わたしはタワシを作り、彼女は糸束を作った。
中学だか高校だか忘れたが、家庭科の授業で一時期「編み物」をしていたことがあった。
最終目標は、編み図のみを見て、かぎ針で目的のものを編めるようになること。
私はけっこうそういうのは得意だし好きで(好きだから得意なのかも知れない)、自ら創作して編み図を作れるほどではないが、編み図があればだいたいのものは編める……という感じだ。
そもそも、ジグソーパズルとか、プラモデルとか、機械や家具の組み立てとか、そういう順序立ててちまちま組み立てていく作業がとっても好きな人間である。
ジグソーパズルはもはや呪いの道具で、一度開封してしまうと、組み上がるまでパズル以外のことが考えられなくなって廃人のごとくなってしまう。
寝ても覚めてもパズル。トイレや食事に行く時間も惜しくなるほどパズル。睡眠よりパズル。
起きて、ベッドから転がるように床に移動してパズル。そのまま時間が経ち、いつの間にかパズルの絵柄が見えづらくなって顔を上げると日が暮れている……。つまり生活が破綻する。仕事も破綻する。
ジグソーパズルを開封するのは要注意だ。
と、まあこれはパズルのことなんだけど、編み物もだいたい同じ呪いが発動する。手を付けると止まらない。
もちろん、編み物自体が好きというのもあるんだけれど、それとはまた別に、
「編み図に書いてあるとおりやれば、ちゃんと最終的に形ができあがる」
という約束された未来があるというのも魅力なんだと思う。
そのとおりにコツコツやれば、ちゃんと完成形ができあがる……ということの、なんと素晴らしいことか。
その点で、自分は芸術家じゃないなと思う。別に編み物で創作がしたいわけではないのだ。
私は一応小説書きである。小説は上記のようにはいかない。少なくとも私は無理だ。
プロットを組み立てても、途中でプロットから外れたりするし、書くぞと思ってパソコンに向かっても、書けたり書けなかったりする。昨日書いた分を、今日更地にして書き直したりもする。
まったく予定通りにはいかない。約束された未来はない。
だからかな、小説書いてるときには無性に編み物や刺繍やパズルがしたくなるのだった。
話を戻すと、そういうわけで家庭科の授業もなかなか楽しくやっていたわけです。
編み物の単元の終わりにはテストがあって、与えられた一枚の編み図を見て、作品を作りなさいってやつだった。
できあがるのは「タワシ」とのこと。アクリル毛糸で作ったタワシなんて、実際使えるのか疑問だ。だったら鍋敷きのほうが実用的じゃないかと思う。
まあ、二時間程度の授業中に仕上げる代物なので、そんなに難しいものではない。慣れた人ならものの二十分くらいで仕上げてしまうんじゃないだろうか。
私もそれなりの素早さで仕上げて、糸処理をしてふと顔を上げると、
かぎ針と毛糸を前に悪戦苦闘している友人がそこにいた。
どこをどうしたらそういうことになるのか、まったく分からないが、彼女の手の中には、どう見てもただの絡まった毛糸の束としか思えないものがあった。
テストの時間は刻々と過ぎていき、彼女の手の中で毛糸の塊は刻々と絡まっていく。
どう考えても、編み図を一ミリも理解していない。そこからどう頑張ったところで、タワシにはなり得ない物体がそこにある。
もうずいぶん前のことなのに、彼女の手の中にあったあの毛糸の塊のことはよく覚えている。鮮明に覚えている。
見たときの「えっ」って衝撃も覚えている。「えっ」
アレを見たときに、私はたぶん感銘を受けたのだった。
人には向き不向きがどうしたってあるのだなあ、ということを、分かりやすく視覚に訴えられたというか。
やればできるよ、なんて安易に言ってはいけない。
やってもできないことだって、時にはあるのだ。さらに本人がそれを本当に「やりたいか」っていう問題もある。本当はやりたくないのかも知れないし、まだ本気出してないだけかもしれない。
とかなんとか、あのタワシになれない絡まった毛糸の束を見たときに、私は考えたのだった。
「なんでそうなったんだ」という問いは、その糸束の前では無意味である。なんでそうなったのか、彼女にだって分からない。仮に分かっていたとしても、目の前にあるあの糸束がたった一つの答えである。
大抵のことは、うまくできなくたって何とかなる。家庭科の授業でタワシを作り損ねて糸束になってしまったとしても、大丈夫だ。まったく問題ない。
なんなら、物理のテストで4点取った私のほうが問題だ。(100点満点じゃないよ。念のため……)
そしてテストで4点取っても世界は続くし、人は死なない。私は今日も元気に生きている。
毛糸を編んでタワシにするなんて、やりたいやつにやらせておけば良いのだ。やりたいやつはいる。私はやりたい。
使いたくはないが、作りたいタイプの人間だ。
しかし、あの絶妙に絡まり合った糸束。もらって取っておけば良かったなあ……と、二十年近く経った今でもたまに思い出すのである。
なんだか、うまくいかないときにアレを見たら元気になる気がするのだ。
いまでも、たまにふと思い出しては、ひとりで思い出し笑いすることがある。当の友人にはもう言うなと言われるのだが。
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