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Vol.14 日本らしさを考えてみる 3

一冊の書籍をきっかけに、読後感等を好き勝手に広げて、自分が考えていることを書き散らしてみようという試み第3弾。今回は、『「甘え」の構造』を取り上げて、「甘え」について、またなぜ「甘え」が見られるのか。その辺りからも、日本らしさを考えてみる。

『「甘え」の構造』(土居健郎著 弘文堂)

海外渡航をして気がついた「甘え」を通して、日本人の精神を考えた書籍

原版は、1971年(昭和46年)2月。今回読んだのは、増補や付記のついた増補普及版(2007年5月刊行)。日本独自の精神構造、心理について、昭和46年という比較的早い時期に書かれた書籍。増補普及版からも10年以上経っているので、精神的な捉え方も社会的な環境も、2世代、3世代以上前のものなので、多少のズレを感じるものの、後の世に生まれた者としてその辺りも織り込んで、当時の知性が何を感じ、何を思ったのかを追いかけるのにいい書籍、ではないだろうか。

一つ前の記事でも触れたが、なぜか日本人、あるいは日本社会は「イエ」を起点に、「身内」や「身内びいき」、あるいは「疑似家族」的なものを作っては、そこの内側か外側かを気にする気風、心理を作り上げてきたように思う。

客観的な価値や科学的な正しさよりも、自分たちの常識の範囲内、身内の中での価値や正しさを優先してしまう。そこに囚われる、あるいは内向きの意識を正さないまま、「身内以外」ともコミュニケーションをしようとする。身内の話も通じるものとして、あるいは外側でも通じると思ってお山の大将的な風を吹かせる、外に持ち出してしまう。

なぜそうなるのか。ここについて本書では「言語」に起因するのではと論を展開していたが、個人的には別の尺度を持ち出そうと思う。それは、「環境」。

山がちで深い森を持つ、災害大国な島国

人より自然が怖い。災害から生き延びることが優先される?

同じように島国といっても、東南アジアやミクロネシア、カリブ海、日本国内でも琉球 = 沖縄のように、海の外と交流を持ったオープンな気質の島国もある。環太平洋造山帯であり、モンスーンに影響される地域であり、伝統的に農耕より、海や山、森を相手に狩猟採集を主にした民族が住まいがちだった地域でもある。

河川の急峻さ、照葉樹林文化も共通しそうな島国もあるものの、なぜか日本(の本土、内地)だけが内側に閉じがちな気風、文化を育ててきてしまった。

これはひとえに、島国でありながら、山の民、あるいは河の民であったということだろう。もちろん、海に出て行く人たちも少なからずいたが、漁民や漁師が必ずしも多数派だったとは言えない。海を渡って日本に辿り着いた人たちだったこともあるのだろうが、わざわざ怖い海へ出ていかなくても、実りの多い里山や森に行って、食べ物を採集した方が安全で安心だったのではないだろうか。

消して小さいとは言えない本州の色んなところに、色んな人達が住んでいただろうが、海だけでなく険しい山、深い森も自然の要害となり、他の地域、他の家族と断絶する一助を担っていた。

そこに加えて、災害の多さ、多様さも内向きの結束を強めるきっかけになりうる。災害に見舞われている最中に、いかに生き残るか。生き残るために必要な知識や共通認識は、その都度教える暇はないから、「知っている前提」で逃げる、生き残れるようになっていないとこの国では生きられない。少なくとも「どこかの時点」で運悪く死に絶えた血筋、家系は現代には存在しようがない。

2000年近く、あるいは旧石器時代から1万年以上この国で生き延びている人は、それだけ生き抜く術、運を持っていた、サバイバルに適した身内、イエを育ててきたとも言える。

災害の真っ只中で、誰を助けて何を守るか。非常にドライな判断を迫られる時もある。この時、「身内か否か」、「誰を身内とするか」は大きな基準になる。災害が通り過ぎた後、誰を助けて誰を支えなくてはいけないのか。あるいは、誰から支援を受けられるのか、助けてもらえるのか。身内が多ければ多いほど助かるきっかけは増えるが、必要になる物資、リソースも多くなる。

災害が多い国、その上、山も多い島国で閉ざされがちな環境下では、「身内」や「持っておいてしかるべき共通認識」は生死に関わるキーワード。「悪意を持った人間」や「険しいけれども殺されることのない自然」より、「集団から疎外されること」や「身近な自然」の方が恐ろしい状況で、「言わずとも分かる」という甘えや、内向きの思考を育ててしまうのは仕方がないのかもしれない。

儒教的な思想が身内意識を助長する?

群れを維持しようとする危機意識と、意外にドライなヨソへの意識

儒教の全てが悪だと言うつもりはないが、大事にしすぎてしまうと「上のものを敬え」、「身分の高いものを尊べ」になりすぎる。これといわゆる家長制がかけ合わさると、任侠的な上下関係、暖かくも恐ろしい、愛憎渦巻く疑似家族が出来上がってしまう。

群れの中にいて、順当に良いポストを得られる分には暮らしやすいが、外部からの危機にさらされると、必死に学んで巻き返すか、対応が間に合わずに蹂躙されるかの二択になる。この国が度々成長してきたのも、概ね「外圧」や「ヨソ者」による破壊や破壊の予兆。身内の常識が通じない相手、力尽くでも跳ね除けられてしまう相手、誰かを待つのが基本の構え方になってしまう。

身内意識の弊害はまだある。外側に向ける無関心や敵意が、思いの外強くなる。いつでも身内の安全、身内の力比べが最重要。外の理屈、客観的な視点、公共的な捉え方なんてどうでもいい。自分たちの常識、自分たちの領域が侵されようとすると、必要な変革、破壊であっても蹂躙、圧殺する。

群れの理屈、これまでの常識が通用しない相手を、とことん叩く。ヨソ者の力、外部の力を待つしかないのに、いざ到来すると、変わり者は排除されてしまう。それが強ければ強いほど、客観的に正しければ正しいほど、新しければ新しいほど、強い反発で潰しにかかる。ここで具体的に名前を挙げなくても、「あの人もそうかな」とか「この人もそうかな」と思い至るだろう。

結局、身内が良ければそれで良い。イエの中が快適であれば良い。その理屈で何重かの同心円を描いていって、この国は成り立っている。身内の連なり、大きな身内と、「おおやけ」=「天皇」と。そう、この国には基本的に「パブリック」は存在しない、あるいは存在しなかった。「外部」という意識を基本的に持たないため、「自分」を立てて、自分外の人と積極的にやり取りする必要も生じなかった。

明治以降、「自由」という訳語ができたが、真に自由だった日本人がどれだけいたか。福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」といったが、一身の独立、すなわち「自立」(や自律)を果たせた人はどれだけいたか。甚だ疑問だ。

というよりは、あの時代に福沢諭吉がそういう境地に立ったこと、『学問のすゝめ』や『脱亜入欧』などを唱えたことがいかに異常だったか。相当なタフガイだったという他ない。そして、密かにこの『脱亜』の「亜」は「儒教」だったんじゃないか、というのもここに書き添えておく。

順調な発達には「甘え」が不可欠

「甘え」も「自立」も足りない現代

土居氏の「甘え」にまつわる視線は、心理学や発達段階、フロイトのエディプスコンプレックスといった領域にも向かう。それと同時に、儒教に対抗する信仰としてマルクス主義、共産主義を持ち出してきた当時の若者たち、その暴虐ぶり(学生運動など)と疎外感について語られる。

成長の過程において、子供が母親に十分甘えられるかどうかは、その後の発達に大きな影響を及ぼす。精神的な安定、基本的な安心感を得るためには、幼少期の「甘え」や甘えられる環境が欠かせない。そして、エディプスコンプレックスに則るなら、十分な甘えの後に同性の親とどう向き合うか、どんな同性を同化対象に選ぶのかなど、思春期前後の抑圧や葛藤を経て、精神的な自立を果たしていくことになる。

父親や母親と、しっかりぶつかれるか。ぶつかっても安全、受け止めてもらえるという安心感を持てているか、その時に得られているか。ぶつかっても受け止めてくれる相手がいるかどうか。ぶつかりたいと思えるだけの同性の年長者がいるか否か。そこも、「発達」や「自立」には無視できない要素となってくる。

甘えからくる数々の要求を、無理なく解決できるだけの財力、経済的な余裕も、場合によっては必要になる。最低限の文化的な生活は送れる所得、高等教育を受けられるだけの可処分所得。それを得てくる親がいるかどうか。それも、「甘え」るため、自立するためには欠かせない。

しかし、残念ながら、この国の何割かは、まともに資本主義経済に参加していない。雇用する側も雇用される側も、その外側にいる公務員や官僚も、経済の原則に則ることなく、経済活動っぽいことを日々こなしている。働いても働いても豊かにならない、十分な賃金を得られない、十分な給与を払えないから自分たちの売り上げも上がらない。

やがて父親は長時間労働に駆り立てられるようになり、父親不在の家庭が出始める。子供がぶつかりたくても父親はいない。自立できないまま父親になった男親を前に、その子供はぶつかるだけの価値、存在を感じるだろうか。ぶつかってやろうと思うだろうか。父親がいなくなれば、家庭における母親の役割が大きくなる。大きくなるのに、母親もやがて働きに出るようになる。

父親の不在は、十分に甘えさせてくれない母親に繋がり、十分に甘えられなかった子供は、自分が十分に甘えられなかったからと、誰かを甘えさせられない。甘え足りない女性が母親になれば、その子供も甘え足りない子供、安心感を欠いた大人に成長しがち。

『資本主義という病』(奥村宏著 東洋経済新報社)と、毒親の連鎖を生む『父という病』、『母という病』(いずれも、岡田尊司著 ポプラ新書)は、お互いに尻尾を食い合い、ウロボロスの輪を成して、この国を蝕んでいる。

福沢諭吉にあって、一世代後の夏目漱石に足りなかったものの一つが、幼少期の家庭環境や「(十分な)甘え」だったのかもしれない。精神的な自立も国家の独立にも、「(十分な)甘え」が必要ということになる。

理想の親、甘える対象をフィクションや偶像に求め始める?

作られた同性、異性に愛を求める、愛を注ぐ。でも、応えてはくれない、触れられない

やがて、家の中、身近な現実に甘える対象、甘えたくなる対象がいなくなると、形のない虚像、アニメや漫画、あるいは触れられない芸能人にその目が向いていく。親に求められない分をフィクションや偶像に求めても、向こうはこちらを向いてくれない。応えてくれることもない。

そしてそのフィクション、偶像も、ただの商業活動で何もない空虚なものであるということを晒していく。のだけれども、その話はまた別の記事で触れるとしよう。

フィクションや偶像には十分に甘えられないし、ぶつかれない。憧れの対象としては望ましい側面があったとしても、生身の人間ではなく、良い面しか持っていない人工物だから、それだけじゃない自然物、現実に馴染めなくなる。安全、安心感を得られていない状況で、さらにその効果まで上乗せされれば、だんだん病んでいったってしょうがない。

作り物のフィクションですら、作り手が貧弱になってきて、イマイチなものが増えてきている。そのイマイチさを見極める審美眼も持たず、フィクションや偶像に没頭していく。その先に待つのは、なんだろう?

過剰な身内意識と、必要な「甘え」の欠如

空気を読む、共通認識に依存するコミュニケーション、外部を排除する防衛意識

どれも、全て悪癖とは限らない。良い面もあるが、良い面だけじゃない、ということ。褒められた「らしさ」ではないが、こういう傾向も「日本らしさ」にはいくらか埋め込まれている。

人間社会の産物である、自然に根ざさない「儒教」や「マルクス主義/共産主義」に染められ、全体主義に陥ってしまうとすぐに機能不全を起こすし、擬似家族内でのもたれ合い、内向きの政治、権力闘争が始まってしまう。

「外」に対する意識も危うく、内側からの変革が難しいのにも関わらず、身内の常識や価値観を優先して、客観的な判断、科学的な物の見方ができず、変革をもたらす変わり者、よそ者が弱いうちは判官贔屓をするものの、力を増して本格的な驚異となれば潰しにかかる習性も、日本のそこここに隠されている。

外への意識、身内と身内、身内と「おおやけ」以外の部分に対する意識、認識。そこと対峙するための「自分」や「自立、独立、自由」。ここが若干弱い、苦手としているというのがわかってさえいれば、対処のしようもあるし、伸ばす方法も改善する瞬間もきっとある。

人間の頭だけでこねくり回された人工物、「綺麗で分かりやすくて安全なもの」一辺倒をやめていく。古くからある修験道や、臨済宗以外の禅、雄々しい自然、畏れ多い海や山と向かい合う。分かりにくくて複雑なものを取り入れる、向き合う。かつての日本人が持っていた習性、習慣を今一度思い出すのが近道な気がする。

内側を向きがちな意識、秘匿性や縦のつながりが強くなりがちな「イエ」という制度も決して捨てず、大切にしながら、もう一方の考え方、外側を見る、複雑で怖いものと向き合う部分もしっかり伸ばす、育てていく。そうやって、両方をバランスよく伸ばす、鍛えていけば、過剰な身内意識も、今は足りない「甘え」も徐々になんとかしていけるんじゃないだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 ただ、まだまだ面白い作品、役に立つ記事を作る力、経験や取材が足りません。もっといい作品をお届けするためにも、サポートいただけますと助かります。 これからも、よろしくお願いいたします。