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奈落の擬死者たち(仮) 第七話

 やりかけの掃除と書類整理に区切りを付けると、オレは薄い上着を羽織りながら外へ出た。まずは、ドクター沼を捕まえて野久保の話を聞かなくては。モグラのマスコットが描かれている彼の診療所を目指し、寒空の下を歩き始めた。道中で、「狸」に電話を架け、刑部さんに盗撮と盗聴のチェックを依頼した。オフィスの中は自分でも確認したが、お店の中やビルの内部に仕込まれている可能性もある。
 刑部さんはいつもの様に、粛々と受け入れてくれた。これで一安心。牧と違って、非常に優れた包容力と安定感がある。優しさにあぐらをかいて、礼節を欠いた無理強いはしない様に気をつけなくては。
 しばらく早歩きで路地裏を歩いていると、モグラのマスコットが見えて来た。まだ午後の診療時間のはずだが、扉には「外出中」の札がかかっている。ただ、表から見ると中に灯りは灯っている様に見えた。ダメで元々とドアに手をかけると、普通に開いた。
「先生なら、居ませんよ」
 受付の向こうで退屈そうに女性誌を捲っていたマユミちゃんが、顔も上げずに言った。しばらく出て行かないオレに苛立ったのか、微かな怒気を含んだ声で「だから、先生はいないんだって」と顔を上げる。
「あら、犬上さん」
 マユミちゃんは、非常に官能的なボディを胸元が大きく開いたナース服に包み、濃い目の化粧を施した目で、オレを見つめる。オレは目のやり場に困りながら、「よう」と挨拶した。
「ドクターがどこ行ったか、知らない?」
「さあ? 急にお金が入ったって、楽しそうにしてたけど」
 マユミちゃんの口ぶりでは、どうやら彼女にも相応の臨時収入があったようだ。マユミちゃんは雑誌を脇に置いて、オレの方をジッと見ている。一人で留守番というのが退屈なようだ。彼女は窓口の向こうで、オレに向けて何かを訴えかけている。
 オレはできるだけそちらを見ないように視線を逸らし、ドクターの行き先を考える。ついでに、彼女に聞いておきたいこともまだあった。
「野久保って患者は来なかった? ドクターから牧に連絡が行ったらしいんだけど」
 マユミちゃんは後ろの戸棚から、ファイルを一冊取り出した。適当にパラパラ眺め、今日のページに目を落とす。彼女は指をそわせ、上から下になぞっていく。
「個人情報だから、いくら犬上さんでもね……」
 彼女は指を止め、さっとファイルを閉じた。彼女はオレの目を見つめながら、「どうしてもって言うなら」と胸元を更に大きく開ける。オレは即座に、「いや、いい。よく分かった」と言った。
 マユミちゃんの不満そうな顔を振り切って、診療所を後にした。ドクターが金を握り締めて行くとしたら、ここから少し駅の方へ戻った所にある雀荘か。
 オレがそこへ踏み込むと、タバコの煙と牌を動かす音に塗れながら、熱を上げているドクターが居た。同じ卓を囲んでいるのは、半グレみたいなヤンチャな兄ちゃんと、寡黙そうな男子大学生、出勤前の夜の蝶と言ったメンツだった。
 オレが卓に近寄ると、彼は手を一切休めず、「おう、久しぶりだな」と挨拶した。
「お前さんも、いよいよ手術かい?」
 彼は眼光鋭く目の前を睨みながら、口の端に加えたシガレットホルダーを起用に駆使して、タバコを吸った。オレは邪魔にならないよう、手短に要件を伝え、新たな情報がもたらされるのを待った。
「野久保の様子ねぇ。変わったところは特にない、って言っても目は取り替えたし、手術痕も綺麗に消したし、術後の人相はガラッと変わっとったかもしれんのぉ」
「かもしれんって」
「ワシに、野郎の顔を覚える趣味はない」
 彼はピシャリと言って、目の前のゲームに集中する。
「術後にどこ行ったかも、ワシには分からん。あっ」
 ドクターの隣に座っていたホステスが上がってしまったらしい。口ぶりこそ残念そうに言うが、その顔は随分楽しそうだった。次のゲームを準備し始めた。
「お前さんも、準備が出来たらいつでも来るんだぞ。手術費用もきっちり耳を揃えて、現金でな」
 彼はそう言うと、ゲームに戻った。これ以上ここに居ても、彼らの邪魔にしかならない。オレはドクターと同卓の客、受付嬢に軽く挨拶して雀荘を後にした。
 有力な情報源と思っていたドクターが、完全に空振り。ここまで無駄足になるとは思わなかった。診療所へ戻って防犯カメラをチェックしようにも、あんな病院にそんな設備はあるはずもない。診療所へ至る動線にも、その手の客に配慮した作りになっていて、顔つきや足取りが掴めるような、目ぼしいものは見当たらない。
 これで野久保に偽名でも使われれば、追跡する手段はない。コロシの依頼を受けていれば、身の安全を気に病むこともなかったのに。
 過ぎたことを今更気に病んでも遅い。今はとにかく、野久保へ至る糸口を探さねば。
 次の手立てを考えながら、街角で一人焦っていると、ケータイが鳴った。電話に出ると、「狸」のバイト君だった。オレは苛立ちを抑え、平静を装って話を聞いた。
「牧さんが、犬上を呼び出せと」
「何? 牧が?」
 用があるなら、直接掛けてくればいいものを。わざわざ刑部さんの手を煩わせるなんて、失礼な野郎だ。オレはバイト君に「分かった。すぐ行く」と伝え、電話を切った。牧のことだ。進展に必要な何かを入手しているはず。オレはそれなりの期待を抱いて、「狸」へ向かった。
 店内へ入ると、先に着いていた牧は、いつものようにビールを飲んでいた。オレはバイト君に上着を預け、牧の隣へ座った。牧は「奢らんぞ」と言ったが、オレもビールを注文した。
「ドクターに当たっても、空振りにしかならんだろう?」
 牧は勝ち誇ったような顔で言う。こちらにはこちらで、直接話を聞きたくなる事情があるのだが、それはまだ牧には教えない。オレはビールで喉を潤し、「それで、話って?」と牧に水を向けた。
 牧はカバンから大きな角形封筒を取り出し、オレに差し出した。オレはそれを受け取り、中を確かめようとする。
「お楽しみは、事務所でな」
 牧の言葉にオレは素直に従った。封をそのままにして、それを横に置いた。重厚長大な荷物が増えてしまった。
「オレたちの仲間で社会復帰してないのは、お前と刑部さんと、野久保だけ。身元を確かめずに処理されても構わないのは、後はあの連中ぐらいだ」
 オレが封筒の中身を確かめる前に、牧が一人で語り始めた。
「ドクターに野久保の件を聞いて、咄嗟に資料を用意させたのが中に入ってる。秘密の組織が、水面下でどんな悪逆非道を働いてるか、白日の元に晒してやるって、脅しをかけてな」
 牧は熱を帯びた演技を見せてくれたが、実際にどんなやり取りをして、どんな駆け引きをしたかは分からない。多分、話半分ぐらいで丁度いい。それでも、彼なりに危険な橋を渡って用意してくれた資料だ。大事に使わせてもらおう。
「じゃあ、オレは仕事に戻る」
 牧はグラスに残ったビールを飲み干し、さっさと席を立ち上がった。刑部さんに、「あいつのビールを、もう一杯」とオレのおかわりを勝手に注文して、足早に店を出て行った。刑部さんは、オレが一杯目を飲み干すのを待ってから、新しいビールをソッと目の前に置いた。
「盗聴器の件も、チェックは済みましたので」
 新しいグラスへ手を伸ばす瞬間、彼は耳元で囁いた。彼に情報共有をして、それほど時間は経っていない。流石は刑部さん。仕事が早い。
 オレは新しいビールをゆっくり楽しんで、封筒も忘れずに手に持ってオフィスへ戻った。オフィスの戸に鍵を掛け、一段と底冷えするようになった部屋で、封筒を開けた。中には、写真付きの名簿が入っていた。
 所々、顔写真にバツが書き加えられている。名前や年齢、性別がバラバラで、どんな法則で並べられているのかが分からない。一つ言えそうなのは、どの顔も非常にバランスが取れており、美男美女しか写っていない。青白い、少しゴムっぽい質感の肌も共通している。
 後ろの方には、まだ十代にもなっていなさそうな男の子の写真もあった。兄弟なのか、顔付きはよく似ている。一番後ろの少年は、最近どこかで見たような気もする。その手前の兄貴も、うっすらと見覚えがあるような……。
 確実にどこかで見た顔だ。思い出せ、思い出せーー。

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