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乳との生活(上)

(1)

 マンションの方角に月が出ている。残業で遅くなった。この時間だと妻は先に帰っているだろう。ところがエレベータで部屋に着きドアを開けるが妻の気配はない。二人でIKEAで買った簡易な木製のテーブルは、まだ日中に西の窓から差した陽の名残でほんのりとあたたかく、そのあたたかさの上に、餅のような物体がぽんよりと載っていた。乳だった。

 なぜ乳がこんなところにあるのか。よくできた玩具かジョークグッズだろうか、妻は手先が器用だから彼女がふざけて作った工作かもしれない、と思ってみるが、どう見てもヒトの肉と皮膚で、それが本物の乳であることは直観的に分かっていた。妻が乳を残して消え去ってしまったのか。……ふしぎなものだ、人体に付属している乳ならむしろ遠慮なく触れたり揉んだりできようのに、人体から切り離された乳はなにか畏れ多いもののようで、俺はテーブルと一定の距離を保って乳を見下ろしていた。

 ふと、これは妻から分離したものでなく、妻が乳に還元されてしまったのでないか、と気づいた。彼女は日頃、おかしなことをよく言っていた。

「ねえ、私が乳になってしまったらどうする?」

「乳になるって何だよ」

「人間としての存在でなくなり、乳という存在に還元されてしまうの。どうする?」

 いつもの彼女独特の発想だと思って「そりゃ大変だ、どうしようかなあ」と流していたが、そのことが、本当に起こってしまったのではないか。

「大丈夫か? お腹空いてない?」

 俺はとりあえず、一定の距離を置いたまま乳に語り掛けた。そんな月並みな言葉しか掛ける言葉がなかった。

「……」

 乳は無言である。

「喉は渇いてないか?」

「……も」

 乳は小さくふるると揺れ「も、も」と音声を発した。低くくぐもった声だった。発声器官がどうなっているかは分からない。元の妻の声と似ている気も似ていない気もする。これは、教えればもっと言葉を発するようになるのだろうか。



(2)

 湯の中にぽんよりと浮かぶ乳と、俺は向き合って湯船に浸かっている。乳は小さく沈んだり浮き上がったりを繰り返しながら揺蕩う。乳との暮らしが始まり数日が経った。

 少し乳の生活も分かってきた。乳は夜になるとひんやりとしてくるから、風呂に入れてやると喜ぶ。正確には、あれからも言語は発していないので分からないが、喜んでいる気がする。ボディ全体がうっすら赤みを帯びて、気持ちがよさそうだ。

「お湯加減はどう? ぬるくないか?」

 声をかけると乳はかすかに体を揺らしパシャパシャと湯が跳ねた。湯の中で、乳の頭部、すなわち乳頭はふんにゃり平たくなり、乳がリラックスしていることが分かる。妻は人間の姿だったとき、どちらかといえば表情の変化が乏しい人物だった。人間の頭部よりも乳の頭部のほうが感情を雄弁に伝えてくる気すらする。これからもっと寒くなるだろうから、乳頭温泉の入浴剤でも買ってきて浸けてやろうか……そんなことを考えた。

 洗い場に上がり身体を洗おうとスポンジを手に取ってボディソープをつけ、脇腹をこすると、ぽみゅん、という予想外の弾力を感じた。

「!?」

 考え事をしていたからか、スポンジと間違えて、湯船の縁で体を冷ましていた乳を手に取ってしまったのだった。

「……」

 乳は無言のままボディソープの泡にくるまれており、別に怒ってはいないようだった。




(3)

 乳と化した妻を見つけた翌朝、やはり乳は乳のままぽよんとしていた。起こった事態にいまいち確信がもてぬまま、とりあえず妻の職場に電話をかけ事情を伝えた。乳になったから仕事ができないという一方的な決めつけはよくないかもしれぬとは考えたが、人は風邪や怪我のような異変でも仕事を休むのであるから、ましてや人体から乳体へという大規模な異変に際しては休養を取っても妥当であろうと判断した。

 電話に出た、年配の男性らしき妻の上司は、

「なるほどそれでは出勤できませんなあ、ではしばらくお休みということで」

 とずいぶん物分かりがよく、こちらが驚くほど驚きを示さなかった。妻は会社でも以前から「私が乳になったらどうしますか?」と言っていたのかもしれない。あるいは、人が乳になることは割によくあることなのだろうか? 

 今、乳は、リビングの赤いソファの上にぽてりんと座してTVを見ている。くつろいでTVを見るのが好きな俺達は、ソファだけは少し良いものを買っていた。流れている動物番組は、乳になる以前から妻が好きだったものだ。乳になっても大きく嗜好は変わらないのか、世界各地の野良猫たちが映し出されている様子に、乳は、ぽよよ、ぽよよ、と嬉しそうに身体を揺らしていた。見ると、どこかの国の母猫が子猫に授乳をしている映像だった。母猫の腹は、肥大した乳首の周囲だけ毛が薄くなり、ピンクの皮膚が露出している。乳は揺れながら「んも、んも」といつもより少しだけ高い声を発していた。もしかしたら、画面の中に自分の仲間の姿を認めて喜んでいるのだろうか。



(4)

 新婚当初から使っている布団を敷き、乳と枕を並べて眠りにつく。乳が使っている布団は、妻が使っていたものだ。かつて妻の頭部がふんわりと埋まっていた枕の上に今は、乳の頭部がふんわりと埋まっている。人間だったときの妻の布団は乳には大きすぎるので、乳がずっとこのままなら、乳用布団を買ってやったほうがよいのかもしれない。

 昨今、朝晩は冷えるようになった。寝つくときは身体が温まっていても、寝て数時間経つと寒さで目が覚めてしまうことがある。今夜も深夜過ぎに目を覚ましてしまい、何やら肩から脇のあたりにぽにゅんとした感触を覚えハッと目をやると、隣の布団で寝ていたはずの乳が俺の身体に寄り添って眠っていた。

 乳も寒かったのだろうか、俺は思わず苦笑して、眠る乳に改めて毛布を掛け、自分の腕に抱え込んだ。腕の中で乳はすやすやと寝息を立て、時折ほよほよとした皮膚が俺の肩や顔に触れた。妻が、人間としての妻が、この様子を見たらさぞ嬉しがるのでないだろうか。以前、俺が妻の乳に触れて戯れていると、妻はしばしば、

「いいねえ、あなたは、配偶者の乳を触れて」

 と心底羨ましそうに言ったものだった。

「なんだそりゃ、自分のなんだから自分で触ればいいじゃんか」

「自分に生えてるものを自分で触っても愉しくないよ。私は、他人として私の乳を触りたいのよ」

 今、妻が、乳として独立して存在するこの乳を見たら、存分に希望を果たせて大喜びすることだろう。妻と二人で乳を愛でて、柔らかいねえと言い合ったり、どちらが乳を抱いて眠るかで喧嘩をしたり、晴れた日に乳の散歩に出かけたり、そんなふうに暮らせたらたしかに愉しいことだろう。ただ、人間の形をした妻だけが此処にいない。

(続く)


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