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Vol.40 「ケ」のインバウンドが大事だと思う

ここ3年間ぐらいの学びや考えてきたことを、少しずつ小分けにしてアウトプットしていこうと思ったら、いつの間にか40本。それでもまだもう少し外に出しておきたいこと、一度まとめておきたいことがあるので、今回も例のごとく、無責任に書き散らそう。

「ハレ」の観光は、ほどほどで良い

「作られた観光」で、水物をアテにしすぎるのも、もう十分

超富裕層あてには、そういう「特別な観光」や「特別なおもてなし」は必要なんだろうけど、もしそれだけが目当てなのであれば、別にわざわざ日本へ来なくても良い。どの国でも似たようなラインナップ、コンテンツになるだろうし、そういった方々を満足させられる度量も、器量も、日本の事業者、行政には足りていない。

一所懸命観光立国を目指して、観光客向けの見世物を必死に作り込んでも、この国の場合はどこかに嘘っぽさが混じってしまい、中途半端な作り物感、程度の低い子供騙しっぽさが漂ってしまう。

また、特別な観光客に向けたビジネスを作り上げても、他の観光立国とは異なり、まだまだ地場の産業、自国の産業が十分に力を持っている日本の場合、そこで暮らす「観光客じゃない」地元の人に向けたビジネスや、「観光以外のビジネス」に勤しんでいるビジネスマンのことも常に考慮しなければならない。

大量に観光客を出迎えて、それで回していくだけのキャパシティがある、昼間人口や旅客輸送に余裕がある地域やそれ向けの飲食業で成り立っている地域はそれでもいいんだろうけど、インバウンド向けの顧客、爆買い向けの顧客に向けて目先の利益を取りに行った場所、地域というのは、後から目も当てられないことになる。

インバウンドほど一所懸命頑張らなくても良い、国内からの良質な顧客も、インバウンド特化の体制、あるいは多すぎる『「ハレ」の観光客』のおかげで来なくなりつつある。たまにしか来ない海外向けの対策のおかげで、気に入ってもらえれば何度も来てくれるかもしれない身近な国内顧客、今までリピートしてくれていた既存顧客を手放すような取り組みは、はっきり言って愚策だろう。

都心部の場合は、これらに加えて宿泊施設や旅客業が逼迫され、飲食店などでは今まで生じなかったトラブルなども出始めている。それまでは必要なかった特別な出費、対策も増えているが、その分の見返り、利益というのが十分に出ているかというと疑問符がつく。

まぁ、その「ハレ」感を演出するための出費、インバウンド対策の諸準備にかかるコストでも景気が多少良くなっているのなら、まだマシだろう。その後の中長期的な損失を一切考えず、その場限りの栄華を楽しめるなら、だけれども。

真のダイバーシティ、多様性に必要なのは「ケ」のインバウンド

日常の中の国際性、普段の中のインバウンドをやるべきでは?

端的に言えば、中長期の滞在、あるいは居住や就業、「そこで暮らすこと」や渡り鳥やスナフキンのように、別荘地のつもりで拠点を構えてもらうことを、「ケ」のインバウンドと考えてみよう。ある程度の日本語が通用することが前提にはなるだろうが、日本語以外の文化圏からやって来たとしても、暮らしやすく働きやすい社会、仕組みをデザインする、プランニングするというのが、これから「暮らしやすい世の中」を考える上では重要だと考えている。

「インバウンド」というと、「海外」という響きが出てくるが、別に国内の別の地域や近隣の他府県からの来訪者も、その街や地域にとっての「インバウンド」と考えてみてもいい。太陽の影響か、地球の天体としての活動か、あるいはいわゆる自然環境の変化が原因かはわからないが、近年の災害は地震も台風も雨も強くなっているように思うので、万が一被災された場合に移住する先、避難する先を近くの地域の別の場所、あるいは思い切って離れた他府県に拠点を持っておくという考え方もできるのではないだろうか。

停電や洪水、地震災害から復旧するまで、親戚に頼ったり仮設住宅に避難するという選択肢もあるが、それに加えて、別荘というほどでもない第二、第三の生活拠点、働くための拠点を構える、その間を自由に行き来するというライフスタイルもあっていいと思う。

キャンピングカー生活では住所が不定になるし、単身赴任や期間限定の転勤では、いざという時に自由に動けるとは言えない。暮らしやすさという観点からも、別に何も変わらない。しかし、国内、国外も含めた領域の移動、地域を跨いだインバウンドがやりやすい状態、日常の中に「違う地域からの来訪者が来ても受け入れられる余地」を作っておくというのは、これからの社会にとって悪いことではないように思える。

地元の人たちだけ、ずーっとそこに暮らしている人たちだけでキャパシティオーバーになるような、ギリギリの効率を目指した街のカタチより、言葉や文化が多少違っていても暮らしやすいインフラ、キャパシティに余裕のある生活動線、あるいは労働環境というのは考えてみてもいいのでは?

なにげない「ケ」に色んな角度の余裕を持たせる

暮らし方や制度の柔軟性、社会や都市のレジリエンスも高められる気がする

今までの社会、経済活動ではどうしても、今ある需要やそこから予測されうる拡大した需要(あるいは縮小した需要)のように、「そこにあるもの」を満たすだけの供給、ちょっとだけ在庫を抱えるぐらいのサジ加減でものづくり、サービス提供、行政運営をして来たように思うけど、これからはそういう考え方では足りない「予想外」も起こり得るのでは?

「未曾有の想定外」を乗り越える、予測して十分な対策を取っていくためには、起こり得ること以上の強度で、想定外に備えるしかない。そこを解決するため、あるいはどんな問題があるかを発見していくためには、その地域や社会以外からの見え方、「今までの多数派」以外をどうやって受け入れるか、どうやったら共存しやすいかを考えてみるというのは一つの案。

万が一、過剰な対応になったとしても、唐突な観光に対して役に立つかもしれないし、旅客や宿泊施設、インフラに十分な余裕を持たせることができていれば、いざという時にも「何かの役に立つ」可能性もある。いっぱいいっぱいの状態、ちょっと無理したら破綻しかねない状態よりは、はるかに許容力がある。

幸い、今後日本の人口は減少していく。空き店舗や空き家も増加傾向にあるし、そうでなくても遊んでいる土地、地域も山ほどある。数々の隙間を上手く活用し、動かせる人材、使えるリソースを投入していけば、案外「ケ」のインバウンドにも対応はしていけるはず。みんなで楽しく暮らすにはどうするか、観光立国も果たしながら、それ以外の産業も諦めない、経済成長も諦めたくないのであれば、今まで以上に効率的なカタチ、許容量のあるロジスティクスを考案、実現するというのは避けられないのだから、ここは投資するなり、対策を考えるなりすべきポイントだろう。

どんな時にも、どんな人にでも暮らしやすい「ケ」を

「特別な体験」を前向きに受け入れやすいレベルに抑えていく

例えば、災害時用に何らかの備えを必死にやるよりは、キャンプ道具やBBQ用品を災害時兼用で備えてみて、何かあった時にはキャンプの延長線上で過ごせるように、日々訓練しておくとか。あるいは、何かあってもすっと外国語が話せるように、生活の中に日本語以外の言語と触れやすい状態を作っておく、とか。

常に備える、何かのために準備し続けるというのは、案外大変だし、その苦労も費用も捻出する、許容するのも大変だけれども、あくまでも「ケ」の延長。特別な時のための対応ではなく、非常時や異常時でも平常通り、ちょっと負荷が強い「いつも」にできる。

「ハレ」は「ハレ」で必要だし、重要ではあるけど、あまりにもそこに偏重しすぎというか、日々の努力をしなくてもいいように「ケ」を見ないようにしているようにも思える。「ハレ」は狙い通りにハマった時にしか効果がないし、そんな狙い通りの状況は早々やってこない。それよりも、着実にありうる「ケ」のレベルを上げていく、質を高める方に時間もリソースも投入した方が効果的。

観光やインバウンドも、同様だろう。個人的には、作られた観光、「ハレ」のタイプは得意でないというのもあるし。「ケ」の中のささやかな発見、いつもの「ケ」では体験できない他所の「ケ」、飾らない普段着のありのままを感じたいし、そこから何かを学びたいとも思う。仕事然とした「おもてなし」も愉しませてもらいつつ、良き隣人としての気遣い、素のおもてなしというのも、もっと身近に味わえる世の中になってほしい、かな。

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