与えればいいってもんじゃない!
世界中どこに行っても尊ばれること、それは「与える」ということ。与えられるものは限りなくある。愛、勇気、希望、機会、信頼など、まだまだたくさんある。
それらはどれも人を幸せにするもの。それを自分にはもちろん、他者にも与えることでこの世界は豊かになる。しかし、無限に与えればよいのか?与え尽くせばみんな幸せになれるのか?
おそらく答えはノーだと思う。
なぜなら、「与える」ということは「受け取る」が必ずセットで成り立つものだから。
まず、与えられた側が必ずそれを受け取るかどうか?
それこそまさに課題の分離というやつで、こちらのコントロール下にはない。そこには人それぞれの抱えるグチャグチャしたものがある。絵の具を何色も混ぜて、こねくり回した、何色とも言えぬ色で塗りつぶされているものが。
その混沌としたグチャグチャのパレットに、こちらが何色を足せばその人の好む「しあわせ色」になるのか?そんなことを考えること自体には価値がない。
そして、与える側にも色がある。どちらもお互いが好きな色で自分を、自分の人生を彩りたい。この色が絶対に「しあわせ色」と思っている。その自分がどれだけ”あなたにはこの色がいいですね!”と推したところで、それが相手の「しあわせ色」になるかどうかはわからないのだ。
それなのに、たくさん学び、たくさん経験していくと、これが○、あれは✖️と強く信じるものが作られていき、やがてそれは揺るぎないものになっていく。それがいわゆる「信念」というやつ。
おそらくこれも万国共通、好意的に受け止められるもの。人が生きる上で携えておくべきものと考えられているような気もするが、実はこいつがとんだ曲者。むしろ、信念が人の成長を阻んでいると言っても過言ではない。
人それぞれの人生に正解はないのだ。すべての選択は個人に委ねられている。誰に言われなくても世界中のすべての人は自分で歩む道を決めている。
ただ、道の途中で迷子になったり、分かれ道でどちらへ進むかを悩む人はいる。進みたいのにどこかが痛くて歩けず、立ち止まる人もいる。そんな人が訪ねて来られ場を設え、お話を伺うことを生業とする者としていま、心がけていることはただひとつ。
望まれたものを与えるということ。
ここまでは教えるけど、ここから先はまだ早いとか、何でもかんでも与えたらその人のためにならないとか、そこに理屈は要らない。プロ意識みたいなものがつい顔を出し、物申したくなったとしてもそれはまったく必要ない。なぜなら、それは自分の信念だから。
信念って、ものすごく尊いものに思う人もいるけれど、読んで字のごとく、ただ信じていること。自分が長い時間かけて信じ込んできたもの。それで他者を測るのは、自分が絶対的基準であると言っているようなもの。それで本当に大丈夫だろうか?
なかなか空恐ろしいことではないだろうか?昔よりいくらか世界を太極的に捉えられるようになった今、私には自分の信念を押しつけることで生じる負のモノを無視するわけにはいかない。
ただ、誤解なきように。与えることは全人類が為すべきこと。そして、忘れてはならないのは、同じくらい受け取ること。遠慮や謙遜は要らない。それは、与えられることへの感謝がないということ。感謝のない人にしあわせは訪れないから。
みんなでもっともっと、しあわせになろうね^^