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丹波亀山はなぜ「亀岡」になったのか ~2つの「亀山」がたどった運命~

 みなさんは「亀山」という地名に出会ったことはありますでしょうか。

 私の記事を読んでくださる方は当然ながら心当たりが1つ以上あるとは思いますが、そもそも「亀山」という地名は全国にたくさんあります。
 例えば、千葉県には「亀山ダム」があったり、香川県にある「亀山」という山は丸亀城として利用されたり、また幕末に坂本龍馬らが設立した「亀山社中」も現在の長崎県にある「亀山」という地名から来ています。

千葉県君津市 亀山ダム

 「亀山」という地名の由来は数多くあり、「亀がたくさんいたから」「亀山天皇ゆかりの地だから」「信仰の対象である『神山』から変化した」などの説があります。まあ、「亀」と「山」という身近なモノの名前を組み合わせたものなので、日本各地で自然と発生したものなのだと思います。

 さて、そんな数多くある亀山という場所ですが、市町村の名前となった場所は現在日本国内で1か所しかありません。そう、三重県亀山市です。こんなにありふれた地名なのに、市町村になったのが1つしかないというのは少し不思議ではありませんか?
 しかし、日本にもう1か所、「亀山市」を名乗ってもおかしくないのに、そうはならなかった亀山があります。そう、現在の京都府亀岡市です。

 亀岡市はかつて丹波の国の亀山と呼ばれた場所であり、中心地である(丹波)亀山城は明智光秀が本能寺へと出撃した地としても歴史的に有名です。しかし、いつの間に、なぜ、丹波亀山は亀岡になったのでしょうか?

 今回は、そんな亀岡という地名の謎について、三重県の亀山(以下、伊勢亀山)と京都府の亀山(以下、丹波亀山)の歴史を比較しながら迫っていこうと思います。




2つの「亀山藩」

亀山城築城と亀山藩の設置

 伊勢と丹波、それぞれの土地がいつから亀山と呼ばれるようになったかを知るのは難しいですが、ここでは戦国時代ごろ以降の歴史を見て行こうと思います。群雄割拠の戦国時代には、それぞれに亀山と呼ばれる土地が生まれ、そこを支配する拠点として亀山城がおかれました。

 伊勢亀山の場合、現存する中で最も古い「亀山」という地名の記述は、15世紀ごろの史料に記されており、当時亀山付近を支配していた関氏が亀山の地に拠点となる城を築いたとされています。その後移転されたのちに、江戸時代まで君臨した亀山城ができました。
 一方で、丹波亀山については、16世紀に明智光秀によって築城されたとされています。そしてかの本能寺の変のあとは豊臣勢の重要拠点となり、のちに関ヶ原の戦いで最重要人物の一人となる小早川秀秋が城主となったり、数奇な運命をたどることとなります。

 こうしてそれぞれの地に亀山城がおかれ、そして戦国時代が終わり支配が安定してくることで、それぞれの亀山藩が成立しました。本来、城があればそこに藩が必ず置かれるわけではありませんが、伊勢亀山は東海道の、丹波亀山は山陰街道の宿場町であり、物流の重要拠点であることから繁栄し、長く支配が続くことになったと言えるでしょう。
 ほかにも全国各地に「亀山城」という名の城は複数あったようですが、江戸時代に入って「亀山藩」として長らく存在することになったのはこの2か所だけでした。


亀山城取り違え事件?

 こうして江戸時代には亀山という2つ同じ名前の藩が存在し続けることとなります。他にも、松山藩が出羽国と伊予国のほか複数あったりと、名前が被っている藩はあり、全体を統括する江戸城では混乱を招くこともあったことでしょう。VLOOKUP関数とか使えなくて困ったんだろうなあ。
 そのため、亀山城には次のような事件が言い伝えられています。

 江戸時代初期のこと。幕府は、松江藩藩主である堀尾忠晴に「亀山城の天守の取り壊し」を命じます。そして、伊勢亀山に向かい伊勢亀山城の天守を取り壊すのですが、なんと、幕府が本来取り壊しを命じたのは丹波亀山城のほうでした。そう、伊勢亀山城の天守はこの時堀尾忠晴の取り違えにより誤って取り壊されてしまい、以降「天守のない城」となってしまうのでした…。

 このような滑稽な話が残っているのですが、どちらかというと間違って取り壊されたというのはさすがに誤りではないかとされています。この話の出典は、亀山の伝承をまとめた「九々五集」にのみ記されたものであり、幕府の命というのも信憑性に欠けます。よって、単に老朽化に伴って取り壊していたものを、民衆が丹波亀山と間違って取り壊したと勘違いし、誤った言説が広まってしまったのではないか?との解釈が有力であるそうです。

明治維新と「亀岡」誕生

版籍奉還と「亀岡藩」

 江戸時代はともに城下町にして宿場町として長らく栄えてきた伊勢亀山と丹波亀山でしたが、幕末の動乱期を経て、時代が明治になった途端、ついに大きな変化が起こります。そう、「亀岡」の誕生です。

 江戸幕府が幕を閉じ、明治政府による支配が始まるわけですが、その初めの施策として、明治2年に版籍奉還が下されました。版籍奉還とは、それまで藩(大名)が所持していた土地や市民を、政府である朝廷に返上させるという命令です。
 このときまだ藩という組織は存在したままとなったのですが、この版籍奉還と同時に、丹波亀山藩は亀岡藩に改名しました。一方の伊勢亀山は何も変化なく亀山藩のままでした。
 というわけで、丹波亀山が亀岡へと変化したターニングポイントは、版籍奉還が行われた明治2年(西暦1869年)ということになります。一体何が起こったのでしょうか?

 亀岡誕生の詳細を深堀する前に、先にその後の流れを述べておきます。
 版籍奉還があったその2年後(明治4年)、今度は政府により廃藩置県が命じられます。その名の通り、藩を廃止し、政府直属の自治体である県を配置するというものです。
 この廃藩置県により、(伊勢)亀山藩は亀山県に、亀岡藩は亀岡県になりました。その数か月後には亀山県は合併により安濃津県(現在の三重県北中部)、数年後に現在の三重県が誕生します。亀岡県も廃藩置県の数か月後に京都府に編入されました。


なぜ丹波亀山は「亀岡」になったのか?

 さて、ここでようやく本題です。なぜ版籍奉還と同時に、丹波亀山は亀岡に改名させられたのでしょうか?
 本来であれば、亀岡市に直接問い合わせるか亀岡市史資料をくまなく調べるべきなのですが、まだそこまでできておらず、ここで明確な理由を述べられるまでに至っていません。亀岡市も亀山市みたいに市史をWeb上にまとめてくれればいいのに…。
 しかし、亀山と亀岡にまつわる資料を斜め読みしていく中で、ある2つの要因が背景にあったのではないかと推測しました。


版籍奉還における「藩名重複の解消」

 先に述べたように、全国数多く存在した藩の中には、亀山藩のように名前が重複した藩が複数ありました。しかし、それらの藩のすべて(厳密には片方が)、版籍奉還と同時に改名しているという事実がわかりました。

 例えば、「松山藩」という藩は幕末においても出羽、備中、伊予の3か所存在しました。しかし版籍奉還と同時に、出羽松山藩は松嶺藩に、備中松山藩は高梁藩に改名しています。これにより松山藩は伊予の1か所のみとなり、藩名の重複が解消されたのです。 

Wikipediaの○○藩の記事内にある藩へのリンクまとめ
旧国名+藩名というところのほとんどがかっこ書きの名に改名していることが読み取れる

 このように、近代化施策として、将来行政府(県)となるであろう藩の名前の重複を解消し、整理しやすくするという目的が版籍奉還の裏にあったことが考えられます。やっぱVLOOKUP使いたいもんな。このあたりは版籍奉還の資料を調べれば詳しい情報が得られるかもしれません。

 よって、亀岡という地名が生まれた背景には、伊勢亀山との名前の混同を避けるため、という理由があることが推測されます。


戊辰戦争と丹波亀山・伊勢亀山

 しかし、名前の重複を避けるだけなら、丹波のほうでなく伊勢のほうを改名する可能性もあったと考えられます。なぜ丹波のほうが改名を余儀なくされたのでしょうか。

 一説には、戊辰戦争において伊勢亀山が倒幕派(新政府側)、丹波亀山が佐幕派(幕府を支持)であったため、新政府の味方となった伊勢亀山藩が改名を逃れた、という説があります。
 しかしながら、調べると伊勢も丹波も、譜代大名にして始めは佐幕派だったがのちに倒幕派に転じた、という経緯を経ているので、あまり差はなさそうです。
 よってこの説は亀岡改名の主要因とは言い難いところです。もしかすると戊辰戦争における立ち位置の差が何らかのきっかけにはなったかもしれませんが。


まとめ

 以上、2つの亀山の歴史と、亀岡への改名について辿ってきました。結論としては、版籍奉還をきっかけに藩名の重複解消を行ったことが大きな要因で、もしかすると戊辰戦争がきっかけで丹波亀山のほうが比較的不利な立場になって改名させられた、というところと考えられます。

 しかしまだ改名の背景について解明できたわけではないので、引き続き調査を続けたいと思います。ターゲットは亀岡市史と、版籍奉還関連資料でしょうか。

 ちなみに今回調べようとしたきっかけは、Wikipediaの亀岡市の記事に、明治時代に「三重県亀山市と混同するため、亀山から亀岡へと改称される。」と書いてあったのを見て、「明治時代には亀山市はまだ市になっとらんが???」と強い違和感を感じたからです。

 ではまた、続報があれば改めてお伝えします。

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