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バファリンエルフイータースレイヤー 3 【後編】

 バファリンエルフはエルフではない。
 順を追おう。1000年前に来りて世界を変えた『異世界の色彩』は、人の変化欲求を参照した、と言われている。
 人は絶えず己がそれでない在り方を欲望するが、それが地に足つけぬ非現実的な要求だと自身が思っている限り、その結果を考えたりはしない。
 翼を得た人間の多くが、空に寝床はなく、大地に居場所を失い、海水に真水を求めるが如く、広い空と高き岩木に幽閉された。
 竜は誰からも傷つけらぬ体を手に入れ、誰からも加害者と見られる立場を手に入れた。
 労働者は求めて止まぬ鈍感を手に入れ、自己と他者を失った。
 その中でも一層悲惨であったと評せるのは、植物系統の亜人へとその身を変じた者であったろう。彼らの多くは、争いのない隠棲を求めてそのように身を変じた。
 しかし植物とは実の所、生まれた時からその基点を動かす事も叶わず、地下で根の、地上で葉の、また多くの動物、そしてそれら動物よりも尚多様なサイズの虫との生涯にわたる利用と闘争とを繰り広げながら、水を求め、光を求め、栄養を、即ち他者の死体を希求する修羅の生である。慣れ切ったヒトとしての闘争とは根本的に規格が違うその在り方に、多くの亜人が淘汰圧の下で擦り切れた。
 勿論、種として根付くことに成功した者もいる。生まれながらの収奪者である事を良しとした樹木亜人・トレントや、生涯を地中で過ごすことに同意し、それ故に神秘的な印象を与え乱獲と生息域の深化のいたちごっこを続ける根茎亜獣マンドラゴラ。もっとも源流の要素が強く、それゆえ頓狂した者だけが選択的に生き残り、後世に『人間に擬態する獣』と解されるまでに獣化を進めたアルラウネ。
 そして生物の常として『好運によって生き残った』としか言い様のない種もある。
 いわばアルラウネとマンドラゴラの中間にある種。バファリンエルフとはそういうものだった。


 入口の衛兵を片付けて以降、ドワーフっ子一人みかけていない。
 バッファロー・ピルは、自分が蛇か何かの巣穴に迷い込んだような感覚を覚えていた。左右に並ぶ地上で見ない類の、それでも規則的かつ文明的な意匠がほどこされた鉄扉がそれを否定しているが、それにしてもラミアとかそういった連中の巣穴ではあるまいな?
 略奪に入ったにも関わらず、堂々と歩き回りそんなよしなしごとばかり考えているのも、ゴブリンが自分たちオーガを露払いに利用した(などと言いはしなかったが同じ事だ)対価に、目的の場所を探すのを手伝おうと言うからだった。
 ゴブリン達は何やら手元の紙と扉の文様を見比べ、印をつけながら先へ進み、かと思えば戻ってきて仲間と合流し、また先に進んだりと今一つ行動の要領を得ない。
「……アレは何をしている」
 隣、更に下に視線を落とすながら問うと、あくせく働く同胞達を平然と眺めるゴブリンジェネラル──ファリンが答える。
「恥ずかしながら、私達は話せはしますが、読むとなるとまた話が別で」
「フン」
 オーガは鼻息ひとつでゴブリンの話した恥部を流した。自分の種族においてもその問題が深刻である事は先刻承知であったからだ。文弱の徒は軟弱の徒。力によって多くを手にした共同体が規範に戴きがちな蒙昧主義だが、どうにも支配者を気取るトロール共はその考え方を『種族特有の美風』として推奨している様ですらある。
 その割には『はぐれ者』として合流してくる連中は皆、満足に字が読めた試しがない。自らの意志で時代の主流から外れたと嘯くオーガの目に映る、この時代の欺瞞そのものだ。
(人海戦術で目当ての場所を探すのにも一苦労、か)
 行きつ戻りつしているのも、結局は読める文字の習熟度に差がある為だろう。力ある者は当然として、知ある者もまた必要とされる。見ていれば分かるようなものだが。
 など色々と考えてはいるものの、オーガは根本的に力の徒である。そもそもが全ての扉を蹴り破り、堂々と踏破するつもりで、衛兵を真っ先に全滅させたのであるから。
 とはいえ、それより楽な手段があるのならそちらに任せるのもやぶさかではない。そうした『怠惰』とも言える思考がなければ、仮にも共同体を取り回す側に立つ事など出来ないのだった。
 オーガとゴブリン。両陣営のリーダーである2人は、体格差により緊張する事も油断する事もなく、互いに互いを人質に取ったような緊張状態を当然のものとして受け入れ歩いている。そのせいもあって、ジェネラルに報告に来るゴブリン達の緊張は見ていて悲痛な程だった。無論、それを気にする両者ではないが。
「……ふむ」
「分かったか?」
「ええ、わからないという事が」
 苛立ったオーガが前蹴りを繰り出す前に、素早く言葉の釘を刺す。「ここらにないという事は、やはりアレより先でしょうね」
「フン、アレか……」
 侵入してからこっちずっと真っ直ぐ、最も広い街道を来ていたが、その正面には一際大きな鉄扉が聳えていた。
 バッファロー・ピルの背丈とちょうど同じ程度ある。ドワーフの身体には大きすぎる。機械仕掛けで動かすのだろう。
「判明している範囲ではアレと同じサイズの扉が3箇所確認されていますが、閉じているのはアレだけです。他の場所では、公共性の高いエリアが続いているようですね」
 オーガは表情を変えずに黙考する。
(どうにもこのゴブリンには体よく利用されている予感……いや、確信がある。だが、現時点で『気付いた』事を匂わせるのは得策ではない、か。舐められているのは間違いない。だが『気付いていたのに協力した』と受け取られるのは更にマズい。そこで格付けが決まってしまう)
 愚直さを装う知性を秘めながら、本性を垣間見せる。即ち、大鬼の暴力だ。
 苛立ちを筋肉の緊張に換え、今こそ前蹴りを放つ。
 砲弾が地面を抉るような音が地下空間を震わせた。むべなるかな、鉄扉は見た目に歪みはしない。ただ、それを留める役目を果たす壁面が抉れ、傾きによって生じた上部の隙間を通る空気が、怯えるような甲高い音を立てている。それもすぐに途絶える。二撃。三撃。
 厚い鉄の扉が折れた機械仕掛けごと、煉瓦を巻き込み砕きながら倒れた。
 その向こうには、一人の中年ドワーフが振り向きかけた姿勢で固まっている。
「ああ……」
 情けなく漏らされた声。震える手には酒瓶が握られていた。ゴブリン達は動かない。道案内でもさせるつもりか。アレに?
「ああ、あの、そうだ、お、お客様ですよね? ですよね?」
 苛立ちを覚えさせる媚びた所作で、いらえのない自分に都合のいい問いを繰り返している。
「お、さ、いやしょうもないものなんですが、その、お酒をどうぞ」
 そう言って下投げで放られた酒瓶を、苛立つオーガは手で払い──瓶が砕けた。いくら膂力に優れると言っても、酒瓶をそのつもりもないのに破砕したりはしない。
(傷を入れていたのか? だが何故──)
 その答えはすぐさま飛来した。火矢が度数の高い酒に引火し、小規模な炎を躍らせた。
「ヌッ!」
 ファリンが口笛を吹く。流石のバッファロー・ピルも突然の事態に数秒の逡巡を強いられた。ドワーフの地下空間では、その崩壊を防ぐ為、水路は厳密に制限されている。見渡す範囲に水場はない。
「小癪なッ!」
 オーガは燃える腕を壁に突き込み、じっと待った。作り出された閉所で酸素の供給が絶たれ、みるみる内に消火していく。
 計10秒ほどの無警戒を歴戦たるバッファロー・ピルが己に許したのは、火が己に燃え移り、ファリンが口笛を吹いた瞬間、潜在的な敵であったゴブリン達は残らず吶喊し、忌々しいドワーフを迂回してその先へと消えたからだった。ひらひらと紙片が舞う。そこには今の大路を戻り、入り口近くの三叉路から別の一本を通り、鍛冶場と練兵場へ向かう導線が書き込まれていた。端に“この借りはいずれ”という一文。
 青筋を立てながら、目前のドワーフを睨む。床の煉瓦に斬り込み埋め込むように隠していたか、土のついたバスタードソードを半身に構えている。多少の心得はありそうだ。その先にもう1人。
(……トロール?)
 首から2等外交官章を下げたトロールが、足元にゴブリンの連弩を放り出してハンズアップしていた。それはこの世界であっても変わる事のない、敵意のない事を示すサインである。無論、既に攻撃を仕掛けているオーガに対して、今更敵意がないもあったものではない。しかしゴブリン達は、いやさファリンはそれを「自分たちゴブリンに対しては敵意がない」と解釈した(と、無力なトロールを無視するという行動によって見せた)というわけだ。
地上の権威の威を被ったトロールを傷つける事は、かなり厄介に尾を引く。それは賞金首のようなはぐれ者においてさえ共通している認識だった。
(関係ない)
 オーガは歩を進めながら、その視線を哀れなトロールに合わせた。
「貴様の手足を潰し!!身代金を搾り取った後で!!頭から喰らってくれるわ!!」


時折、頭上を走り回る小さい足音が聞こえる。
 ライト少年は畑に隠された地下空間で、バファリンエルフの目線を感じつつ、壁を補強する、木刀にもなる手頃な芯材を抜き取ろうと格闘している。
バファリンとは『緩和するもの』の意である。アルラウネの持つ源流要素を、マンドラゴラの徹底した隠棲主義で保護した、という生存方針からその名を戴き、かつその姿形の美しさからエルフと呼ばれた。
もっとも、その名付けは『異世界の色彩』から興る新生系統学的には正確さを欠く。実際には地上でダークエルフと呼ばれる亜人こそ、源流から『美』とそれ故に生じる『優越と驕慢』をもって分離した、正しく『エルフ』と名乗るべき存在であった。
 ならばバファリンエルフの要素は何であるか。それは『慈愛』であった。その濁りなき『慈愛』は、好運と幸福、愛情の受容と需要に欠くことない生から得たものであり、その姿形はただ生前のそれを模しているか、あるいは自己のイメージ像であったろう。
『慈愛』。それは量が増し磨かれていくに従い、人の無尽の悲しみの源泉『慈悲』へと形を変え、そして消え去るさだめにある。
 与えない人。与えられない人。与えられなかった人。与えることができなかった人。与えられることを諦めた人。与えることを諦めた人。
 様々に目の当たりにすることになる人模様を見る自己の目にも好悪があり、美醜の観があり、嫌悪がある。慈悲は失われていく。彼らはそれを得る資格がないのだ。私が愛する人、私を愛する人だけを私は愛すのだ。あなたも隣の人を愛せばいい。私のように。そうすればしあわせなのに、どうして彼らはそうしないのだろう。
かくして『慈愛』は個別的な『愛情』の未熟児として流産する。残るのは重荷を失くし自己の生を謳歌する、ただの人間だ。
 しかるに、それが失われないよう保持されるならば、それはどのような生を送っているのだろう? その答えの一つが、地中で、一人でいるバファリンエルフの生態だった。土中の冷たさを許し、暗闇で漠然と世界を想う自閉こそがそれを可能にした。バファリンエルフ。『対象なき慈愛』は破れない。
 しかし『破れ』は向こうから来た。罪人として、とりわけ毒の多い地を開墾させられていたドワーフ達により掘り出され『出会った』バファリンエルフからはいよいよ漏れだすものがあった。それはあるいは慈愛の澱、純粋でいることの倦怠であり、劣化したからこそ対象を持つ『愛情』であったかもしれない。それは、栄養生殖により分体としてバファリンエルフから分離を始めた。いわゆる『エルフ』である。
『エルフ』は接触したものと時間をかけて結合し、自己本位のふるまい、攻撃性や毒性と反応し中和する性質を持っていた。そして、その性質を持つエルフ成分も『余り』として微量だが残り、たとえば食物の毒性と中和結合したのなら、それを食べた人間にもいくらかは作用した。
 事情を知る少数のドワーフによって、多少の研究の他はバファリンエルフの孤独を守りながら、その子株であるエルフを利用する穏やかな共生関係が築かれた。アルコーをはじめとする成員まで連綿と続くドワーフの有力氏族の方針により、十分にその生態が研究された『エルフ』のみが、地上の支配者トロールの『統率者』ハンガーに開示され、初めは共生亜獣として、そしてやがてはその価値を認め亜人へと格上げ認定され、緩やかにこの世界に広められていく手筈だった。
 そしてバファリンエルフは、ドワーフ達によって地下に隠され手入れされた花園として、孤独と慈愛を守っていったのだろう。あの『襲撃』さえなければ。


 バッファロー・ピルはトロールが背を向けて逃げるのを憎々しげに見送っていた。あまりに近づきすぎると己の得物の威力と有利が喪失するからであった。怒りの渦中にあっても、それは闘争の冷静さと同居しうる。
 配下たちにファリンの置き土産の地図を押し付け「行け」と言いつけると、彼らが退がるのも待たず、ゆっくりと鎖を回し出した。
 ドワーフの構えを見る。シンプルに両手で保持し、刃先をこちらへ向けている。バスタードソード。種族としてトロールよりも縦に短い為か、その得物も幾分に短い。だが、品質はいい。
(そうでなくては)
 そもそも武具を略奪に入ったオーガである。質のよい剣は歓迎だ。それにへばりつく肉体の方はすぐ肉塊に変えてやるが。
 瞬時、音も高らかに加速した鎖を左側面から叩きつけるように振るう。受けなければそのまま巻き付きつつ、先端で肩を背を打ち、剣で受けようと背後から回り込み、反対の腕を叩く。両手で保持する以上──いやそうでなくとも、腕一本動かなければ戦えなどしない。まして首領級オーガと。膂力で圧倒する故のシンプルな攻撃。
 ドワーフは両手を添えた剣にて、ゆったりと見える動きで──その印象が、そのまま速度の遅さを意味するのなら、対処として間に合うはずがなかった、とオーガが気付いたのは、いま少し後になってからだった──鎖に打ち合わせた。
 バインド。それは長剣術の本尊。力と力、刃と刃が接する拮抗を支点として繰り広げられる、剣同士の柔術とも言うべき技術、あるいは状況の名である。
 本来長剣同士の打ち合いに有効な術理であるが、ドワーフは直進する鎖をあたかも一本の棒のように見立てる事で、その拮抗を作り出した。更にそこから押し込む。
 そこから生じる状況は主に二つ。相手が力に任せ押し込んでくる。この場合、自分は剣を引き、敵の剣を逸らして斬る。
相手が力で圧されて引く。その場合、自分は剣を押し込み敵の剣を逸らせつつ、斬る。
 柔術と言ったのはそこに『紛れ』が存在する余地が限りなく小さいからだ。同条件からスパークする後の先の取り合い。力の多寡すら『先』を取る為の要素のひとつでしかなくなる。より練り込んだ技量を持つ方が勝つ『技』の領域。
 だがこれは、敵が既に刃圏に居るか、せいぜい1~2歩で勝負を決しうる距離に居る事が前提される術理でもある。ドワーフとオーガの距離はおよそ10歩。技のみで埋められる距離ではない。
 鎖に込められた力により押し込まれた剣を引き、そのままくるりと背後を向く。支点を得て、回り込む鎖の旋回をなぞるように、剣の腹で導くかの如く逸らす。一回転。したかと思うと身を沈め、背負い投げるの如く剣を振り下ろした。
 鎖はドワーフの背の上を越え、惰性と慣性でもって輪を閉じんとしていた黒鉄が、白銀の刀身によって新たな命を与えられ、奔る。
 オーガは信じられない物を見る目で、自分が放ち、いまや自身へと帰ろうとする鎖と、剣を左肩に担ぐように構えなおしつつ吶喊するドワーフを見た。
 その構えから出る攻撃を予測する。狙いは明らか。鎖を振るう為に突き出された腕と交差する形の袈裟。突出した右手首を切断するつもりなのだ。
 決定的な対処法が思いつかぬまま、振り切った右腕を無理矢理、叩きつけるように振り下ろす。波が伝わり、黒蛇の威力が中空へと散る──停止する際の不随意の挙動から身を守る意味もあるのか、あの左構えは──だが迫る剣に対処する手が残っていない。
 残り4歩。
 死の恐怖。堪える。
 残り2歩。
 鎖の先端が上下に跳ね、運動を停止した。だが右腕を振り上げるのは自ら敵刃に捧げるようなもの。剣の先端速度が目視不可の速度帯に入り消え失せる。堪える。
 1歩。互いに踏み出し、ドワーフの袈裟斬りとオーガの左の掌打が重なる。
 ドワーフが吹き飛ぶ。オーガは水中に5分もいたかのように大きく、止めていた息を吐いた。
 迫る圧力に負けて半歩でも早く飛び出していれば、無防備な鎖骨に食らいつかれ、心臓を割られていただろう。ともすれば致死の愚策を『死中に活あり』とばかりに潜ったのだった。紛れもない修羅場を抜け。結果的には死を退けた。だが。
(代償は軽くはない、か)
 極限の一手を、それ故に当然取りうる手として予想していたのだろう──あるいは咄嗟の判断だというのか?──滑らかに剣筋を翻したドワーフの剣は、吹き飛ばされつつも、突きを放つ左掌の半ばを横一文字に引っ掛けていった。
 切断は免れた。だがオーガの厚い肉をして骨が見えかねない傷。操鎖を困難にする有効手。
 この穴倉に入って初めての傷だった。だがこれが最後の傷であろう。
 手を握り、開く。握り、開く。しばし放心の時を過ごす。その感傷を断ち切ったのは、視界の端で動くものを捉えたからだった。
 呻きながら、しかし剣を杖にする事すらなく立ち上がるドワーフ。
 オーガはもはや驚愕を隠さなかった。互いの速力が載った大鬼の掌打。骨の砕けた感触こそなかったものの、その力は内臓に伝わり、それを破裂させるに充分だと確信していた。それだけの威力だった。
 ドワーフの肉体的な種族的特性は職人的な手先の器用さ、そして『持久力』。言い換えれば高い密度の遅筋である。
速筋に特化したゴブリンや、筋肉の量から無理矢理速度を引き出すオーガに瞬発力で劣るものの、とりわけ防御力と柔軟さ、継戦能力においては、特に身体的闘争に秀でた2種に引けを取るものでは決してない。
 しかしいかに肉体の防御力が優れていようと、得物を使った死合いで速度に劣れば、傷つき、鈍り、いずれ斃れるしかない道理だ。しかしこのドワーフは、その不利を器用さ──『技』によって補っていた。
(いや、不利を補うなどといった次元ではない)
 オーガは壁に埋まった電気ランタン、その熱部を左手で握った。わずかならぬ苦痛が、血を焼き、焦がす。しかしその表情には紛れもない、歓びが。
 これだ。これこそが剣士。速力を活かし一方的に刺すゴブリンの剣でも、殺傷能力の増加のみを求めるオーガの剣でもない。技で速力に、肉体の差に喰らいつくこれこそが。
「まさかこのような穴倉の底で、天下に恥じぬ剣士にまみえようとはな!」
 朗々と、挑戦者を讃える王者の如く不遜に大鬼は名乗った。
「褒めてやろう。そして聞くがいい! 我が銘はオーガロード、バッファロー・ピルなり!」
 堂々たる声量で、ふつふつと煮え滾る戦意を放つ。対して、油断なく、視線と平行に剣を構えたドワーフはただ静かに応じる。
「俺はアルコー……ただのドワーフだ」
 バッファロー・ピルは一層の不敵な笑みを浮かべると、握るランタンを砕いた。
二つの影が近付く。


 足音が跳ね、止まる。もう一度。土を被った板材を手探る音。
 大丈夫。何の為に自分が来たのか。隠し扉の内側から高精度で加工され、不自然ながたつきも出ない閂をかけられるからだし、最後の手段もある。ライト少年は背後にした壁、隙間を少しずつ入れて組まれた煉瓦壁を見る。
 芯材を引き抜いた後、特定の煉瓦を押し込み外す事で、ここを崩落させる事が出来る。バファリンエルフは本来土中の存在だ。生き埋めになっても問題はない。さきほど引き抜いた芯材のうち一本は、ありあわせの武器として少年の手の中にあった。戦う意思。自らの生存やその危機についてなどまるで考えに入っていない。幼い者の眼差しには、強い使命感、憎悪、そして恐怖が入り交じっていた。
 そんな少年を背後から抱きすくめるようにしながら、美しい手がその顎を撫でさすっていた。ドワーフ流のざっかない植物織物からは想像がつきにくいが、紛れもなく同じ素材から成る滑らかな貫頭衣には、草木から抽出された液で着彩されたドワーフの伝統紋様が所狭しと詰め込まれて、ひとつの小世界を織り上げている。祝祭に際した司祭職ですら自ら纏うには荷が重いと嘆息するような瀟洒な布地であるが。それほどまで整えてようやく、それを纏う肢体の存在感に能う。
 電気ランタンの火ならぬ光は、色の薄い肉にそれ自体が放つかのような細やかな光彩を纏わせ、それを覆う皮膚に瑞々しく濡れているが如く透明感を与える。少年は、ドワーフの厚い皮膚や、それに比べれば薄い自分の皮膚が同時に視界に入る度に不思議に思う。仮にこれをやすり掛けしていっても母のようになる気はしない。
「か、母さん、集中できないから」
 その指が気づかわしげに顎の下を撫でさするのだった。つめたくて気持ちがいい。
 ほとんど全てと言っていい時間を地下でひとり過ごすのがバファリンエルフである。孤独の涵養はエルフを得るために必要な事ではあったが、人として過ごす事、稀に彼女の子供がこの地下を訪れる事を、ドワーフの有力者達は妨げなかった。
 それは人としての尊厳を慮ったのかもしれないし、あるいは贖罪かもしれない。もしかしたら計算だったかも知れなかった。『孤独』はまったく1人で生まれるというものではない。誰かが訪れられる場所があり、またそれを望むにも関わらず、その誰かがそばにいないという事こそが『孤独』を育むのだから。
 現に、ライト少年が自分の意思で彼女の元を訪うようになって、『エルフ』の生産性は右肩上がりであった。それが良い事かむごい事か、バファリンエルフは語らない。しかし少なくとも今このひと時を、己の身の不安よりは、小さく震えながら立つ息子へ労りの時として捉えていた。
「…場所は変わ……いる」
 不意に、隠し扉が物理的に阻み、小さくなった声がぼそぼそと耳に届く。
「細…も精巧になって……し、ダミー…数も…えた」
 喉をくすぐっていた指が強張って止まった。少年は気遣わし気に、小さな手で母の指を撫ぜつつ、顎下から外した。
「…すが………駄目…す…他はガタ…くのに…ここは」
 細い物が扉を叩いていく。
 ライトはふと、喉の水分が一切失せているのに気が付いた。
 その音は閂の上で止まり、更に周りをコツコツと二、三叩くと止んだ。
 乾いた波が地下空間を震わせる。上階から穿たれた穴から光が射し、壊れて落ちた元・閂錠から生えた銀色の矢を照らしていた。
 吐く息は荒く、頭が痺れていく。指が冷たい。芯材を掴む手が白くなっている。強く持ちすぎだ。握り直さなければ──指の解き方が分からない。
 すがるように、穴から降りる細い光を見つめる。その向こう。
 眼が、こちらを見ていた。
「ここだけは造りが精巧すぎましたね」
「────────」
 声なき悲鳴をあげ、少年は振り返り壁に打ち掛かる。目線の先には一つの煉瓦。それを押し込めばここは崩落する。耐えられない。あの目にも、それを看過する事も。
 だが、その前に母が立ち塞がった。
「母さんッ! どいてッ!」
 だが、彼女はわずかに目を細めただけだった。そこに浮かんだ感情を読み取ることができない。薄い感情表現に慣れたライト少年にも、それは見たことのないものであったからだ。
「母さん……?」
 芯材が床に転がる。手放したのではない。叩き落とされたのだ。
「ガキは殺すな。……トロールとは停戦が継続中だ」
 声を振り返ると、そこには不機嫌そうに部下に命令するゴブリン。ほんの数秒。その間にこの狭い地下部屋には数人のゴブリンが入り込み、拘束用の縄を手繰っていた。
 声を出そうとしたライト少年の口に背後から布が噛まされ、膝をつかされ、あれよあれよと縛り上げられていく。すぐに足指と瞼以外、首すら巡らす事も容易でない縄の塊となった。
「ようやく会えましたが……」
 この集団の頭目であるらしいゴブリンが、床に転がる少年を忌々しげにねめつけた後、バファリンエルフへと視線を合わせた。じっくりと、値踏みするように見る。
「……まぁ、ここまで来て収穫もなし、というわけにもいかないでしょう。連れていくぞ」
 母さんに手を出すな。その意思は言葉にならず呻き声へと果てていく。
 バファリンエルフは掴まれた手を振りほどこうとするも、力もなく、ただ腕を震わせているようにしか見えない。
「何をしている。担いでいくぞ。引っこ抜いていけ」
「ほう、では俺様が手伝ってやろう」
 バキ。
 水気のあるものが砕ける音がして、バファリンエルフが片手で持ち上げられる。その爪先──地面に根を這わす爪先が割れ、足指が地面に残っていた。黄金色の液体が断面から滴る。
 足先が壊れ、乳房と背骨を諸共潰すかの如く指が食い込んでも、美しい女人のカタチはわずかに表情を歪めたのみで、悲鳴はなかった。地下で永くを孤独に過ごすバファリンエルフは、筋肉と同じく、神経機能もまた、その大部分を退化させている。
「なんだ、植物か」
「……バッファロー・ピル」
「随分と俺様を利用してくれたな、ファリン? ん?」
 ファリン以外の全頭から連弩を向けられながら、大鬼は可笑しくて堪らないというように、口の形だけで嗤ってみせた。大鬼は、その手に小さな剣を持っていた──否、小さくはない。持ち手が大きいだけで。あれは見慣れた、アルコーの剣だ。
「喉が渇いた」
 バツン。
 左耳部、左目部、真っ直ぐ通った鼻、上顎と下顎。
 それを除く頭部が、オーガの口中に消えた。名状しがたい咀嚼音が、他に物音一つない地下空間に、そしてライト少年の鼓膜に永遠に焼き付いた。
物音一つない? いや、音はある。騒ぐゴブリン。腕を突き出し静止しているらしい頭目。大鬼のニヤつき。誰かが落としたコップが床に叩きつけられ砕ける音。衣擦れの音。どこかに埋まった水道管を流れる水の音。電気ランタンの微細な振動の音。心臓の音。血が流れている音。母の断面から滴り落ちる──雫。全て聞こえる。何も聞こえない。
 大鬼は母の遺体を放り投げ、ゴブリンのそれを落とすまいと数人がかりで受け止める。大笑しながら、オーガは階段を上っていく。ゴブリンの頭目が鼻から息を吐いた。
「ま、元々使いではなかったようですし、昼飯にでもしますか」
 少年に一瞥をくれてから、続いてぞろぞろと昇っていく。
「あのオーガも、美味いと言っていましたし」
 少年の視界は赤く染まり、そこで途切れた。

 道場の天井を見ている。
 揚げたてじゃがるこをつまむ権利を賭けてアルコーと組み手をしていたのだ。
 アルコーは軽く剣打を捌く一方、ライトが攻め気を出そうとすると決まって体当たりや掌打、足払いや投げを使って、少年を柔らかな土床にころころ転がした。
「言っただろ」
 少年は仰向けの状態から、視線を動かさずに近づく声音だけで間合いを図り、腕だけで木剣を振るう。アルコーはひょいと上げた足でそれを踏み留めた。
「やられる前にやるって覚悟はいらん。身を守れ。で、相手がやられる前にやるって出て来た所を叩け」
「師範は攻めてこないじゃん」
「それが護身だ」
「僕が勝てないじゃんって話じゃん!」
 当たり前だ、と肩を竦めてから踏みつけた木刀をそのまま壁際まで滑らせ、どこからか酒瓶を取り出しながらドワーフは笑う。
「強いヤツはずるいから強いんだ」
 酒を煽る時を見計らってとびかかった顔面を素足で踏まれてうめく。
「ずるしようとしてんのに……」
「それで1人はやれても、次はどうすんだ」
「……次って」
「1人斬るだけが目的なのか、って言ってんだ」
 少年は黙り込む。そうだ、と返したくなる衝動を抑えつけているらしい。若い葛藤にわずかに目尻を下げながら、また一口呷る。
「守るんだろ」
「……うん」
「じゃあまずお前が生き残らねぇとな。ずるを通せるヤツが強いんだ」
「さっきと言ってる事ちがうんだけど……」
 重なる「適当だな!」「適当だからな」。笑い合う。遠い──年月以上に遠くなった、記憶。


 道場の天井を見ている。
 空気が止まっている、と思った。空調ダクトの音がいつもより大きく聞こえる、のに。
 どこから引っ張り出してきたものか、布張りの寝床だ。身を起こすと、腕やら胸やらから濡らした布が落ちた。ひどく痛む。けれど、身体を確認しない。枕側の寝床脇には芋で作られた保存食と水差しが置かれていた。何故だか、弾かれたように激しく目を逸らす。
 どこだろう。──何が?
 ぼとぼとと濡れた布を落としながら立ち上がる。
 足裏と脛が軋むような痛みを訴える。考えてはならない。首が痛み、ひじがつっぱり、肋骨が内側から皮膚をごりごりと擦っているかのような違和感。あってはならない。
 自分の脚が痛みを絶えず与えながら自分をどこに連れて行こうとしているのか、少年には想像もつかなかった。
 大通りに出ると、何人かのドワーフから声をかけられたような気がする。呼び止められたような気もする。
 畑に出て、壁を伝い歩く。エルフの多くの位置が変わっていたが、自分には分かる。隠し扉だった板戸が打ち捨てられていた。階段を少し下った所に、金属の矢に貫かれた錠前が落ちていた。ゆっくりと降りていく。ここまで来れば、もう焦る事はない。焦る事はない。手にした矢から、壊れた錠前が落ちた。
 隠し部屋に降りると、折れた何かの一部が残っていた。金色の粒子がそこから漂っている。なんだろう。なんだろう。なんだろう。
 無音はいよいよ大きくなり、頭蓋は破裂しそうになっていた。手の中の矢をじっと見つめ、それをどこか、とにかくこの自分の身体であればどこでもいい、突き立てようとした時、それに気付いた。
 煉瓦一つ押せばこの小部屋を崩せるはずの仕掛け壁。それとは違う壁面が、立てかけられた槌によってだろう──壊されていた。
これといった理由もなく、壁の穴を跨いで入ると、背後から流れ込んできた空気が火照る肌を冷やした。中は短い洞窟のようだ。凍り付くように冷える右肩に触れると、そこにはまだ濡らした布が張り付いていた事に気が付いた。先ほどから空間に漂う、何のとは表現できないが心地よい馴染み深い香りをどうしてか感じたくなくて、鼻にそれを押し付ける。何の匂いとも言い難い、『家』の匂いがした。
 ランタンもない闇の中には、少年の背後からの光を受けるドワーフがいた。足音に気が付いて、ゆっくりと振り返る。その顔、その肌は、赤青いくつもの痣で彩られていた。
「起きたか、ライト」
 そしてまた向き直り、土を掘る。素手で丁寧に取り除いていく。その腕にも黒々とした青痣が浮き上がっている。
「悪いが、今は皆の為に彼女が必要なんだ。上に戻っていなさい」
 長い沈黙。
どのくらい経ったか、アルコーの方から話し始めた。
退屈だろうから、というような気安い雰囲気で。
「ハンガー先生がな、言ってたんだ」
 少年は肉体が突発的に訴える苦痛に応じて体をふらつかせるだけで、相槌を打つ事もない。
「ドワーフは優しすぎる、って。いやもっと違う言い方してたかな。利他的すぎる、とか……。エルフは作物の毒やら土なんかを役立つようにするだろう。それは、エルフが他と争う事もなく地中で過ごそうとするだけの優しさをもっているからだって、まぁそこまではドワーフの中でも伝わっているよな。
 俺はずっと思っていた。皆が優しすぎて、居心地が悪いと。俺は他人よりも氏族が大事だし、氏族より親兄弟が大事だ。そう思っていた。でも、氏族の連中はそうは思わない。親兄弟はそう思わない。誰かの為に俺を置いて行ってしまう。それが寂しかったよ。寒かった。それを少しでも紛らわそうと酒ばかり飲んでいた。
 でも他の誰かより自分たちの方が大切だっていう浅ましい性根は、外界と交渉するには向いていた。捨てる神あれば拾う神あり、だな。地上の諺だよ。
 けど違ったんだ。エルフが毒を分解した作物を継続的に食う事で、ドワーフは少しずつ『優しく』なっていったんだ。酒は、たぶんそれを打ち消す効果があったんだろうな。酒を呑むとどこかで頭が冴える感覚があった。ドワーフは地上じゃ酒乱として知られているらしいが、まさしく、というわけだ!」
 掘る代わりに、払うような動きが多くなっていく。
 よく見ると、片方の手は小指側に添え木がされていた。気にした風もなく、作業を続ける。
「長く続けなきゃ駄目だ。10日や20日では効果がないらしいのはハンガー先生が違和感を感じた事からもわかるだろう。それに、お前も効果が薄いな。数十年といった単位なのかもしらん。それに、エルフじゃあダメだ。あいつらは作物を良くしていたら、その内その力を失うからなぁ。生まれ持った『優しさ』分を消費しちまうんだろう。
 だが、じゃあ、そのエルフを分体として生み続けるバファリンエルフを口にしたなら、それによって与えられる『優しさ』はどれほどなんだろう?」
 ドワーフが優しい手つきで土中から顕したのは、少年と同じ様な体長の裸の少女──どこか少年に似た──どこか少年の母に似た──バファリンエルフだった。
「……お前にも隠していたのは悪かったな。だが誰にも知られるわけにはいかなかった。お前の母さんにも。深い『孤独』がエルフを育み、長い『孤独』が次代のバファリンエルフを生むからだ。文献にもそうある」
 少年は緊張しきった面差しの中に、どこか縋るような目で養父を見た。
「だが、有事の前には仕方がない」
 抱き上げるように、力強く、ぶち、ぶちぶちぶちと細い根を引きちぎっていく。バファリンエルフの反応は鈍い。母に比べれば『ない』も同然だ。
 だが、ある。少年はそれを知っている。
「オーガとゴブリンの頭目が謝罪をしてきた。いずれも……バファリンエルフを口にした者達だ。ゴブリンはともかく、オーガの方はまだまとまっていない。頭目しか、喰ってないからな」
「まだ」
 掠れた声で、濡れた布越しに、それでも到底隠し切れない激情を、少年は吐き出した。
「まだ喰わせるつもりなのかッ!! あいつらにッ!!」
「わかってくれ、ライト」
 養父はゆっくりと振り返り、光の中にその表情を晒した。
 優しい顔。ただひたすら優しい顔。だがその表情の奥には──何もない。
「俺は『皆』が大切なんだ」
 感情のない優しさ。その瞬間、彼はそれを終生の敵と定めた。
 少年の頭脳は高速で状況を観測する。なるほど。相手に武器のない状況。相手が疲労している状況。
手元を検分する。鋭い先端の金属矢。自分にのみ武器がある状況。そして『優しさ』とやらを吸入しない状況───縛られ、痛々しく赤い痕を冷やすために載せたのだろう布、その表面に金色の粒子が付着していた──殺害手順が積みあがっていく。
 涙は流さなかった。始まった時も、終わった時も。
「さよなら、父さん」
 バファリンエルフイータースレイヤー。

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