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寒暁のノクターナス(仮) 第八話

 散らかり放題の部屋で生活する算段が徐々に整ってきた。ただ、ここで暮らすには片付けや掃除が最優先。家主のゼロ君もしばらく触れていなさそうな、埃の積もった一角、死角が山のようにある。家の中でも外でもずっと同じ黒のロングコートを羽織っているのに、なぜかアレはいつまで経っても綺麗なままだった。
 静電気も帯びやすそうな素材に思えるのに、埃や髪の毛が付着している様子はない。私の冬物のコートは、クリーニングしたばかりだというのに、裾の方が微かに白っぽくなりつつある。
 私はゼロくんに了解を得て、ちょこちょこ進めている整理整頓の続きに取り掛かった。彼は掃除を監督する係のように、少し離れたところで椅子に腰掛け、こちらを見ている。
「そう言えばさぁ、そのコートっていつ脱ぐの?」
 私は手と身体を動かしながら、大きめの独り言っぽく言った。ゼロくんは、「ん? 何で?」と質問自体を問うように言った。
「いつでも、その格好じゃない。だから、着替えとか洗濯とかクリーニングとか、どうしてるのかなぁ、なんて思って」
 私は口を動かしながら、そう言えばこの家の風呂場を覗いたことがなかったのを思い出した。トイレはたまに入るし、上下水道に問題はなさそうだけど、生活音を加味すると入浴や洗濯は厳しいかもしれない。
 実情は後でそっと確かめるとして、今は目の前のやりかけの作業を少しでも減らさなくては。備え付けの棚や収納で足りない場合、自分の部屋から持ってくるか、新たに買いに走らねばならない。棚板の汚れや収納物の埃を払いながら、彼の回答を待った。余りにも静かなので、途中で手を止めて彼の方を見ると、彼は首を傾げたままこちらを見ている。
「もしかして、お風呂も着替えも全くしてない?」
「必要ないからね。お姉さんも、そういう身体じゃないの?」
 ゼロくんは、何が問題なのかとでも言いたそうな顔で言った。確かに私も、機械の身体。炭素の延長である原始的な人たちほど、頻繁に身体を清める必要はない。それでも、日々の排泄や、街で暮らすうちに降りかかる汚れに対処しなければ、身体はもとより、身につけているものにも匂いや汚れが蓄積していく。
 彼の場合、さらに特別な措置を施されているのだろうか。特殊な部隊で完全犯罪を当たり前のようにやってのける改造手術なら、飲み食いも出す方も気にしなくてもいいのかもしれない。
 それにしても、一度も入浴も着替えもしていないというのは、俄には信じがたい。私は掃除を一時中断し、ゼロくんの側まで行って匂いを確かめた。鼻が服に触れるぐらい近付いても、コレという匂いは分からない。せいぜい、先ほど食べたものの匂いが香るぐらいだ。
 どんな技術があれば、そんなことができるのか。疑問に思いながらゼロくんの顔を見ると、彼は間近に私の目を見下ろして、「ね?」と同意を求めた。私は慌てて後ずさり、彼との距離を保った。
 相手はまだ十代の子どもだ。私は一応、それなりに異性とのお付き合いがある社会人七年目のアラサーだ。こんなガキンチョに振り回されるな、私。
 私は彼に背中を向け、こっそり深呼吸して掃除に戻った。一緒に生活するのなら、そういう差異も、今のようなアクシデントにも上手く対処しなくては。お風呂は銭湯でも良いとして、洗濯は一度、珠緒さんに相談した方が賢明かもしれない。
 私は室内の照明をつけずにやれる範囲をザッと片付けると、一旦そこで切り上げた。もうそろそろ帰宅して、明日の出社に備えねばならない。それに、この部屋だけで暮らしていくには、まだまだ準備が不足している。
 何度か職場、自宅と行き来しながら、彼と生きていくための環境を作らねば。コレから年末年始が近付いてくると、時間のやりくりはますます厳しくなるけど、この山場はなんとか乗り越えたい。
 私はゼロくんに今日は帰ることを告げ、また近々掃除に来ることも伝えて部屋を出た。部屋を出る直前に、脱衣所や風呂場をこっそり覗いてみたけど、脱衣所に洗濯機はなかったし、お風呂場もバスタブを中心に物置になっていた。
 コレも覚悟の上で、ココで暮らす。今の自宅から切り替えられれば、家賃が浮く。上手くやりくりして、チャレンジするだけの価値はある。私は自分にそう言い聞かせながら、キツネ亭の前まで階段を降りた。お店の中に見えた珠緒さんに会釈して、自分が呼んだエレベーターに飛び乗った。

 私が職場と自宅、秘密の根城を行き来している間に、変死事件が二、三件ほど発生した。その中の一件は、ゼロくんが関わっていたらしく、直接的な部分は材料にできなかったものの、警察発表と擦り合わせながら、被害者の情報や、現場の時系列等を整理して編集長に提出すると、思わぬ好評を得られた。私の記事に対する社内の評価も、それなりらしい。
 やはり、彼に張り付いて上手くネタを引っ張れれば、私の評価に跳ね返ってくる。やり過ぎて目立ち過ぎれば、めざとい同僚や先輩に勘繰られて、ゼロくんの存在と私のズルが露見してしまう可能性がある。功を焦らないように気を配りながら、時折、わざとミスをしてポンコツを演じるというのも挟んでおかねば。
 自分の芝居の下手さや滑舌の悪さも密かに訓練しながら、ゼロくんの部屋で掃除する時間が減ってきた。仕事にも次第に余裕が出てきて、今度は自分の部屋を片付けるフェーズに入った。
 捨てるものは捨て、実家に送るものは送り、ゼロくんの部屋に持ち込むものは先に持ち込み、とにかく物を減らして、可能な限り綺麗にしてみた。ここまで来れば、あとは水道やガスを含めた各種手続きに移るだけ。住所変更に伴う諸々も、有給休暇も駆使して片付けた。
 ガスの同伴、部屋の引き渡しも終え、追加の精算もされることなく、無事に全てをクリアした。気になっていた洗濯やお風呂は、近場の銭湯でどちらも対処できそうだった。万が一の時は、珠緒さんのご自宅へ押しかけても良いと、合鍵までもらってしまった。

 グッと冷え込みが強まってきた夜に、ゼロくんの部屋へ戻ると、いつものように真っ暗な部屋に来客があった。珠緒さん以外にゼロくんの知り合いがいるなんて意外だったけど、リビングに二人でいる様子を見て、何となく相手の正体を察した。
 リビングにいた彼はこちらを見るなり、私の首を掴んだ。一気に絞め殺されるかと思いきや、ゼロくんがその手を上から掴んだ。月明かりに照らされた二人の顔は、どことなく似ているような気がした。
「良いのか?」
 見覚えのない青年の言葉に、ゼロくんは頷いた。
「その人は、問題ない。万が一の場合は、オレが処理する」
 青年は、「お前がそう言うなら」と私の首を掴んでいた手を離した。解放された私が息を整えている間に、青年が口を開いた。
「それで、回答は?」
 ゼロくんは、首を横に振った。青年は「そうか。残念だな」と俯いた。
「オレの望みは、安眠と自由の二つだけだ。闘争も、夢も、オレには要らない」
「ああ。解っている。お前が望まぬものを、オレも押し付けはしない」
 青年は「邪魔したな」と言うと、掃き出し窓を一気に開けた。外の寒い空気が部屋の中へ入ってくる。それと入れ替わるように、彼は窓の外へ身を投げた。ゼロくんは慌てることなくそれを見送ると、開け放たれた窓を閉めに行った。彼の向こうで、外套を上手く広げて宙を舞うさっきの青年が見えた。彼は、夜の闇に紛れ、人目につかないように空を滑空する。
 呼吸と気持ちを整えた私は、窓際から戻ってきたゼロくんに、彼のことを尋ねた。
「ああ、アイツはオレの兄貴だ。見れば分かると思うけど、能力者だよ」
 ゼロくんは何かを読み上げるように淡々と説明し、キッチンの冷蔵庫を漁りに行った。私がやってくるのを待って、今から晩ごはんになるらしい。
 私はコートを掛けに行き、部屋着に着替えた。洗面所で両手を洗いながら、今見た光景を、頭の中で繰り返した。

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