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『ヒトはなぜヒトを食べたのか』をザックリ読んでみた

はじめに

ヒトがヒトを食べる。食人文化、カニバリズムについて少しでも得られるものがあればと、表題の書を読んでみた。その感想、書評としてはかなり斜め上な展開、話を広げるつもりなので、何かしらの参考になるとはあまり思わずにお読みいただければ幸いです。

「文化唯物論」の奇才、マーヴィン・ハリスの名著

かなり広範な内容に触れた、「生態人類学」な一冊。

もし、本気で食人文化、カニバリズムや食人族について知りたいのなら、本書は恐らく適当ではない。個人的にインパクトが強かったタイトルの割に、本文中でそれらしい話題に触れている部分はあまり大きくない。

どちらかというと、「食人族」や「カニバリズム」に付帯する野蛮なイメージ、単なる蛮族のイメージを取り除くような記述、農耕民族から見た狩猟採集民族への蔑みみたいなものを取り払おうと言葉を尽くしている印象を受けた。

タイトルや表紙のデザインからは想像しにくいが、どちらかというとジャレド・ ダイアモンドの著作『銃・病原菌・鉄』や、カビール・セガールの著書『貨幣の「新」世界史』のように、生態学や歴史的経緯を土台にして、どんな時代のどんな社会であっても、同じ人としてフェアな見方、妥当な見方、当時の文脈も併せて理解しようと提案するような書籍に思える。

この手の学問の世界では割と見かけがちな、先人の知見、提言に対する「そんな訳ないだろ」みたいな、生意気というか向こう気の強い斜めの見方、書き口は個人的にとても心地よかった。ただ、「ヒトはなぜヒトを食べたのか」という部分をもう少し深入りして欲しかった、もう少しボリュームを割いて中心に据えて欲しかった気持ちもある、裏切られた感もなくはないから、この辺は翻訳した人や出版社との兼ね合いでムムムがついてしまうと言ったところかな?

Q.ヒトはなぜヒトを食べたのか?

A.(宗教的な事情等を除けば)有用なタンパク質として必要だった

自分の読解力で本書をザッと読んだ感じでは、「ヒトがヒトを食べた理由」の主な要因は、単純に食料事情だったのでは、というところ。もちろん、故人に対する慕情等で肉なり骨を食す、口に含むような宗教的な儀式もあるだろうし、敵対勢力を討ち取って軍事的な優位性を示すため、あるいはその「力」を取り込むために、示威行為や呪術的な行為としてヒトを食したこともあるだろう。

ただ、そういったやや特殊な事例、コミュニティを営むための「食人行為」としては、何よりもまずは「タンパク質」として有効活用された、と見た方がいいのでは、と主張しているように思えた。

メソアメリカ、中央アメリカあたりでは食肉に活用しやすい生物が少なく、人の食糧と競合してしまう家畜候補が多かったために、それらをわざわざ自分たちで努力して育てるよりは、外部のコミュニティからやってくるヒトを捕らえて、宗教的な理由を添えて食した方が理にかなっていた、だからヒトがヒトを食った、それだけなのでは、と。

そこに他の地域、他の文化圏から野蛮だとか、低俗だとか決めつける権利は多分ない。

いち早く農耕を始めた地域が特別優れているのでもなく、治水に成功した人たちが人として上だという話でもなく、たまたま住み着いた地域、氷河期を含めた環境の変化に対応した結果、狩猟採集を続ける人たちがいて、放牧や畜産を選んだ人たちがいて、貨幣による経済、銃火器を使った暴力で他を支配しようとした人たちがいた。

どの時代であっても、人は人。どんな社会、文化であっても、そこに上下や優劣、進んでるも遅れているもない。たまたまの積み重ね、相対的な差でしかないんだということを、改めて認識させてくれるような読後感だったかな?

もう一つのテーマは、人口調整と社会?

際限なく増やすこと、殖えることが必ずしも正しいとは限らない、のかも……

食人文化、カニバリズムの話以上にボリュームが割かれているというか、重きを置かれていの一番に出てきているのが、「人口」に関する話。澱粉、カロリーとタンパク質との関係性、食べることとヒトを増やすこととの関係性、生命活動と経済(というか理財)活動とのバランスなど、その辺りの記述と、社会構造の変化、経済活動に関する話題なんかが展開されていた、ように思う。(その辺りは、欲しい内容から離れていたので、斜め読みしました)

ユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』とかだと、比較的正しそうな人類史、社会の発展経緯について見誤ると思うけど、ダニエル・E・リーバーマンの『人体六〇〇万年史』などを読んでみると、人類の進化と食糧の関係、コミュニティを構築するに至った理由なんかがかなり明確につかめると思うけど、それらとマーヴィン・ハリスの言葉を合わせて読むと、中々興味深いものが見えてきそうな気がしない?

現代社会における「食えるか食えないか」という話ではなく、もっと野性的、原始的な社会における「食う」は経済活動をすっ飛ばして、安全保障問題、生命の問題と直結している。集団の中でやりとりする、経済活動の中に身を置いて食っていけるかどうかも厳しい問題ではあるものの、それ以上に何倍、何百倍と厳しい状況が原始社会には存在していた。

人類が絶滅の危機に瀕した氷河期もあるし、日本史を紐解いてみても自然環境の変化で大規模な飢饉は何度も起こっている。そう言ったところへ、ヒトが1人増える、増えた分だけ食糧を確保する、食わせていくというのは本当に大変なことだったんだと、改めて学べるいい読書だった。

農耕社会、主に一神教の社会が頑張って人口を増やしてきたのは、それだけの生産能力、供給能力や技術、リソースを有していたから。また、もっと搾取したい、多くから絞り取りたいという欲望もあっただろう。それを叶えるだけの武力、文化も今の先進国は培っていた。

資本主義というシステム、労働力を商品にするというマルクス的な経済観、貨幣に重きを置いた新自由主義、グローバリズム。ヒトを増やして、食わせて、金を産ませて、物を買わせて、ヒトも金もどんどん再生産する、増やす。この流れが永遠に機能するのならこれでも良かったんだろうけど、本当に「それでいいの?」と考えさせる踊り場に差し掛かってしまった2020の上半期、と。

このタイミング、このご時世にこの書籍を読んだというのは、本当に運が良かった。最近考えたこと、見えてきた気がすることと絡まりあって、別の何かも見えてきそうな気がするよ。

殖やすこと、殖えることが本当に正しい?

ヒトを増やす、金を増やす、物を増やす。そろそろ転換点かな

殖えることが必ずしも発展に寄与する、その社会に生きるヒトを幸せにするとは限らない、というのは今回かなりハッキリ見えてきたように思える。選民思想とかは特にないけども、あまりにも分かり合えない人たち、文章を読めない人たちが多すぎると、これからの時代、前に進めないというか、足かせになりかねない。

時代についていけないヒトをとにかく切り捨てるとか、一定以下のヒトを隔離するとか、そんな過激なことを妄想はしても提言はしにくい。しかしながら、人も商品もとにかく数を増やせばいいという考え方からは一歩引いて、突き放したものの見方をすべきじゃないかと思う自分もいる。

ゆるく大衆を支配する見えにくい仕掛け、システムが残酷なのか、それともそれなりに手間暇、負荷をかける厳しさ、切り捨ても含む苛烈さの方が残酷なのか。いずれにせよ、厳しい世界になりつつある大きな転換点であることは間違いない。ぬるま湯に使ったままの現状維持はありえないから、早めに考え方を切り替えて、冷静なものの見方ができるように頭も目もクリアかつ、ニュートラルに持っていこうと思わせてくれた、『ヒトはなぜヒトを食べたか』だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 ただ、まだまだ面白い作品、役に立つ記事を作る力、経験や取材が足りません。もっといい作品をお届けするためにも、サポートいただけますと助かります。 これからも、よろしくお願いいたします。