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EASTONの焦りと誤算

2023年12月4日、ジム・イーストンが亡くなりました。父、ダグ・イーストンに続いての 、EASTON社2代目のオーナーでした。1989年から2005年までWA(世界アーチェリー連盟)の会長を務め、マッチ形式の導入や連盟初の専門オフィスの設立など、アーチェリーの近代化を長年にわたり実現してきました。また、1994年にはIOCの委員に就任、2015年まで在籍し名誉委員となり、アーチェリー競技をオリンピックに残すことにも尽力し、多くの慈善活動も行ってきました。それらの功績と努力に対し、深く哀悼の意を捧げます。

いつかは忘れましたが、まだEASTONがソルトレイクに引っ越す前に、ロサンゼルスのプールのある自宅に遊びに行ったことがあります。そのころはまだジムではなく、彼の父親ダグ・イーストンを知るアーチャーの方が多かった時代です。
そこであえて言わせてもらいます。アメリカ国内において、ジム・イーストンのアーチェリーに対する功績とは別に、ビジネスとしての彼のやり方に反発を抱くアーチャーは多くいたと思います。それは弓業界参入のための Hoytの買収や、EASTON が初めて後塵を拝したカーボンアローでの出遅れの時のBeman の買収、そしてわれわれが通信販売でEASTON 製品を購入できない、法律すれすれのビジネス手法に代表される彼のやり方です。それも彼が創り、築いたEASTONではなく、彼のお父さんダグ・イーストンが築いた名声と財産を利用して行ってきたことに対しての反発です。
ダグ・イーストンはホイットおじさんやフレッド・ベアと並ぶレジェンドで、アメリカでは別格の存在です。アーチェリーの世界で彼らは、心から愛され、尊敬される存在なのです。

ダグが特注の木製弓と杉材の矢の製作を始めて
100年が経ちました。

1922年 、ダグ・イーストンはカリフォルニア州ワトソンヴィルで、アーチャーからの要望に応えて、杉の木で競技用の矢を作り始めました。しかし、ウッドシャフトの均一性の欠如に不満を感じ、真っ直ぐで均一なシャフトを木材から製造することは不可能だと確信し、アルミニウムに注目します。そして1932年には、ロサンゼルスに Easton's Archery Shop をオープンし、1939年にアルミニウム製シャフトの製造を始めます。その矢は、1941年に全米選手権を制することで注目を集め、アルミシャフトの人気は、急速に拡大します。1945年、最初に商標登録されたアルミシャフト「24SRT-X」は競技成績を飛躍的に向上させ、その後10年以上かけて、「XX75」は世界で最も売れたシャフトになりました。そして1953年に Jas. D. Easton, Inc. が設立されます。
1965年には社外にいたジムが入社。ダグはあまり賛成ではありませんでしたが、1969年にはアルミ製野球バットやテニスラケット、テントフレームの分野に進出し、事業を大きく拡大します。そして、1972年にダグが死去の後、ジムが社長に就任し事業を引き継ぎます。
そんな中、アーチェリー部門はリカーブとコンパウンドを統括したHoyt Archery社とEaston Technical Products社の2つで構成され、Jas. D. Easton, Inc. から独立した家族経営の会社で運営されます。そしてジム・イーストンが病に倒れた後、2002年に息子のグレッグは Jas. D. Easton, Inc. 3代目社長に就任しました。しかしグレッグは2020年に、アーロン・ラッキーをEaston Technical Productsの新社長に任命し、2022年には個人的な理由と職業上の理由から、WAの役職を辞任しています。

マグネシュームダイキャスト TD2 の金型を使った、
ホイット最初のコンパウンドボウ

ジム・イーストンは、1983年にホイットおじさんの「Hoyt」を買収します。これによってEASTONは、アーチェリーの世界で弓と矢を独占することになります。しかし、EASTONは矢においては世界最高峰の独占企業でしたが、弓においてはまったくの素人です。それにHoyt はリカーブボウのメーカーで、コンパウンドのノウハウは持っていません。
にもかかわらず、EASTON が Hoyt を買収した目的は、「HOYT」ブランドによる巨大コンパウンド市場への参入だったのです。そのために、ダグ・イーストンと同じレジェンドの名前が欲しかったのです。

HOYT の名前を手に入れたEASTONは、新たにコンパウンドの開発を進める一方で、オリンピックそして世界戦略のためにヤマハは不可欠であり、ヤマハとの戦いに負けるわけにはいきません。しかしヤマハは、1985年にEXにダブルアジャスト機構を搭載した「EX-α」を、1987年には、鍛造ハンドルの「Eolla」を発売します。それに対しHOYTは「GM」のクレーム対応が長引き、新モデルの投入ができない中、苦戦を強いられます。原因は「ダイキャスト製法」です。この製法の最大の特長は、均一な製品を大量生産できることです。しかし、金型の製作に多額の費用が掛かるため、右用だけでなく、左用、そしてサイズ違いがあれば、よほどの販売量が見込めない限り、価格は下がりません。それに、クレーム対策で形状変更が加われば、金型の修正は簡単ではなく、そこでも多くの費用が掛かります。 
そんな時、世の中に「NCマシン」なる機械が登場します。いったん入力されたデータを修正すれば、形状変更によるマイナーチェンジやモデルチェンジまでもが簡単にできる、多品種少量生産向きの製法です。そこでEASTONは、他のコンパウンドメーカーがそうであるように「アルミNC」ハンドルを導入し、コンパウンドだけでなくリカーブハンドルにも使うことを進めます。そしてやっと1990年代に入り、「GM」に変わる世界初のアルミNC製法によるリカーブハンドル「Radian」を発売するのです。しかしコンパウンドと違って、アルミによる重量化やホイットおじさんの不在で、HOYTの巻き返しは思うようには、進みませんでした。

そこでEASTONが考え出したのが、ヤマハに対抗する「世界連合」です。それまで、異なるメーカー間のハンドルとリムの接合方法に「互換性」はありませんでした。ところが、EASTONはアルミNCハンドルの接合方法の特許をオープンにしたのです。これはひとつの賭けですが、HOYTはリカーブボウにおいて、そこまで追い詰められていました。
しかしその時、EASTONも望まなかった予期せぬ出来事が起こります。2002年2月1日、ヤマハがアーチェリーから完全撤退することを発表したのです。それは社内に知らされたのも前日という、突然の発表でした。
ここから韓国メーカーが、互換性のあるハンドルとリムを低価格で製造、一気にリカーブ市場になだれ込んで来たのです。しかし、ヤマハ亡き後、EASTONはそれをコントロールすることを黙認しました。
ホイットおじさんと源一さんが築いてきた「世界標準」が消え失せた瞬間でもありました。

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