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映画『上飯田の話』 4月16日アフタートーク(諏訪敦彦監督・深田隆之監督)の一部公開。-言及されたシネマ・ヴェリテについて

2023年4月16日(日)に行われた上映後のアフタートークの一部が公開されました。ゲストは『2/Duo』『風の電話』などで国際的にも評価の高い作品を監督した諏訪敦彦監督と、『ある惑星の散文』『ナナメのろうか』など近年オルタナティブな映画作品を輩出する深田隆之監督にお越しいただきました。

監督たかはしは東京造形大学在学時、諏訪敦彦監督の生徒でした。また深田監督は大学の先輩でもあります。深田隆之監督作『ナナメのろうか』では助監督も務めています。「コメディのシネマ・ヴェリテ」と話す本作の魅力をお話しいただいています。こちらではゲストの来歴や、引用された用語などをまとめていきます。


▷諏訪敦彦監督

1996年に『2/デュオ』で長編映画監督デビュー。1999年に『M/OTHER』で、第52回カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を審査員全員一致で受賞。2008年4月1日、東京造形大学学長に就任。2020年、『風の電話』で第70回ベルリン国際映画祭国際審査員特別賞、第71回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%95%A6%E5%BD%A6

▷深田隆之監督

1988年生まれ。『ある惑星の散文』は2018年、第33回仏・ベルフォール国際映画祭にて正式招待され、2022年現在全国劇場公開中。また、濱口⻯介監督『偶然と想像』の2,3話に助監督として参加している。2021年からは愛知大学メディア芸術専攻で非常勤講師を務めている。

https://www.itchan-and-satchan.com/



シネマ・ヴェリテとは

シネマ・ヴェリテについて、ブリタニカ国際大百科事典にはこのようにあります。

1960年前後に輩出したフランスのドキュメンタリー映画の傾向をさす。「映画の真実」という意味だが,D.ベルトフの「キノ・プラウダ」を仏語訳して使用。インタビュー形式を多く用いている。以後,手持ちカメラ,同時録音,即興的撮影,素朴な編集という飾りけのないドキュメンタリー映画のスタイル全般をさすようになった。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%86-74612

ただ、このテキストだけだと「手持ちカメラ,同時録音,即興的撮影,素朴な編集という飾りけのないドキュメンタリー映画のスタイル全般をさす」ことしかわからず、大枠を掴むことができません。もうひとつ踏み込んだテキストを引用しましょう。『現代映画用語事典』から抜粋引用したとある「yutabou85」氏のはてなブログにはこのようにあります。

▪️シネマ・ヴェリテ [cinema verite](仏)
ドキュメンタリーの手法・スタイル。1950年代末から60年代にかけてフランスで台頭した、手持ちカメラや同時録音によって取材対象の人間に”真実”を語らせる形式。語源はロシアの記録映画作家ジガ・ヴェルトフが自作のニュース映画群に対して用いた”キノ・プラウダ”にあり、そのフランス語の直訳<シネマ・ヴェリテ>(映画・真実)がこの様式の名称となった。カメラや機材の軽量化が進み同時録音が可能となった1950年代末、フランスのジャン・ルーシュが「私は黒人」(59)やアフリカの記録映画などで、インタビュー形式により人間をありのまま生々しく捉え、映画史家ジョルジュ・サドゥールがこれらをシネマ・ヴェリテとして評価、またルーシュや協力者エドガール・モランもこの語を用いたことで、用語として広まった。この狭義での代表作は、ルーシュとモランの共同監督作「ある夏の記録」(61)やクリス・マルケルの「美しき五月」(63)など。ルーシュは<ヌーヴェル・ヴァーグ>の”左岸派”でもあり、撮影対象者にインタビューを行い、その返答反応を捉えることで真実の姿を描き出す方法は、ゴダールが「男性・女性」(66)に取り入れるなど、ヌーヴェル・ヴァーグとも深く関わりを持つとされる。

https://yutabou85.hatenablog.com/entry/2016/07/22/115242

このテキストからわかることは

・手持ちカメラや同時録音によって取材対象の人間に”真実”を語らせる。
インタビュー形式により人間をありのまま生々しく捉える。
・撮影対象者にインタビューを行い、その返答反応を捉える

上記の3点かと思われます。つまり撮影していること自体を隠さないということがわかります。それは映画『上飯田の話』におけるバナナの木の歴史を語るおじさんへ向けられたカメラにおける、「演技をしている」ということ自体も隠さない姿勢に見られます。

また前出したブログにはシネマ・ヴェリテに対比する形でダイレクト・シネマ [direct cinema]と呼ばれる手法にも言及しています。こちらは簡単に説明してしまえば「カメラの存在を消すように務める」点にあるとあります。

<ダイレクト・シネマ>の語句は、メイズルスがシネマ・ヴェリテとの差異を強調し使い始めたもので、対象をダイレクトに伝えるため”壁のハエ”(リーコックの言)となってカメラの存在を消すように務め、ナレーションを排し、ロング・テイクや最小限の編集で、出来事の時間順に構成したのが特徴。

https://yutabou85.hatenablog.com/entry/2016/07/22/115242

ただし70年代に入るとダイレクトシネマにおいても、取材対象に関与する部分を取り入れたと言われています。

70年代になるとダイレクト・シネマでもシネマ・ヴェリテのインタビュー形式や対象に関与する手法を部分的に取り入れだし、<ヴェリテ・スタイル>と呼ぶことが多くなった。これに対し、事実に準じて記録するドキュメンタリー全般を<観察映画/observational cinema>と命名した記述もある。(88-89頁)

https://yutabou85.hatenablog.com/entry/2016/07/22/115242

シネマ・ヴェリテとダイレクトシネマの差異に関してのニュアンスはこちらの動画が理解の手助けをします。

この動画は1961年公開の映画『ある夏の記録』(ジャン・ルーシュ監督)の作品について言及したインタビューです。簡単に要約すると「アメリカのダイレクト・シネマは「目に見えるものが真実」というスタイルで、フランスのシネマ・ヴェリテは「映画中に真実がある」という考え方。」であることに言及しています。このあたりのニュアンスは前出したはてなブログの言及に近いものがあります。

このような手法は現代のドキュメンタリーでも多く見られ一般的となっています。しかしこと劇映画における演技において、カメラに映った町民が、

・役割を請け負っていること

がコメディタッチで、観客にあけすけな形で伝わる点において、映画『上飯田の話』はフィクションにおけるシネマ・ヴェリテ的な一端を見ることができ、本作のユニークたる所以かと思われます。

もちろんただ演技していることが「観客にあけすけな形で伝わる」部分だけだと映画のバランスは崩れてしまいますが、本作は俳優たちによるフィクショナルな部分がその作品世界の質を担保している点(諏訪さんの仰った、映画におけるアンコントローラブルな部分とコントロールする部分をうまく引き分けに持ち込んでいる、という言及にも通じます)が本作の特徴のひとつであることは間違いないでしょう。

ちなみにジャン・ルーシュ監督『ある夏の記録』のwikiをみると、映画作品としてとてもユニークな構造をしており、映画の歴史に深く触れることができます。

本作は、カメラの正面で誠実に演じることができるかという、ルーシュとモランの議論で始まる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%8B%E5%A4%8F%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

ああ、バナナのおじさんはとても誠実な演技だったのかもしれない…

テキスト:ガブリシャス本田


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