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Vol.19 日本らしさを考えてみる 7

タイトルも書評もだいぶ関係なくなってきた気がするし、「らしさ」といいつつネガティブな要素ばかり数え上げているような気もするけど、割と順調に考えを外に出せている気がするのでこのまま出していこうと思う第7弾。今回は、前々からネタにしようと思いながら、中々手をつけられなかった書籍を取り上げて、毎度のように好き勝手に書き散らす。

『メディアミックス化する日本』(大塚英志著 イースト新書)

KADOKAWAとドワンゴの合併に関する批判から始まる新書

2014年10月27日が初版、起こった出来事は相当昔のような気もするし、語られている内容も相応に古くなってきているので、かなり隔世の感もある書籍だけれども、改めてここで取り上げてみる。

メディア、情報産業の持つ「世論形成」や「思想形成」、「大衆操作」的な要素とのやりとり、主に戦後のメディア産業、コンテンツ産業の思考変遷、文学者に対する批評などを取り上げ、中の人、プレイヤーの一人としての言葉、思考を紡いだ一冊。プラットフォーム、メディアに対する批判はなぜか、テレビや新聞、雑誌といったオールドメディアにはあまり向かわず、Web系の業種やメディア、デジタルなメディアに向かいがちなのは、若干気になるところ。

推測になるが、筆者の大塚氏がそもそものマルクス主義、共産主義の信奉者、あるいはその後の転向者で、割と左寄りのスタンス、専門の民俗学や得意とされている(?)マーケティング分野以外にはあまり明るくなさそうなところも、ややバイアスのかかった語り口に現れているような気もするが、その辺りを事前に織り込んだ上で、その筋の専門家、あるいは経験者の言葉として話を聞いておく、考える材料にさせてもらうというのは悪くないスタンスじゃないだろうか。

本書について前々から考えをまとめようと思っていたものの、大塚英志といえばコンテンツ産業、物書き界隈では一人の巨人。物書きとしては二流三流どころか、アマチュア云々のラインにも乗っかっていない身分でアレコレぶち上げるのは畏れ多いと数年棚上げ、塩漬けしてきたが、どうせ誰も見ていないだろうから、ここでぶちまけて、頭の中をスッキリさせることを優先させていただく。

メディア、マーケティングの怖さに無頓着すぎる

ポストモダン以前から、要注意な領域だったはず

本書では主に、戦後、「大きな物語」が喪失した後のメディア産業、情報産業、プレイヤーの変遷や趣味思考の変遷などを取り上げている。「神が死んだ」後に空いた穴に、マルクス主義や共産主義というイデオロギーが入り込んだという話、現実の出来事よりも仮構の歴史、偽りの地勢図を信奉することの危うさ、「フェイクの歴史」にぶら下がっていくこと、そこに回収されて物語の再生産を暗に強いられるディストピア(の到来の予感)を嘆いている……?

確かに、戦後の経済成長や技術の発達、IT/デジタル化の浸透により、かつてないほどメディアや広告、マーケティングの担う領域やそこで動く費用は拡大する一方だろう。通用する手法の栄枯盛衰、リテラシーの向上に伴う騙し合いのノウハウ、広告を出す場所や出し方の多様化、追跡技術の向上など、マーケティングはより一層洗練され、下心を上手に押し隠しながら、より密やかにより強かに人を動かそうという機運は2014年当時と比べても格段に高まっている。

それに反比例するように、プラットフォームを掲げるWeb系企業からは公共性や責任感を感じる機会は減少し、ソーシャルを掲げる割には全く社会的ではなく、「コンテンツ」を標榜する割には一つ一つのクリエイティブ、コンテンツのクオリティは全くもって創造的ではなく、質や価値はどんどん下がってきているように思える。

「だから、昔は良かった」とはならないし、高いハードルを掲げるおかげでクオリティを担保しているオールドメディア、新聞テレビ系の方がコンテンツの質がいい、マーケティングの品が良いよね、とも全く思わない。

そもそも、メディアというものが明確に意識され、マーケティングや情報産業、それに伴う「大衆操作」や「世論形成」というものがはっきりと見出されたのは、印刷技術やカメラ関連、流通網が十分に発達した頃、せいぜい19世紀ぐらいからだろう。その誕生当時、あるいはバーネイズが『プロパガンダ』を、リップマンが『世論』を書いた頃には、「人を操る」性質は十分に見出されていたはず。

ヒトラーの『我が闘争』を取り上げるまでもなく、「メディアの怖さ」や「イメージ形成」による大衆操作が何をもたらすかも、敗戦後の日本、「政治の季節」を終えた80年代頃にはハッキリとわかっていたはず。

それなのにも関わらず、2000年代に入ってから急にそこに対する違和感、自分たちがやってきたことの過ちを語られても、「遅いんじゃない?」というか、「当時から分かっててやってたよね?」としか思えない。民俗学を専攻していたのに、無自覚にやっていたとするなら、もっとバカらしい。

別に、グーテンベルグによる出版技術の開発や、スチールカメラの登場を待たなくても、「情報」は「人を操作する」、「大衆を支配する」ための道具になっていたのも、少し歴史を紐解けば、特に民俗学のような分野を見ていけばすぐに分かる。文字の持つ力は大きいが、口承文学の持つ力、民謡の持つ力、踊りや壁画の持つ力も凄まじい。だから、「(何が事実かという歴史的な)情報」「言葉」や「文字」は特権階級にしかアクセスできないものだったし、新旧問わず宗教というのは「逸話」や「神話」、「教典や経典」が重要になる。

なぜ、自分たちはその社会で生きているのか。なぜ、自分たちはその支配者を戴いているのか、認めているのか。どこに正当性があって、今の格差はなぜ発生しているのか。それを個々人に認めさせる、納得させるためには「(その国ができた)神話」や「(為政者に至った正統な)歴史」が必要になる。

何を綴って、どんなイメージを形成するか。何を書いて、何を書かないか。同じ出来事を切り取るにしても、書き方次第、切り取り方一つで受け取り方は大きく変わる。洋の東西を問わず、そういったことを工夫してエリートたち、支配者層の人たちは大衆を操作してきた。封建主義が終わり、民主主義が訪れたって、何も変わらない。むしろ、より一層メディアの力、果たす役割は大きくなる。だから、メディアは発達し、情報産業や広告産業が発達してきた、ITやWebが成長してきたともいえる。

「メディア」の持つ作用、情報がもたらすそもそもの影響を、もし何も見ずにコンテンツを送り出す側、メディアに携わる側にいたというのなら、本当に悪い人だと言わざるを得ない。他の人を断罪する、近代文学を批判する、自分も悪かったと反省するだけでは足りないぐらいなんだけれども、そこまで反省するつもりはないんだろう。

戦前、戦中からメディアにいた人の無責任、利己主義

エリートの左翼思想に辟易する

「戦前」と仮置きしたが、明治維新後から引き続いていて、明治維新はつまり、江戸時代と公家の悪魔合体の側面もあるから、結局はこの国の出来上がった頃、にまで遡るだろう。明治維新以前、あるいはもっと古い時代から、この国の文化人、情報を司る産業にいた人たち、官僚のような身分にいた人たちの考えていること、やってきたことというのがいかにヒドいか、いかに的外れなことをし続けてきたのか。いろんな本を読んでいろんな角度から光を当てているが、そこには非常に深い憤りと残念な想いしか湧いてこない。もちろん例外はあるし、いい仕事をした人も少なからずいるからこの国は2000年以上も続いているのだろうから、一旦話を「戦前」に戻していこう。

明治維新を果たして「四民平等」な世の中になったとしても、情報に携わる領域、文書に携わる業務というのは基本的に、「学のある人」に任される。経済成長して、色んな人が学問を修めて行ったとしても、大学に進める人や芸術や文化の「違いがわかる人」になるには、それなりの家の出身者でないと難しいだろう。そうなると、基本的には江戸末期から豊かだった良家出身や士族、華族が情報産業や官公庁に関わっていくことになる。

しかし、なぜか良家のエリートは打たれ弱い傾向があるのか、あるいは苦行を伴う修行を嫌がるからか、上の世代、親の世代と向き合う時に、「伝統に根ざしたもの」やそれを突き抜けた新しい手法より、「もっと目新しい別基軸のもの」を外から持ってきて、それに心酔してしまうらしい。すでに戦前からマルクス主義や共産主義にかぶれ、革新的な発想によって保守的なもの(=上の世代)を打破しよう、力を得て認めてもらおうとする動きがあったようで、そう言った人たちの働きかけも大東亜戦争へのアクセルになったのは確かなようだ。(詳しくは、上念司氏の『経済で読み解く日本史 大正・昭和時代』などを参考にされたい)

戦前の共産主義活動、戦中の宣伝広告。そこに当時の文化人、戦後初期のクリエイター、アーティストが関与していた節も確認されている? 少なくとも、『暮しの手帖』の創刊者、花森安治はそう言った活動に関わっていたのではないかと、いくつかの書籍に書かれている。

戦後の情報産業、コンテンツ産業にも全共闘世代や、それに参加できなかった政治思想の持ち主、文化人が関わっているようだし、戦前から続いている情報産業の担い手、官公庁には戦前からのエリート、文化人は含まれているだろう。その「持てる人」たちが何をしてきたのか、今何をしているのか。「マスゴミ」と言われてしまうオールドメディアの惨状、自らの言動に責任を持たない無責任野党が目白押しな政治、あいも変わらず無責任に放言する左翼思考なクリエイターの方々、ガラクタばかりが増えるような気がするコンテンツ……。

中身のないコンテンツ、空疎な情報産業の再生産、無責任で利己的で短絡主義的な思想の乱立。これに憤りを覚えるのはおかしいことだろうか?

持てる人、エリートは責任を果たせ

自分より強い人、難しい問題にぶつかれ!

「歴史に”もしも”はない」のだろうけど、「もしも」明治維新以降、あるいは敗戦後、全共闘以降でもいいから、当時の「持てる人」たち、環境に恵まれていて人を率いる立場、大衆を導く立場に立てた人、そこに関わることができた人たちが、変な思想にかぶれることなく、自己保身に走ることなく、自分より強い人たち、自分の上の世代にきちんと立ち向かって、与えられた分の責任を果たしていたら、今頃の日本はどうなっていただろう?

団塊の世代が一つ上の世代、親の世代ときちんと戦う、伝統に則ってそれを凌ぐように努力する、全うな目で世の中を見て、解くべき問題を誤らずに向き合う、解決するように尽力していたら? 当時の楽しい雰囲気、「自分たちが良ければ」と楽しむだけじゃなく、「後の世のためにも」と苦痛を伴う行為もきちんとやっていたら? 団塊の後の世代でもいい、もっと前の世代でもいい。どこかの段階で、上の世代との対決、親との対決、(もちろん擬似的な)親殺しをしっかり果たしていたら?

世代交代はもう少しスムーズに進んでいただろうし、権限の委譲は現役世代に回す習慣も生まれていただろうし、世の中の仕組みももっと変わっていた、今よりも拡大しやすい空気、リスクをとってチャレンジしやすい世の中に変わっていたはず。それをやらなかったのは、「誰かがやってくれる」と見て見ぬ振りをした「持てる人」。分かっていたのに怖くて何もしなかった文化人、エリートたち。

これが、力も資金もない大衆、庶民の責任だと言われたら、まだ「仕方ない」と言えた。しかし、そうじゃない。太い実家もある、資金も潤沢に得られた、立場もしっかり得られている、お勉強もできて何不自由なく生活する余裕がある、そういう「持てる人」が持たされた分、託された分の「なすべきこと」をなさなかった。為すべきことから目を逸らして、解きやすい問題、楽な方へ逃げまくったからこうなっている。だから、憤る。「(分かっているのに)なんで、やらないんだ」と。

正しそうな人、エリートを信じても、何も変わらない

「持たざる者」でも、為すべきことを為さなきゃいけない

ただし、伝統を無視した「新しいこと一辺倒」ではダメだし、古いことに心酔しすぎて「新しいものを否定する」でもよろしくない。やりやすい路線、誰でもやりたいと思える方向にも、きっと正しい答えは待っていない。危なくない方法、既に分かっていることにも、「やるべきこと」は多分存在していない。誰かの背中を追う、誰かの真似をするだけでは見えてこないところ、形があるようで形がないところを躊躇なく突く。そういうイメージ、ニュアンスに手を出さないと、「為すべきこと」は果たせない気がする。

進むにしろ、実行するにしろ、痛みを伴う茨の道。自分も痛いし、周りからも非難轟々の、進みたくない道。先も見えないし、自分が進まないと道が作られることすらない「何もないところ」へ出て行く他ない。

めちゃくちゃ怖いし、「なんで自分が」と強く思うし、身構えるからグズグズと足踏みして思考をアウトプットすることに時間を割きまくっているんだけど、誰もやらないならあえてやろう、きっと前人未到だろうから積極的にやってやろう、という気持ちを一所懸命作っている。

悲観論を打つだけのエリート、大所から見つめて言葉をこねくり回すだけ、仕組みを組み替えるだけの人にもならないように気をつけて、着実に実行する人、着実に変えて行く人を目指して、入念に準備させてもらえればと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 ただ、まだまだ面白い作品、役に立つ記事を作る力、経験や取材が足りません。もっといい作品をお届けするためにも、サポートいただけますと助かります。 これからも、よろしくお願いいたします。