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明治末の影向井の撤去と終戦直前の西門手水鉢への転用

#西門手水鉢

#影向井


亀井水調査の入り口にして、最大の難問。明治末の改造により失われた、影向井(ようごうい)はどのようなものであったのか。

初代の真っ黒な手水鉢。これも中世のお風呂だろうとの推測で文化財指定されたがために、亀井水との関係は完全否定されてしまい、さらに本物は失われた。記録と幾何学的構造から、失われた初代手水鉢が、亀井水の影向井であったことを証明する。


写真1 昭和36年西大門(極楽門)再建当時の写真に写っていた、初代手水鉢。真っ黒である。水面が赤いのは極楽門の柱を映しているため。

写真2 現在の西門手水鉢。平成7年に作られた三代目。


写真3 近年修理された、2代目手水鉢。初代の本物とみなして展示されている。たしかに、寸法は正しく再現されているが、凸部にあるべき貫通孔がない、後がやや狭まる長円でなく単純な楕円である。内面の仕上げ平滑でない。と、本物でないのは明らか。レプリカだから、修理されず宝物館の床下に長年放置されていた。


初代手水鉢は、昭和48年、府指定文化財考古資料No.6として登録された。残念ですが写真や図面は残されていませんが、寸法特長を記した文章が府文化財保護課のファイルにかろうじて残されていました。

これが、影向井であった推論



図1 1対ルート3の製図法。正三角形をふたつ描く。

図2 玉葉(九条兼実の日記)1187年後白河法皇の灌頂における、座席配置図のすみにメモされた、大寺池(現在の亀の池、元蓮池)と亀井。

図3 再現設計図


昭和始めに創作された落語「天王寺詣り」では、西門には手水鉢がない、と念をおすように語られています。それゆえ西門の柱の輪宝を回して手を清めるのだと。(さっきおいどかいて、回してみたけど、まだ臭い。と噺は続きます。)

昭和10年の境内実測図にも、手水鉢はありません。戦後すぐ撮影された空襲で廃墟と化した中心伽藍を俯瞰した写真に、やっと手水鉢を確認できます。

明治末の改造で歴史的役目を終えた影向井は、当初は大切に保管されていたのかもしれません。しかし、亀井イコール影向井という説明がなされるなか、その存在は秘匿されたでしょう。いつしか本来の歴史はかえりみられなくなり、手水鉢に転用されたのでしょう。

明治以前には聖徳太子像として、法隆寺聖霊院太子像をはじめ広く認知されていた影向井由来の太子像は、奈良時代の役人像がお札に採用されたことで、忘れられます。


さて、この手水鉢は、昭和48年に府文化財指定されました。

その時の学者の判断は、中世のお風呂だろう、というものでした。文化財保護課に残されていた説明は、次のようなものです。


「四天王寺西大門の西南外に見られる石槽で現在手水盤として手を加え利用されている。石槽は花崗岩製で一材くり抜式のものである。外表は全面を粗く敲打して、平面を長楕円形にまとめ、自然石の面をとどめない。槽の外面は胴膨みがみられる。石槽の上面は、外径長軸1.85m短軸1.18mをはかり、周縁の上面の厚みは0.12mとなっている。

槽内は頭部がひろく脚部がややすぼまる形をとり、内径は長軸が1.63m、短軸が0.94mをはかる。槽内は平滑にみがかれており、周縁内周に一段のふちどりをつける稀にみる丁寧なものである。なおこの石槽の頭部には、周縁と同じ高さでつづく平面凸形の特徴ある装飾がみられる。この装飾は、幅0.395m出0.135m高さ0.24mをはかり、途中に一条の彫線があり、上面に一円孔が穿たれている。」

孔という字は貫通孔をあらわす。考古学では、孔と穴の区別は重要である。

さて、水面の縦横比率、163cm÷94cm=1.73である。これが何か思いつくのに三日悩んだ。
ルート3である。つまり、正三角形の定規で簡単に製図できる。


再度、玉葉に描かれた亀井。前が広く後がややすぼまる長楕円、影向井の印象を記録したものと考えると、わかりやすい。


影向井1.73、亀井2.00、水面の縦横比率が距離と高さの比率である。人間の遠近感は平面スクリーンに投影されます。

以上、実測記録と論理で、西門手水鉢が影向井であったことを証明しました。 

二代目レプリカは、寸法だけは正確にとられている。

文化財保護課の記録には、石槽の高さがない。

二代目レプリカの実測87cm。

亀井の地下部分が約10cm。

つまり、地上高さは、77cm。

私の製図による計算で、77cm。

遠近法による幾何学的設計という仮説が補強された。

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