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4月2日(日)

 哲朗さんの横に並んで、彼の妹を見送ったのはいつだったっけとどうでもいいことに思いを馳せつつ、先月の末だったっけとか、もう4月だから先々月になるのか、とかーー。無理に思い出さなくてもいいことを必死に記憶から引っ張り出したり、カレンダーを頭に思い描いたり、さっきまでの高負荷を少しでも和らげようとしているのか、まだ終わっていない目の前の出来事にも、いまひとつ集中できていない。
 遠ざかっていく人影をぼんやりと眺めながら、向こうがこちらを振り返ったから、半ば反射的に手を振り、軽く頭を下げた。ゆっくり視線をあげると、相手はもう見えなくなっていた。
「みぃちゃん、みぃちゃん?」
 不意に呼びかけられた方へ顔を向けると、哲朗さんがエスカレーターを指していた。少し先にいた彼の背中を追いかけて、後ろのステップに乗る。一定の速度で地上階へ降りていく。
 エスカレーターを降りて左手に少し進んだところで、急に足が止まってしまった。エスカレーターに乗っている時から哲朗さんが何か話しかけてくれているのは聞こえているけど、中身はいまひとつ頭に入ってこない。
 哲朗さんは二、三歩進んだところで私が立ち止まったことに気がついたようで、その場で足を止めて振り返り、「大丈夫?」と気遣ってくれた。今はその頼もしさが嬉しくもあり、恥ずかしくもある。できるだけ顔を直視しないよう、視線を微妙に逸らしながら、「ちょっと、気疲れしちゃった」と答えた。
 一人もぞもぞしている間に、彼はこちらに近付いてくる。その近さにゾクゾクしてしまい、半歩だけ後ずさってしまった。今まで何ともなかったのに......。
「とりあえず、ちょっとそこで座ろう」
 彼はバス乗り場横のベンチを指した。先導だけしてもらって、自力でそこまで歩いていく。私が無事にそこまで行くと、彼は駅のコンビニへ走って行き、常温の水を買って戻ってきた。隣に座って、ペットボトルを差し出した。
「あったかいお茶の方がよかった?」
 彼の顔は見ないで首を振る。ペットボトルを受け取って、一口飲んだ。少し気持ちが落ち着いたところで、ゆるゆると長く息を吐いた。ゆっくり呼吸と共に気持ちを整える。
「急にゴメンね。余計な負担かけちゃって」
 哲朗さんは私の返事を待たず、一人で話を続けてくれる。音として認識はできても、やっぱり話の中身が頭に入ってこない。
「この後、どうしようか?」
 ぼんやりと顔を眺めていたのに、急に焦点が合ってしまった。一瞬の驚きが、だんだん別のドキドキに変わっていく。少しでも鼓動が治るように胸元を抑え、俯いて、なるべくいつも通りの声が出ろ、と必死に念じて口を開いた。
「あ、明日も早いから、今日はもう帰ろうかなって」
 普段より少し大きめに、上擦った調子で言ったのに、彼は普段通りのトーンで「まだ夕方だけど」と返してきた。顔を見上げられないままでいると、いつもよりちょっとゆっくりな口調で「分かったよ。了解」と、彼は言った。
「僕も明日に備えて、今日は帰るよ」
 彼は「一人で帰れる? 大丈夫?」と付け加えてくれた。それに頷くと、彼は「じゃあ、またLINEするね」と言葉を残すと、私の隣から温もりと共に去って行った。

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