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奈落の擬死者たち(仮) 第三話

 牧と別れた後は、すぐに「狸」へ戻った。六花ちゃんに頼んでいた店番を引き継ぎ、彼女の勘定を済ませて帰らせる。オレのいない間に彼女が接客していた常連客は、ウェイトレスがいなくなると聞いて、心の底からがっかりしていた。
 オレは失礼極まりない客を適当にあしらい、新人バイトへ営業を引き継ぐまで、カウンターの中で牧の持ってきた資料に目を通していた。野久保の現住所や婚姻、交友歴は、古巣を除隊するときに聞いていたものと変わりない。
 手術の詳しい情報までは記載がない。ただ、昨日の様子を見る限り、追加の手術も戻しの手術も受けてはいないように思える。
 牧に頼んだのが悪かったのか、資料化する時間が余りにも短すぎたのか、野久保の現状や認識を改めるような、目ぼしい情報は一つもなかった。彼は、オレや牧が知る、野久保のままのようだ。
 ただ、彼もオレと同様に、再就職には苦労しているらしい。両眼という目立つ部分が機械化されていて、手術痕も誤魔化しにくいとなれば、経歴をいくら工夫したところで安定した雇用というのは難しい。
 彼の特異な才能である目は生かされることなく、日雇いの肉体労働者として日々を食い繋いでいるようだ。オレも人のことは言えないが、コレではいつまで経っても「買い戻し」は叶わない。
 ここに来て、研究所閉鎖の噂話が重たくのしかかって来る。オレも諦めるつもりはないが、野久保の両眼はなんとかしてやりたい。十年以上、自分のケツもマトモに拭けていないのに、他人様の心配ができるとは、随分自分の見積りを甘くしたもんだ。
 「狸」は新人バイトに任せ、オレは一つ下の事務所へ戻った。牧からの新しい仕事にも備えながら、頭の片隅に野久保のことと、研究所のことを気にかけていた。新しい仕事をさっさと終わらせて、さっさと買い戻せ。野久保のことは、それから考えればいい。
 答えは最初から出ているのに、なんとなく目の前のことへ集中する気にならなかった。こういう時は、一杯引っ掛けてさっさと寝てしまおう。流しに置いてあったグラスを流水でさっと洗い、寝酒が保管してある棚を開けた。中に、見覚えのない瓶が混ざっている。
 オレはそれを手に取り、引っ張り出した。封を開けた形跡もない、真新しいウィスキー。異物混入の形跡がないか入念に確かめ、蓋を開ける。グラスに注ぐと、琥珀色の液体が揺らめいた。
 瓶の口に鼻を近づけ、匂いを確かめる。香りはコレといった特徴を感じない、よくあるブレンデッドのようだ。グラスに少しだけ水を加え、口に含んでみる。舌先がピリピリと微かな刺激を受ける。飲み込んだ後、鼻から口腔内に抜ける香りも、いわゆるウィスキー然としていた。
 特別に不味いということもないが、上手いとも思わない。癖のない寝酒としては、気軽に飲めてちょうどいいとも言える。こんな酒を自分で買ったり、誰かから送ってもらった記憶はない。事務所の鍵を渡している刑部さんが、大事な酒を置いて行くとも思えない。
 キッチンで謎の瓶を見つめながら残りの酒を舐めていると、ケータイの画面が光った。野久保からのメールが届いたと通知が出ている。野久保からのメールは、「今夜も飲まないか」という誘いだった。オレはそのメールに返事をしつつ、今朝のこととウィスキーのことを合わせて尋ねた。彼は、都合の付く時間と無事に帰宅できたこと、ウィスキーの瓶は自分が置いて行ったと返してきた。
 オレは彼に、「狸」で飲むことを提案した。彼はその辺りのこだわりや希望はなかったらしく、「了解」とだけ返して来た。彼はすぐにこちらへ向かうらしい。オレは「狸」の場所を彼に伝え、事務所の鍵を閉めて「狸」へ向かった。

 二、三十分後に野久保が到着しても、「狸」のカウンターは空席が目立った。彼は刑部さんの正面に座っているオレの側までくると、隣の席に腰を下ろした。荷物とコートは新人バイトくんが預かり、コートはハンガーに、荷物は奥のクロークへ運んで行った。
 野久保はカウンターのマスターをジッと見て、差し出されたお手拭きを受け取りながら、「ああ、どうも」と刑部さんに挨拶した。野久保が「ご無沙汰しています」と挨拶しても、刑部さんは静かに目礼し、ドリンクメニューを差し出した。
 野久保はメニューを見るなり、オレの顔を見た。オレは平静を装い、ミックスナッツを口の中に放り込む。
「どうした?」
 オレの言葉に野久保は声を潜め、「オレには無理だよ」と言った。オレは野久保の顔を見て、ニヤッと笑った。
「ここの勘定はオレに任せろ。値段は気にするな」
 オレは、「ねぇ。マスター?」と刑部さんに視線を送ると、彼は何も言わずニコリと微笑んだ。クロークから戻ってきた新人バイトくんは、オレと刑部さんのやり取りを聞いていたらしく、「本当に、大丈夫なんですか?」と耳打ちしていた。
 刑部さんはそれには答えず、オレと野久保に「何になさいますか?」と尋ねた。オレは野久保のメニューを横から見て、「じゃあ、ポーターで」と黒ビールを注文すると、野久保は「僕も、それで」と言い、メニューを閉じた。
 刑部さんは恭しく頷き、二杯の黒ビールを注いだ。オレたちは運ばれてきたばかりのグラスを持ち、乾杯した。オレは一気に半分ほど飲み干したが、野久保は遠慮がちにチビチビ飲んでいる。
 彼はグラスをコースターに乗せると、口元についた泡を舐め取りながら口を開いた。
「なあ、本当に良いのか?」
「いいんだ、いいんだ。気にするな」
 野久保はそれでも居心地が悪そうにしながら、ビールを飲んだ。彼の気持ちもよく分かる。メニューに載っているどのドリンクも、貧乏性には中々手が出せない値段だ。もちろん、オレにも簡単に手は出せない。
「オレと刑部さんの仲だから」
 オレがそう言っても、野久保はまだ納得がいかないらしい。彼は「そういうもんかな〜」と渋々と言った様子で、徐々に飲むペースを早めていく。別に特別な関係やカラクリがある訳ではない。定期的に、キッチリ安くはない金額を払わされている。ご近所のよしみ、昔のよしみで多少の融通が効いているに過ぎない。
 ここで野久保と飲んでしまうと、「買い戻し」は着実に遠のく。そういう意味では全くもって大丈夫ではないが、野久保と飲む方が大事だ。
 オレは、牧の資料では分からなかった近況や、家族の話を彼に尋ねた。オレも彼に、自分の身の上話をした。お互いに、特異な身体になったために、家族との距離が詰められない話や、気軽に会いに行けない話をした。
 オレの場合は手術を受けるタイミングで離婚していたが、彼の場合は手術を受けるタイミングで、死んだことになっていた。子どももまだ小さかったために、そうした方が良かったのだと。
「子どもに会いたいとは思わないのか」
「会いたいさ、そりゃ。でも……」
 野久保は、その特徴的な眼を伏せた。オレはたまに会わせてもらえるが、彼の風貌と状況では、それも中々叶わないのだろう。
「それに、あっちには新しい家族がいる。稼ぎの立派な父親と、可愛い弟、妹もいる」
 野久保の告白に、オレは全く動揺しなかった。昨夜もここで、牧と似たような話をした。野久保の依頼ではなかったが、オレが隠し撮りした写真も、今頃牧の手から依頼主に届けられているだろう。
「お前も立派な父親さ」
 オレは、野久保の背中に手を添えた。そのシャツは生地が薄く、ゴワゴワしていた。よく見ると、野久保の手は爪の隙間が黒ずみ、節くれて荒れ放題だった。オレも人のことは言えないが、本来なら、こんなところに座れる人間とは思えなかった。
 野久保の背が、小刻みに震え始めた。彼は俯いたまま、顔を上げようとしない。
 それを見ていた刑部さんは、「今夜はもう、お開きになさいますか?」と言った。オレのグラスにはまだドリンクが残っていたが、オレは野久保の返事も確かめず、頷いた。刑部さんの指示で、新人くんが野久保の荷物とコートを奥から持ってくる。
 オレはそれを受け取り、静かに涙をこぼしている野久保を連れて外へ出た。昨日と同じことを繰り返すように、自宅兼事務所へ彼を連れて行った。

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