。
 あの時より髪は伸び、雪はさほど降っていないけれど、それでも冬の北海道が寒いこと
には変わらない。
 千歳空港から電車で揺られること約3時間で公敏の実家の床屋についた。
 サインポールはすっかり雪まみれになり、窓も扉も白色に染まっていた。かろうじて窓から見える室内には、客がいる様子はなく、公敏の父親は新聞紙を広げていた。
 私はゆっくりと扉を開ける。
「……有香子さん」
「お義父さん、ごぶさたしています」
 義父さんは慌てた様子で、奥の居間へと案内してくれた。居間の仏壇には満面の笑顔を浮かべた公敏の写真が飾れれていた。
 寒かったでしょうとお茶を出されるのと同時に、私は封筒をテーブルの上に置いた。そのとたん、お義父さんの手は湯飲みを持ったまま硬直した。
「あの、この手紙なんですが」
「有香子さん、あなたはまだ若い。いつまでもあいつのことを思って、こうして来てくれるのは嬉しい。でもそれでは……あまりにも、あまりにも不憫すぎる」
「有難うございます。でも、私はまだ……」
「いや、今日中にということではないんだ。ゆっくり考えて、答えを出して欲しい」
「わかりました」

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 お義父さんの好意で私は、一泊させてもらうことにした。深々と積もる雪の音が私を徐々に眠りの世界へいざなった。

「よう。久しぶり。俺のことでまだ悩んでるんだって。らしくないじゃん」
「え……公敏?」
「なんだよ。狐につままれたような顔して」
 そうか夢。これは夢なんだ。そう思ったとたん、自分でも抑えきれない思いが一気にこ
み上げてくる。
「忘れるわけないじゃない! 勝手死んじゃって、人がどれくらい……」
それ以上は涙で言葉にならなかった。
「悪かったよ。でもどうしようもなかったんだぜ? なにせ急に飛行機が激しく揺れたと思ったら、その後まっさかさま。気が付いたらこうなちゃってたしさ」
 久しぶりの公敏。本当は飛んで抱きつきたくなるくらいに嬉しかった。でも私の口から出るのは、つい憎まれ口調。
「それで何で急に夢に出てくるのよ」
「ごめん……本当はすぐにでも会いたかったんだけど、駄目だったんだ。有香子がその……こっちに来たくなるんじゃないかって。それにこうやって会うの結構大変なんだぜ」
「いやだよ! 私、毎日会いたい! 毎日話したい、毎日手つなぎたい、毎日公敏を感じ
ていたい……」
 胸の奥に封印していた公敏にたいする今までの思い。それが堰を切ったように、溢れ出してくる。
「有香子……もう僕は直接君に触れたり、話することはもうできない。でも……違う方法で僕に会ったり、感じたりすることはできると思う。僕の呪縛を有香子が解いてくれれば」
「どうやって解けるの?」
「有香子が僕を忘れることだよ」
 その言葉を聞いたとたん、私は奈落の底へ突き落とされたような気分になった。
「そ……そんな。忘れたら、公敏とどうやって会えるの?」
「忘れるというのは『記憶』からじゃない。有香子の心の中からさ」
「心の中?」
 どうやって? と聞くのがわかっていたかのように、公敏は小さくうなづいた。
「僕が有香子の背中を押してあげるよ。あとは有香子しだい……」

「夢……?」
 目が覚めると、時計はもう8時を過ぎていた。でもまだなにかまだ夢の中のような気がする。そのせいか、視界がどことなく白くぼやけてはっきりと周囲が見えない。
 ほとんど夢見心地のような心持ちで私はお店のほうへ向かう。
「き……公敏。ってことはこれまだ夢の途中?」
「正確には違うけど……似たようなものかな」
 そう言って私をカット用の椅子に誘う。
「ねえ……どういうこと?」
「君の心の中と相談したんだ。そしてこれが君が選んだ選択だよ。『髪を切って僕を忘れる』という選択を」
「え……。ま、またぁ……そんなこと言って実は私の髪を切りたかっただけなんじゃないの?」
 そんなことない、と激しく身振り手振りで否定するけど、相変わらず表情に出ている。
 まったく公敏ったら死んでも変わらない。
 そう死んでも公敏は、相変わらず公敏だ。
「わかった。髪を切って。そのかわりお願いがあるの」
「ん? な、なんだ?」
「思い切り短くして」

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 公敏は私の髪を愛おしげに櫛で梳かしてゆく。
「本当にいいのか?」
「うん、いいの」
 公敏の優しい指が私の髪をゆっくりとつかむ。ゆっくりと深呼吸の後、後ろから鋏の開く音が耳に入る。
 ジョキ……
 ハラ、ハラと切られた髪が落ちていくのが嫌でもわかった。たかだか髪を切るぐらいと思っていたのに、鋏が入った瞬間体中に電流のように衝撃が走った。
 鏡越しに公敏の手が震えていた。
「公敏?」
「わ、わりぃ……ちょっと汗が出てきちまった」
 そう言って公敏は乱暴に自分の顔を拭いた。
 そうか、公敏もつらいのかな。だったら私が悲しんでいたら、もっと公敏ももっとつらくなっちゃうんだろうな。
「だ、大丈夫だよ。公敏。ゆっくり切って。ね?」
「あ、ああ」
 再び鋏の音。
 ジャキ、ジャキ、ジャキ……
 左半分の髪が顎下の線からすっぱりなくなる。続けざまに後ろの髪が鋏で切り落とされてゆく。
 切られた髪が落ちてゆくのが刈り布越しに伝わってくる。
 今まで当たることのない場所に切られた後ろ髪がパサリと揺れる、そのたびになんだかこそばゆくなってくる。
「後ろのほう、刈り上げるぞ」
「うん。思い切りやっちゃって」
 シャキ、シャキ、シャキ、シャキ
 軽快な鋏の音が首筋から耳の上あたりまで通ってゆく。その音ともに後ろの方が軽くなっていく。
 次第に私の心の中も軽くなっていく気がする。
「なあ……」
「なに?」
「たまに……年に一回くらいおまえの所に遊びに来てもいいのか?」
「なあに? 夜中の二時に枕元にたつつもり? いやよ。そんなの」
「ばーか、テレビの見すぎだよ。そんなふうに現れるのはよっぽどのこと。朝でも昼でもそうだな、おまえは気づかない形で」
「それもや」
 私はつい、つんとしたそぶりを見せてしまった。そんな私の表情を見て公敏は、相変わらずあたふたとしだす。
「冗談よ、公敏。嫌なわけないじゃない。でもね、ぜったい公敏だってわかってみせるか
ら……」
「うん……」
 シャキリと鋏の音のあと、急に鋭い金属音が鳴り響いた。
「公敏?」
 ふりむくと、そこにあるのは人気のない空虚の空間。ただあるのは、床に散らばった切ったばかりの私の髪とそして一対の鋏。
「ば……バカ! 公敏の馬鹿……切り終わったならちゃんと鏡で見せなさいよ」
 私の頬に堰を切ったようにあふれる涙が伝う。

*** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 あれから三年。私の髪はあのとき切った髪型のままだ。
 この髪型のままなら、公敏が現れたときわるかもしれない、そんなささやかな思い。でもこの三年間、公敏が現れることはなかった。
 ちょっと淋しいときもあるけれど、それが段々当たり前になっていくのかもしれない。
 不意に一陣のつむじ風が舞う。ちった桜の花びらが辺り一面を覆う。
「うん……いいでき。でも髪、そろそろ伸ばせよ」
 どこからともなく、懐かしい囁き声が耳に入る。
「え? 公敏……もう、公敏の髪フェチ!」

――もうすぐ春が終わるよ、公敏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?