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宮田さんの名誉のために

第3話

1969年、「全日本アーチェリー連盟」独立前夜。1967年アマースフォート世界選手権に、日本代表として7名の選手が派遣されました。 
1958年全日本弓道連盟は、FITA(国際アーチェリー連盟-現在のWA)への加盟申請を行い、認められることで名実ともに世界における、日本のアーチェリーを統括する唯一の団体となっていました。洋弓は和弓の傘下にあったのです。そのため、彼ら7名は「全日本弓道連盟」に登録されていました。
その背景には、1964年に行われる東京オリンピックで、アーチェリー競技が正式種目として実施されるというIOC決定があったのです。そこで、全日本弓道連盟はFITA加盟と同時に「国際部」を設け、東京オリンピックでの和弓の勝利を目指し、信じてアーチェリーの調査研究を行っていました。しかし実際には、エントリー国数が少なく東京での実施は見送られ、オリンピックでのアーチェリー競技の復活は、1972年ミュンヘンまで先送りされます。
そんな中で1959年には「全日本学生アーチェリー連盟」が発足、1966年には延長線上に「全日本アーチェリー連盟」が結成されます。そしてオリンピック参加がなくなる一方で、国内におけるアーチェリーの隆盛は双方に対立を生み、感情論にまで発展するなか、全日本アーチェリー連盟は、FITAへの加盟権譲渡を全日本弓道連盟に迫ります。

宮田さんは一番左。
団長は和弓から渡辺男二郎さん(左から4人目)、
監督はアーチェリーから細井英彦さん(左から3人目)。
アーチェリーでの参加は、左側から早稲田OBの円城寺紘征さん、大阪府大OB末田 実さん、芝浦工大の松島伸一さん、早稲田の木村修司さん、明学の前田栄一郎さん、日体大の塩見芳信さんです。

 そこで、1967年アマースフォート世界選手権エントリーを前にして、双方で話し合いがもたれます。大会のエントリー枠は8名。全日本アーチェリー連盟は独自に選考会を行い6名の選手を選び、その後全日本弓道連盟の代表3名を加えて最終選考会が行われました。その結果、合計7名の日本代表が派遣されることになります。和弓でのトップ1名とアーチェリーからの6名です。
日本が初めて世界選手権に参加したのは1961年オスロ大会。そして1963年ヘルシンキ大会にも選手を送り、1965年ベステルオース大会は不参加ですが、今回の1名を除けば、すべて洋弓の選手で、和弓での参加はこれが初めてでした。

手製のサイトはあまり成果がなく、試合途中で外したとのこと。
射ち方や技術面においては、まったく変えることなく和弓のままで挑まれた。

そして歴史に残る写真となるのです。日本代表7名中、唯一「和弓」で参加したのは、宮田純治 選手です。当初、全日本弓道連盟は、より多くの和弓選手の参加を望んだようですが、結局は1名の参加となります。そして結果は男子個人129名参加中、129位の最下位でした。この和弓惨敗と国内のアーチェリー人口拡大を背景に、1968年に全日本弓道連盟は、FITA加盟権を全日本アーチェリー連盟に譲渡することを正式決定。翌1969年にFITAは全日本アーチェリー連盟を日本におけるアーチェリーの統括組織とし、正式加盟を認め現在に至るのです。
 
最初から、連盟も和弓がアーチェリーに勝つとは、本気で考えてはいませんでしたが、この結果を見て初めて、和弓とアーチェリーは、まったく異質なものであることを悟ったのです。宮田選手もアーチェリーのルールで、和弓がそのまま通用するとは考えていませんでした。

        90m    70m   50m   30m     Total
129 J.Miyata    78/129  128/129  194/128  229/129  629/129
 Japan     135/121  191/124  148/129  254/126  728/129
        213/128  319/129  342/129  483/129    1357

 しかし、素晴らしい成績だとは思いませんか。
例えば、3日目の90m「135点」121位。強風の中、和弓で矢が90mを飛んで的中していたことも驚異ですが、135点もの得点を得たこと自体、驚きです。8人を抜いていることや、優勝のレイ・ロジャースが237点であることからも、この点数の凄さがわかります。
実は、宮田選手は和弓の技術や射法はそのままに、研究を重ね、この大会では和弓にFRPを貼り合わせ、自作のサイトを取り付け、矢はアルミ矢を使い、羽根にはプラバネを考案するなど、さまざまな道具を試行錯誤し、使っているのです。これは当時では革命的であり、言葉としては正しくないかもしれませんが、弓道としてはあるまじき行為でした。
しかし、これが弓道に新しい道を拓きます。これらの多くは、今の和弓では当たり前の道具として使われています。宮田選手は当時、和弓の弓や矢を作る職人だけでなく、弓や矢の材料も減ってきている状況と将来に危機を感じ、大会の参加を決断したようです。
そのお陰もあって、日本のアーチェリーでは、今でもフォームや道具に多くの和弓の呼称が使われ、初心者指導やレベルアップにおいても、多くの和弓の技術や心が受け継がれていることを、忘れてはなりません。

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