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正射必中

雑誌の表紙のことを「表1」と呼びます。表紙の裏側が「表2」で、一番後ろの裏表紙が「表4」で、そこに載っている広告が「表4広告」と呼びます。一般には一番高額な広告スペースです。
20世紀にアーチェリーをしていた人は、当然覚えているでしょう。「雑誌アーチェリー」創刊以来ほぼ30年、この表4広告をずっとヤマハ(日本楽器製造)がとっていたのです。ヤマハにすればプライドであり、雑誌社にすれば年間契約は大きな安定収入源であり、上得意様です。それを思うと1995年頃から、一時期ではありますが、初めてヤマハ以外のメーカーがこのページにカラー広告を載せる号が登場します。今考えれば、あれがヤマハのアーチェリー撤退への伏線だったのです。

それはさておき、そんなヤマハの表4広告に思い出があるアーチャーも多いでしょう。今の広告のように単発や商品を意味不明にアピールをするのではなく、ヤマハは年間で企画を立てて広告展開をしていました。そんな広告の企画や撮影に一時期立ちあったのですが、その中でもお気に入りの広告があります。
この広告は、ヤマハのカタログを制作していた広告代理店といっしょに作ったものです。本来年間12回の企画を最初に出して進行するのですが、発刊以来「月刊」であった雑誌が、ちょうどこの時「隔月刊」に変わりました。そして新商品が出たこともあり、この時だけイレギュラーな8回の企画モノになっています。
そして初めて「和弓」を扱うということで、企画段階からいろいろ議論があったのですが、結果、和弓とアーチェリーの精神、心の融合をテーマにすることが決まりました。しかしヘッドコピーが重要です。それによって、使う写真やレイアウトが決まるということになります。そこで、このコピーを決めるにあたって、南大塚にあるアサヒ弓具工業の今は亡き小沼英治さんにご指導をいただいた経緯があります。小沼さんは日置流雪荷派15代宗家であったと同時に、ヤマハの川上源一さんと共に日本にアーチェリーを広められたひとりです。
お陰で他の企画とは一味違った、薀蓄のある味わいの広告になったと自負しています。和弓の先達の教えとアーチェリーの精神を、感じ取っていただければ幸いです。

盲射偶中、正射正中

1983年1月号

【モウシャグウチュウ、セイシャセイチュウ】 たとえ我流で的中させたとしても、それは偶然の重なりでしかなく単なる怪我の功名で長くは続かない。これが盲射偶中の意味。正射正中とは、教えにかなった正しい姿で射てば必ず的中し、この的中のみを正中と云う・・・厳しい弓の道。つきつめればアーチェリーも同じでは。偶然の重なりだけで、1400点時代がやって来ないことだけは確かでしょう。

一間中墨、扇子の準

1983年3月号

【イッケンナカズミ、センスノカネ】 一間中墨とは、左右の爪先の間を三尺に踏むことで、扇子の準とは、その両爪先の方向を外八文字の形に置くこと。これが足の構えの基本形であるという教えです。そして、このカタチの中に「射手は一間という狭い中に住み、周囲のことを忘れ、弓を引くことだけに集中せよ」というコンセントレーションへの極意が潜んでいるようです。カタチに精神をみる弓の道。スクエア、オープン、クローズ、あなたがどんなスタンスをとっても、スタンスの中に精神集中という柱を立てなければならないのと同じでは。先達の教えとアーチェリーの融合。


中連の身、又は中有の身。

1983年4月号

【チュウレンノミ、またはチュウユウノミ】 体構えのことを胴造りと云います。胴造りには五種あって、前・後・左・右に傾くのをそれぞれ屈・反・掛・退。最良の胴造りである真直を中と云い、特に「中連の身」と名付けて、射の時だけでなく日常生活の場から常に正しい姿勢を求める態度を忘れぬよう教えています。また「中連の身」は、澄みきった静かな心と体が、ただちに事に応じ、自然のうちに動に移行できる「静中動」の姿勢であるとも説いています。自然体を求める弓の道。アーチェリーにも同じ意味を求める言葉がありますね。「リラックス」。ほんとうの意味でリラックスしたアーチャーは美しくシンプルな自然体が宿っているようです。


十文字の準

1983年7月号

【ジュウモンジノカネ】 美しさは、ムダを極限まで削り去った単純形を好むものです。そこにはまた、ロスのない驚くほどの集中力が潜んでいるものです。十文字。二本の軸が出会う姿の一基本形。教えが継がれる射形の中にも、この十文字が各ポイントの理想形として姿を見せています。弓をつがえた時は「弓と矢が十文字」。取掛けた時、「二の腕と弦が十文字」。きき手の「親指と弦が十文字」。「帯(腰)と胴が十文字」。引込んだ時、「顔と矢が十文字」。そして、離れの際の「左右の腕と胴が十文字」・・・タテとヨコの好ましい緊張感。集中力を宿す自然体のみがつくれる単純形。アーチェリーも、教えられるところがあるのでは。


無適の射、活然の射

1983年9月号

【ムテキノシャ、カツゼンノシャ】 アーチェリー動きの中でも、もっとも集中力の高まりを見せるのが、フルドローからリリースにかけて。伝統の教えでも、この”離れに至る一瞬の永遠”についての記述は深く、哲学的精彩さえ放っているといえます。「無適の射とは、本心を留めて発射せずに保つ事で、持満の業ともいう」「活然の射とは、水の止まる所なく自然に流れる如く発する事で、自満の業ともいう」「持満とは己が心で保ち、力を入れる所で未だ業に勤めている。自満とは自ら満つるのであって、持満の後に自満となるのが秀一の業である。」これをたとえて「柘榴の実が熟するのを待って自然に割れる如く」・・・と。いかがでしょうか。集中力の全てをアローに伝える教え、或は、全てのスポーツに通じるインパクトの極意。といえないでしょうか。


雨露の離れ

1983年11月

【ウロノハナレ】 射の教えの中でも”離れ”については最も記述のあるところ。その中でも最も的確に射の本意を伝えていると言われるのが、この美しい表現。蓮の葉にしずくが少しずつ溜まってゆく。そして、それが玉となってポ・・・トンと落ちて行く。この自然が見せるつかの間の現象(とき)の中に、達人たちは”離れ”に至る射の極意をみたのです。即ち、「ポ・・・」の部分は、本心を留めて発射せずに保つ”持満の業”の教えであり、「トン」の部分には自然に機が熟するのと同時に発する”自満の業”を見つけたのです。しかも、この二つの部分は、水が流れるように連続していなくてはなりません。さらに”自満の時”は、我知らずのうちに来るものであり、自満を意識してしまうと”離れ”は高慢で未熟な”離す”になってしまうと言います。アーチェリーの1400点時代も、まるで「雨露の離れ」のように自然にやって来るような気がしませんか。


残身磯付の舟

1984年1月号

【ザンシンイソヅキノフネ】 スポーツを経験すればするほど、フォロースルーの大切さが身に沁みます。終わりよければ全てよし。正しい道程のみが美しいフォロースルーを生むからでしょう。射の教えにおいても、残身の事と云い、離れた後の威儀の正しい余韻ある姿を尊びます。残身とは、残心とも残伸とも書き、身を残し、心を残し、伸びを残す様。あたかも、沖から舟を磯に着けるとき、磯ぎわ十間ばかり手前から、櫓を止めて、押しかけた勢いで程よく磯に着けるあの感覚。しっかりバランスを保ちながら、快い伸びがある。これが真の残身、フォロースルーの極意とでもいえるでしょうか。なにはともあれ正しい道程。


天然の射

1984年3月

【テンネンノシャ】 左手と右手のバランスさえあっていれば的の真ん中を射抜くことは難しくない。などと言いながら矢をつがえてみれば、何のことはなし、的に意識がいきすぎて形など崩れる一方。「矢は当てようとすると当たらない」といういささか禅問答的な教えが鋭く胸に突き刺さることになる次第。一体、練習によって積み重ねてきた技を正しく呼び出してくれる深い集中力はどこから生まれるのでしょうか。「迷心我意を去って天然の自性を悟り、たとえれば、水鏡中に月影の映ずるが如き無念無想の境界」。これまた禅問答のようですが、つまり、失敗の恐れや不安を意識下に捨て、力みのない静かな興奮で弓を引く天然の射。結局、リラックス。結局、自分の技量に自信を持つための練習の積み重ね。そして、その時、「晴れ(試合)を常(練習)、常を晴れと思え」の教えが大いに役立つことでしょう。


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