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さよなら、青い鳥~なぜぼくはTwitterをやめたのか~

倫理観の耐えられない軽さ

昨日、15年続けたTwitterのアカウントを削除した。そのことについて語りたい。 なお、現在Twitterはイーロン・マスク体制下に入ってXと改称されたが、15年の過ぎ去った日々に思いを馳せ、在りし日の名称であるTwitterと呼称する。

このままTwitterに渦巻く冷笑、憎悪、憤怒に耐えることができず、これ以上続けると心身の調子を崩すか、なんらかのトラブルに発展すると懸念したこと。 そして、その場にいることで、それらを見て見ぬ振りする形で加担することに繋がると判断したことだ。 要するに我慢の限界が来た。 冷笑家、露悪家、詭弁家、差別主義者、イキリオタク、インプゾンビ、野次馬が蠢動する冷笑と憎悪と憤怒の巷。倫理観や羞恥心をかなぐり捨てた生ける亡者どもの巣窟だ。 ニーチェなら畜群と呼んだに違いない。連絡手段のない親しかった長年の相互フォロワーも複数名いたが、離れることを余儀なくされた。

四苦八苦のうちの2つ、愛別離苦と怨憎会苦を同時に味わう羽目になるとは思ってもいなかった。 前者に関しては自業自得ではあるが。

汚れつちまつた自分自身に……

今でも悔やんでいるもう10年近く前の話。当時中東で猖獗を極めていたイスラーム国が邦人を人質に取り、ナイフを突き付けて身代金を要求する動画を配信したときのことだ。

ぼくのTLでは事態の深刻さが真摯に受け止められておらず、クソコラグランプリと称してアニメキャラや漫画のワンシーンをコラージュして大喜利大会が催されていた。そこにTwitterと場所の覗いてはいけない深淵を垣間見た。だが、その頃のぼくは気にも留めなかった。 映画『この世界の片隅に』で主人公のすずさんが、戦時中の生活に疑問や違和感を抱かず過ごして過剰適応したのと同じようなものかもしれない。

この一連の動向を目にしたぼくの尊敬する相互フォロワーの一人は、憤りのあまりアカウントを削除してTwitterから永久に姿を消した。「お前らは人でなしだ」「もうこころぴょんぴょんできるか」と吐き捨てて。 時を経てぼくは傍観するだけだった自分自身を責め苛んでいる。結果は変わらなくとも、せめて一言、声を掛けて彼の重荷を軽くしたかった。

此頃Twitterニハヤル物

インプ稼ぎのデマ、陰謀論、不毛な男女論、ウヨサヨ論、弱者叩き。 この頃どころか長年の話だが。それにしても見事に俗悪なトピックのオンパレードである。 豊かさも面目も失った本邦においては最大のエンターテインメントなのかもしれない。

悪意をもって不安や憤怒を煽る。責められれば悪びれもせずすっとぼける。他人の足を引っ張ることに人一倍暗い情熱を滾らせる。このような人非人が蠢く場所があるとは、悪い意味で世界は広い。

ここに居続ければ所詮同じ穴の狢のままだ。でも、もうおさらば。有象無象のアカウント諸君は井の中の蛙よろしく内輪同士で呪詛を吐けるだけ吐いて疲れ果て、もうTwitterから出てこないでほしい。 そして、ぼくの前に二度とその醜悪な姿を見せないでほしい。

そんなわけで、アカウント削除は遅きに失したとすら思っている。早い段階で見切りをつけられず後悔しているぐらいだ。多くの時間と労力を授業料としたが、今は長年のストレッサーが消えて清々している。

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