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天皇の代数は明治末に変更された~南北朝の影

見出し写真は、室生寺にある、南朝のブレーン北畠親房の墓。

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後醍醐天皇が書写して自らの手印を押した、四天王寺縁起。

歴史を願望で捏造する日本人。#南北朝時代

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今回の話題は、天皇の代数について。

教科書では、明治天皇は122代となっています。したがって、今上(平成)天皇は125代となります。

しかし、明治末までは、明治天皇は124代でした。

話は後醍醐天皇と南北朝の時代にさかのぼります。

南朝の天皇は後醍醐の死後、三代で消滅します。

天皇の血脈をつないだのは、北朝で、明治時代の宮内省も文部省も、北朝の代数を当然としていました。

明治44年、帝国議会で、藤澤元造が、忠臣を生み出した南朝を軽んずるのは、臣民教育道徳を軽んずるもの、と演説をした。これをきっかけに、南朝びいきの世論が盛り上がり、ついに宮内省もおれて、天皇系譜が書きかえられた。北朝の五人の天皇が抹消された。

歴史事実としては、南朝は断絶し消滅した。天皇の血脈をつないだのは北朝である。

明らかな天皇系譜の改竄、捏造である。

現在も、訂正されず、明治末の感情的改竄が続いている。

明治末、四天王寺では亀井水が改造され、忘れ去られた。世相は日清日露の戦勝に沸き立ち、日露講話に反対し徹底侵略を朝日新聞が扇動し日比谷焼き討ちの暴動がおこる。朝日新聞が、反戦ではなく戦争拡大扇動で発禁処分をうける。そんな時代に、天皇系譜が書きかえられたのです。

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後醍醐天皇

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