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奈落の擬死者たち(仮) 第八話

 野久保と酒を酌み交わして以来に訪れたキツネ亭は、開店準備中ということもあり、随分と活気に乏しい場所だった。客と言えそうなのはオレ一人、仕込みを手伝うバイトの影もない。
 先日案内されたカウンター席ではなく、四人掛けの卓に通され、向かいに珠緒ちゃん、その隣に牧のところのお嬢ちゃんと、両手に花の状態で座っていた。珠緒ちゃんは、いつものようにマイペースといった様子で、自分が入れたお茶を飲んでいる。隣の六花ちゃんは、珍しく微かに緊張しているらしい。
「それじゃあ、アンタから伝えて貰えるか?」
 オレは極力優しい声で、六花ちゃんに言った。彼女はオレにうんともすんとも返さず、「あの〜」と切り出した。基本的に生意気で、過剰な強気を見せることも珍しくない彼女なのに、真っ赤な上着には似合わない弱気な態度に見える。
「本当に黙っててくれますよね?」
「ああ。秘密は漏らさない。例え相手が牧であってもな」
 六花ちゃんは、ほっと胸を撫で下ろしたようで、「じゃあ、出来るだけやってみます」と言った。頼み事の中身と相手が相手なだけに、それ以上の返事は期待できまい。オレは「それで構わない。よろしく頼む」と念を押した。
「二人ともいいなぁ。大人の創ちゃんか……」
 珠緒ちゃんは、ぼそっと呟いた。彼女にそんな思いを吐露してもらえるような相手には思えなかったが、オレが「気になるのか」と問うと、彼女は「もちろん」と答えた。
「幾つになっても、私には大事な弟分ですから」
「大したもんだな」
 珠緒ちゃんは誇らしげな表情で「へへへ」と笑った。彼が何をやっても、彼女だけは彼の味方になるのだろう。上に住まう坊主も含め、随分と幸せではないか。その坊主も坊主で、六花ちゃんと同居して面倒を見てもらっているとは。何がどうなって、そうなったのかイマイチ分かりかねるが、オレより遥かに社会的な立場を手に入れつつあるようだ。
 珠緒ちゃんは、厨房の方を見やった。後ろの壁にある時計でも見たようだ。そろそろ、開店準備や仕込みを進めねばならないようだ。オレは長居したことを詫び、腰を上げた。オレが立ち上がるのを待っていたように、六花ちゃんも立ち上がった。オレたちは二人で出口に向かい、キツネ亭の外へ出た。暖房が効いていた店内とは異なり、店の前は少し肌寒い。身体を微かに震わせながら、下へ降りるエレベーターを待った。
 エレベーターを待つ間、上の階へ上がって戻ってきた六花ちゃんは、カバンを肩に提げてオレの隣に立った。今着いたばかりのエレベーターに、一緒に乗り込んだ。
「アンタも今から仕事か?」
 大きいとは言えないゴンドラに、二人っきりで無言は気まずいだろうと話しかけるものの、彼女はコクリと頷くだけだった。これ以上のやり取りを望んでいるようには見えず、結局エレベーターを降りるまで何も話さなかった。
「あまり、気を許しすぎるなよ」
 ビルの前で、牧のオフィスへ向かう彼女に声を掛けた。今のところ、危害を加えられるような可能性は低そうだが、一緒にいるとなるとそれなりに危険も伴う。彼女はオレの忠告に「分かってます」と答え、足早に離れて行った。
「彼女のことは、しっかり守れよ。牧を敵に回せば厄介だからな」
 オレは虚空に向かって独りごちると、自分のオフィスへ足を向けた。

 底冷えの酷いオフィスで、牧に渡されたノクターナスの名簿を処分していると、ドアがノックされた。最初は聞き間違いかと思い、ドアの方を見やると磨りガラスの向こうに人影が見えた。オレは、名簿をデスクの引き出しに押し込み、応接スペースをザッと片付けた。
 鏡で身だしなみを一応確かめ、我ながら酷い顔をしていると思いながらも、最低限はクリアしていると判断してドアを開けた。ドアの向こうには、中肉中背の欧米人らしい男性が立っていた。
 オレは彼を中へ招き入れ、ソファへ座らせた。高そうな上着を脱ごうとする彼に、「まともな暖房もないんで、そのままで」と言った。彼はサングラスの向こうで苦笑いを浮かべ、大人しく硬いソファに身を委ねた。
 オレは「狸」に電話をかけ、ホットのブレンドコーヒーを二つ持って来てもらうように伝え、彼の向かいに腰を下ろした。
「それで、どのような用件で?」
 オレは久しぶりのマトモな客に、名前と用件を訊ねた。彼はロジャー・ベルンハルド、ドイツ系アメリカ人だと名乗った。エリスン・マーストン社に勤めていた経理担当で、これから国に帰るそうだ。
 日本語に妙な訛りはなく、非常に自然な話し方だった。まるで日本人と話しているかのような錯覚、懐かしさすら覚える声をしていた。
「ご帰国されるのに、何か問題でも?」
「いや、問題は特にないんだが……」
 ロジャー氏はそう言いながらも、わざわざオレに西宮のヨットハーバーまで自分の車を運転させて、送り届けて欲しいそうだ。見知らぬ同年輩の男と夕暮れ時のドライブとは、微塵もそそられない。
 小型船舶でわざわざ出入国するような身分なら、自分の力で何でもできそうだが、運転手や話し相手を募るにしても、もっと適切な窓口がいくらでもあるはずだ。
 バイト君が「狸」から運んできたコーヒーを受け取り、ロジャー氏に「お待たせしました」と差し出した。彼はサングラスを曇らせながら、ホットコーヒーに口を付けた。そのサングラスを見て、オレはようやく気が付いた。
「その風貌に、そのサングラスは印象が強すぎる」
「やっぱり、そうだよな」
 ロジャー氏はサングラスを額にかけ、笑みを浮かべながらコーヒーを飲んだ。せっかく顔を変えたのに、目元の優しさとサングラス、声は以前と変わらない。
「ロジャーって顔と名前は、買ったのか?」
「いや、譲り受けた。成り代わって国外逃亡が、今の仕事だ」
 ロジャー氏は、新しい名前と人柄に合わせるように、自信に満ち溢れた佇まいだった。以前のような卑屈さは、微塵も感じられない。
「渡米したところで、当てはあるのか?」
 ロジャー氏は頷いた。
「逃亡劇を支援してくれる仲間がいる。先立つものも、先払いで受け取っている」
 彼はそう言うと、ここまで引いてきたスーツケースを少し開け、中から分厚い封筒を取り出した。同じサイズの封筒を二つ重ね、「ここに五百はある」と言った。
「君には何度か世話になったし、コレで国内最後のドライブを引き受けてくれないか?」
 オレは封筒を見て、生唾を飲んだ。どこかのクソガキが置いていったままのアタッシェケースもあるが、コレはコレで別の力を有している。
 オレはロジャー氏が差し出した封筒を押しやりながら、彼の目を見た。
「自分の言葉に、今も偽りはないな?」
 生前の彼がここで口にしていた言葉は、今もはっきりと覚えている。あの高邁さも、別人として打ち捨てたというなら、これ以上、彼と交わす言葉はない。ロジャー氏は一瞬目を逸らし、「ああ」と言った。
 オレは封筒から三枚、高額紙幣を抜き取ると残りを突き返した。
「二泊分の世話代と、目的地までの運転代行なら、そんなもんだ」
 ロジャー氏は「受け取ってくれ」と何度か封筒を押し付けて来たが、オレは応じなかった。オレはアタッシェケースを指差し、「どうしてもって言うなら、そこに置いていけ」と言った。
「それから、道中のおしゃべりはなしだ。あくまでも運転代行しかやらん」
 ロジャー氏は不満そうな表情を浮かべたが、オレが「いいな?」と念を押すと、観念したらしく首を縦に振った。オレはコーヒーを飲み干し、出かける準備に取り掛かった。ロジャー氏が残りのコーヒーを片付けるのを急かし、「狸」に電話をかけて空きのコーヒーカップを持っていくことと、オフィスの鍵を閉めておくことを頼んでおいた。
 オレは上着を引っ掛け、「さ、行こうか」とロジャー氏を伴ってオフィスを後にした。

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