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バーガーボタン

「種も仕掛けもない魔法の板」を発明したのは、誰だか知りませんが、「種も仕掛けもある魔法のボタン」を発明したのは、誰だかわかります。それは、ホワイトナイトこと、ビクター・バーガーです。

White Knight

1960年代後半から長い間、それが「バーガーボタン」と呼ばれたのは、彼の名前から付いたもので、後に「クッションプランジャー」と呼ばれるようになります。
バーガーボタンは、アイオワ州のアーチャーでショップを経営するノーム・ピントが発明したともいわれますが、その後多くのアーチャーが普通に使用できるように改良し、最も多くを販売したのはビクター・バーガーです。名前の由来と併せて彼が発明したと言っても、間違いはありません。2人はともに PAA (Professional Archery Associasion) の選手でしたが、ビクター・バーガーは、アウトドア1967、69、70年、インドア1984年のチャンピオンで、ビル・べドナーと並ぶ伝説のアーチャーです。

バーガーボタンが一般に使われるようになるのは、ハンドルが金属に変わる1973年から1975年頃ですが、今も昔も基本的な構造も機能も変わっていません。スプリングによるピストン構造で、矢の中心点に接するのはテフロンチップが一般的でした。
バーガーボタンが今も生き残っているのは、その出し入れで矢のセンターショットを調整できることと、スプリングの硬さを変えることで発射時の矢の向きを変えることができることです。これによってアーチャーは矢のサイズを変えることなく、スパインの調整ができるようになりました。スパインがあっていないシャフトでも、矢をきれいに飛ばすことができるのです。これは画期的な大発明です。

ではバーガーボタンが一般に使われるようになる前は、アーチャーは何を使っていたのか。レストを直接弓に貼り付けていたのですが、そんな時の大発明が、Hoytの木製ワンピースボウに標準装備されていた「Adjustable Micro-Rest」です。パテントの図を見れば思い出すでしょう。ヤマハもこれを真似ていました。
レストを出し入れすることで、プランジャーチップを出し入れするのと同じように、センターショットの調整ができたのです。これはホイットおじさんの画期的な発明でした。

ヤマハも YG の頃から標準装備していました。

ここで考えてもらいたいのですが、クッションプランジャーが発明されるまでは、矢の出し入れの調整はあっても、硬さの調整はなかったのです。逆に言えば、限度はありますが適切なスパインの矢が選ばれているなら、クッションプランジャーはガチガチでも出し入れで調整が可能だったということです。ということは調整の時は、硬い方から徐々に柔らかく調整していけば、矢がきれいに飛ぶ硬さが早く見つかるかもしれません。

個人的にバーガーボタンを使いだしたのは、1974年にHoyt TD2を手に入れた時からですが、この時もまだ「Adjustable Micro-Rest」が装備されていて、ブッシングを交換しました。
バーガーボタンはアルミ製で、可動する軸は真鍮製でした。ところが今でも覚えていますが、雨の試合の翌日、さび付いて動かなくなっているのです。そんな頃から日本のメーカーもフィストメルゲージだけでなく、サイトやクッションプランジャーを作り出すようになりました。それも、流石「日本製」と言われるような製品です。
そして、多くのクッションプランジャーを使ってきましたが、これに求められる最も重要な性能は「スムーズさ」です。射っているだけでは分かりずらいのですが、雨はもちろん、温度や湿度、ホコリに対しても、いつも同じように滑らかに動くことです。そしてそれに使いやすさと正確さを加えると、長く愛用している「Beiter」がお勧めです。少し高いですが、元は取れます。

Beiter Plunger PL6523.0

ビクター・バーガーも2016年に亡くなったようですが、一度だけ同じシューティングラインをまたいだことがあります。1984年のラスベガス・シュートです。その時もカッコイイ白い騎士でした。

1984 Las Vegas Shoot

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