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障碍者の家族と旅行に行きづらくなった 〜伊是名さんの乗車拒否騒動について〜

コラムニストの伊是名夏子さんの記事が波紋を広げている。

http://blog.livedoor.jp/natirou/

伊是名さんは、電動車椅子の利用者である。彼女が友人・子どもらとの旅行の際に、JRの駅員に目的駅を告げたところ、「当該目的駅には階段しかないため、別の駅までしか対応できない」と伝えられたというのだ。

伊是名さんが事の経緯をブログ上にて発信した所、Twitter上で「#伊是名夏子さんを支持します」というハッシュタグとともに、幅広く拡散された。もっとも、「#伊是名夏子さんを支持しません」というハッシュタグも誕生し、彼女に対する批判の声も多く発信されることとなった。

筆者は家族に車椅子利用者がおり、このような問題においては半-当事者と言えるかもしれない。あくまで家族という立場からの発言になるが、車椅子利用者の外出や旅行には様々な困難が伴う。移動手段や宿泊先は非常に限定されるし、伊是名さんの記事内でもあったような「スタッフが数人がかかりで車椅子を抱えて運ぶ」という局面では、周りの視線が気になってしまう(私自身が、というのではなく、数人に運ばれる家族を見る人々の目が)。


本騒動まで私は伊是名さんを知らなかったが、彼女は当事者としてバリアフリー化に向けて声を上げ、様々な運動に携わってきたようだ。私も半-当事者として、伊是名の運動は切実に意義を感じるし、尊敬の意を表さずにはいられない。

しかしー

結論から言えば、私は本騒動を受けて、伊是名さんへの支持を表明する気になれない。否、正確には伊是名さんへの支持/不支持の応酬を見ていて、大切な観点が見落とされているように感ずる。以下は、私が本件問題について感じた違和感に基づく論考である。

なぜ伊是名さんは”炎上”したのか?

そもそも、なぜ伊是名さんの記事に対して、多くの非難が寄せられ、”炎上”のような状態になったのか。「JR側の対応の不備を理由に、障碍者の方が乗車拒否された」というだけならば、非難をするのは一部に限られるだろう。しかし伊是名さんの記事や彼女のプロフ等には、(少なくとも一部の方にとっては)単なる乗車拒否に収まらない情報が多く含まれていた。

「#伊是名夏子さんを支持しません」とTwitterで検索し、そのハッシュタグ付きの投稿を見てみると・・・・


①「対応できない」という駅員に対して、1時間も抗議を続けたこと

②事前連絡をしていないにも関わらず、無人駅での駅員による対応を求めたこと

③駅員に抗議をする傍ら、新聞社に連絡し本件に対する取材の依頼をしていること

④伊是名さんが社民党神奈川の幹部であること

挙げればキリがないが、上記が非難を受けているポイントのようである。

かくいう私自身も、伊是名さんの記事を初めて読んだ際、特に③については想像の範疇を超えており、疑問符のつくものだった。また、駅員とのコミュニケーション上の問題も大きいように感じた。とはいえ、伊是名さんに対する非難の声には、社民党(いわゆる”左翼””リベラル”)に対する反感が渾然一体となっているものも多く、人格攻撃と言わざるを得ない投稿も多い。確かに、伊是名さんのとった行動は、多くの方々(障碍者であるか否かに関わらず)にとって、様々な理由からできぬことであり、素朴な違和感を覚えざるを得ない。しかし、障碍者が声をあげる事は、私も含む健常者にとって不可視の問題を可視化する上で必要不可欠であり、それを「左翼のクレーマーが駅員にハラスメントをした」等というストーリーに収斂させることは、論外であろう。


ここで、私が記事を読んだ際に最初に思ったことを書きたい。

それは、「家族と旅行に行きづらくなったな」という事だった。

今回の騒動において、伊是名さんはかなり強固な対応をし、それを広範囲に拡散した。駅員さんに対する抗議や、メディアやブログ等への対応も、「やり過ぎでは」という感想を広げうるものだった。

冒頭で書いた通り、障碍者の方にとって外出や旅行は一大事だ。伊是名さんがそうしたように、事前に駅の構内マップを調べたり、駅に対して問い合わせをしたり、同じ駅や宿泊施設を利用した障碍者の方のブログやSNSを探して、利用にあたって問題となることを調べたり・・・そして行き先や移動中においては、家族だけではなく、駅員さんやホテルのスタッフの方などに様々な協力をしていただく必要がある。

今回の騒動を受けて、駅員さんに車椅子用エレベータを起動してもらう、飲食店の方に通路を空けてもらう・・などの対応を頼みづらくなった。少なくともJRの駅員さんは、本件騒動について認識しているだろうから、車椅子の方が何かお願い事をしたら構えざるを得ないだろう。また、この騒動を知った人たちは、車椅子をスタッフに運んでもらっている障碍者の方の姿をどう見るだろうか、と否が応でも想像してしまう。そのような周囲の方への協力の依頼について、心理的な障壁ができてしまったと感じている。

上記の私の感想に対しては、多くの批判があり得るだろう。伊是名さんの行動に対して「それは逆効果だ」と言うに等しいし、そもそも上記のような効果は伊是名さんではなくTwitter上の差別主義者が生み出したものだ、など。

しかしこれは、(反対派の意見に目を通す前に)伊是名さんの記事を読み、半ー当事者である私が抱いた素朴な実感であったし、敢えて引用はしないが、類似した見解を表明している当事者の方のツイートも拝見した。私自身の実感は抜きにしても、障碍者の方がそのように感じたことは軽視されるべきではないと思う。

つまり「勇気を出して声をあげる」ことは尊いし社会変革にも必要であろうが、それは万能ではない。方法/やり方がまずければ、デメリットも伴いうる。そしてそのデメリットは、他の当事者(本件では車椅子利用者)にも及びうる、と私は思う。

ハッシュタグ投稿などしない多数の人々がいる

コラムニストの勝部元気は、本騒動に関して、以下のような記事を上げている。

以下、一部引用したい。

 最後に、「バリアフリー化には賛成だけど、ブログで訴えたりマスメディアに通報したりする伊是名氏のやり方には賛成できない」という声に対して、反論を加えておきたいと思います。(中略)
 障がい者差別の問題に限らず、性差別にせよ、人種差別にせよ、かつて声を上げた人がいたからこそ、今では権利が当たり前に保障されています。「やり方ポリシング」をする人々は、そのような歴史も否定するのでしょうか? であるならば、事実上、社会的弱者の権利獲得に反対しているのに等しいのです。

即ち、人権獲得運動や「声を上げた人」に対して、その方法論を批判する人(勝部氏はこれを「やり方ポリシング」と呼ぶ)は、人権保障のための運動に対する反対者に等しい。本件で言えば、「伊是名氏の指摘した問題は重要だが、その方法におけるマズさによって弊害が生じている」と主張する私などは、障碍者の権利獲得に反対する人権意識の欠けた者ということになろう。

しかし、勝部氏の提示した図式は、単純に現実を反映していないと思う。

本件のような社会問題、伊是名さんの問題提起に対して、様々な意見を持つ人がいることは当然である。その中には、障碍者に対する蔑視や政治的党派性を動機に、方法論を持ち出して批判をしている人物もいるだろう。そうした人々に対して、「やり方ポリシング」という概念を持ち出して批判することは、正当かもしれない。しかし、方法論に関して批判を加える「やり方ポリス」は、差別主義者やリベラル嫌いばかりではない。その中には、伊是名氏と同じように当事者としてバリアフリーに関する問題に直面している人もいる。そうした意見のグラデーションを無視して、「やり方ポリシング」と唾棄するのは、あまりに乱暴すぎると思う。

また、「声を上げた結果、社会が変わる」という歴史的事実を否定するつもりはない。しかし、それは声を上げた「勇気」や「動機」のみならず、「結果」を伴わなければならない。そしてその「結果」について語る際には、社会を生きる大多数のサイレントマジョリティに対してどのような効果を生じたか、つまり社会における人権意識の改革を欠かすことができない。

世の中は、「#伊是名夏子さんを支持します/しません」というハッシュタグをつけてツイートする人だけで構成されているわけではない。Twitterを見れば、伊是名さんを支持する人や差別的言説で異を唱える人ばかりが目立つが、それは社会のほんの(そして極端な)一部に過ぎないのだ。この問題の周りには、「なんとなくバリアフリーは良い」と思いながら「駅員さんへの抗議の方法がやり過ぎでは?」「すぐに新聞記者に連絡するなんてなぜ?」「またハッシュタグか・・・」などの感想を持った人が多数いるだろう。そして、そうした「ハッシュタグ投稿をしない多くの人」の意見はTwitter上では可視化されない。

過度な抗議運動は、たとえそれが抗議の相手方(本件ならJR)を動かしたとしても、ハッシュタグ投稿などしないサイレントマジョリティの心を離反させうる。そして彼らに対して「賛同しないことや、方法を批判する事は、人権獲得運動に反対しているのと一緒だ」と言っても、彼らの心を離反させこそすれ、人権意識を変える「結果」などもたらさない。特に、本件のようなバリアフリー問題で言えば、(敢えて手垢のついた言葉で言えば)「心のバリアフリー」が欠かせない。要は、社会を生きる人々の障碍に対する意識が変わることだ。今回の騒動は、社会変革運動の「結果」における「ハッシュタグ投稿をしない人々への影響」が欠けていたと思う。

まとめ

まとめよう。

私が本稿で書いたのは、以下のように要約される。

・「勇気をあげて声を上げる」事は万能ではなく、デメリットを生じうる。そしてそのデメリットは、当事者にも及びうる。

・方法論に対する批判は正当な場合もあるし、それを「方法ポリシング」「反対派と同じ」などと一概に唾棄するのは、乱暴である

・「社会が変わる」ためには、その社会を生きる人々の意識が変わらなければならない。そうした「結果」という観点から見た時、今回の騒動により日本社会の人権意識が向上したのかといえば、疑問符がつかざるをえない。

以上は私の正直な考えであるが、暴力的ともなりうる言説である。このような言説により、障碍者の方が声を上げづらくなるかもしれない。その点については、反論をすべきではないと思う。しかし、「方法論」や「結果」に対する批判が一概に「方法ポリシング」なる言葉で一蹴される状態が続けば、それは却って多くの人々の心を社会問題から離反させることになるだろう。それが障碍者の方にとって望ましくないことは言うまでもない。

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