第一  皇室及び公式の場合の心得

 皇室に対し奉る心得  我が国は建国以来万世一系の皇統を戴いているだけ、皇室に対し奉る礼儀は、心からの尊敬の念をもってして、いやしくも不敬のことがあってはならぬ。    

 「敬称」  天皇、太皇太后、皇太后、皇后に対して奉っては陛下、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、王、王妃、女王、王族に対し奉っては殿下と申し上げる。(皇子より皇玄孫に至るまで、男を親王、女を内親王と申す。また、五世孫以下は、男は王、女は女王と申す)    

 「御肖像取り扱いに関する心得」  

  御肖像取扱に関しては、明治三十年十二月内務省諭告として、次の四箇条が発せられているから、いやしくもそれに悖るような行為があってはならぬ。  

  第一、天皇皇族の御肖像はその尊号御称号を標語しあると否とを問わず御肖像としての外写出すべからず  

  第二、御肖像は全て粗造に流れ不敬に渉るべからず  

  第三、御肖像は不敬に渉るべき場所に掲げ又は陳列すべからず 

  第四、御肖像は露天において発売頒布すべからず  

  ここに言う天皇とは、至尊陛下を始め、歴代天皇をも指称するのである。    

「菊花御紋章に関する心得」  

  菊花御紋章に関する取締は、明治元年及び同四年の太政官布告に基くもので、皇族のほか全く菊花御紋章並びにこれに類似の図形を用いることは出来ないことになっている。

  ただ実際においては御肖像、詔書、勅語、御製、御系譜、御陵図等の如きものには、尊敬を失わない範囲において、黙許されているようである。又桐葉御紋章に付いては、別に規定はないから、描写しても差し支えない。      

 「参朝の礼」  

  参朝と言っても、拝賀と参賀との区別がある。拝賀とは拝謁を賜る場合で、勅任官以上の者に許されるもの。参賀とはただ署名して退朝するもので、勲八等以上の勲位をもっている者に許されるものである。

  拝謁を仰せつけられるは日本臣民として無上の光栄を担うものであるから、まず心身を清め、一定の礼装をなし、定時よりも幾分早目に参入して、溜まりの間に赴き、係官の指揮を待って順次拝義の場所に進むのである。    

 「服装」  

  服装は男子の文官は大礼服、武官は正装、その他制服あるものは制服、無きものは燕尾服を用いるのである。但し、フロックコートで差し支えないこともある。

  女子は袿袴(うちかけ、はかま)を原則とするが、又ローブ・デコルテ、場合によってはローブ・モンタントで差し支えないこともある。

 「拝礼」  

  御間の外に達し、玉座に面した時、先ず敬礼をし、御間に入りて直ちに敬礼をして後、静かに進んで玉座から約六歩の所に至って最敬礼を行う。最敬礼を終えれば、玉座に面したまま退歩し、御間の出口で最敬礼をなし、なお退歩して御間の外に至り、玉座に面して再び敬礼を行うのである。最敬礼は玉座に面して直立し、両足を整え、両手を身体の両側に垂れ両脇に密着させて、玉座に注目して身体の上部を約四十五度位前に傾け、おもむろに戻す。

  もし帽子のある時は、右手で帽子の前庇を摘み、これを垂直に提げて、帽子の内部を右股につけて行うのである。  

  女史は洋装の時は帽子をとる必要はない。そして西洋礼式の如く左足を折って、膝が床上に達した時に拝する人もある。    

 「陪宴の心得」  

  陪宴を賜った時は、定時より少し前に溜所に至り、係員の案内を待って食堂に入り、御臨御の時は最敬礼をして御着席を待ち奉る。陛下食をきこし召すに至って、初めて一同も食事をする。

  食事終わって御退出の時は、再び最敬礼をなして送り奉り、御影の見えなくなった時退出するのである。この間終始静粛を旨とし、全ての挙動が、尊貴の御目障り御耳障りにならぬよう注意せねばならぬ。

 「観桜・観菊の御宴」  

  服装は男子は礼装、女子は通常礼服(ヴィジッング・ドレス=Visiting Dress)又は袿袴であるが、大正十一年に男はフロックコート、女は白襟紋付きで差し支えないことになった。付属品は靴(黒)、手袋(革製茶色又は鼠色)、ネクタイ(黒、形は長短いずれにてもよい)。  観桜、観菊は、同じ陪宴でも宮中より幾分寛ぎはあるが、特に態度の崩れる如きことがあってはならぬ。   

 大祭日(天長節、天長祝日、紀元節、地久節)      

  「天長節」  天皇御降誕の佳辰であることは言うまでもないが、今上天皇の天長節は丁度八月三十一日の大暑中に当たらせられるので、更に十月三十一日をもって天長祝日と定められた。

 この日宮中においては、賢所、皇霊殿、神殿の御祭典があり、陛下には大元帥として、青山練兵場に臨んで観兵式を行わせられ、皇族以下群臣に御陪観を許される。還幸後は豊明殿でほ宴(天子が臣下人民に許可した宴会。「ほ」は、酉偏に甫)が行われる。

 当日の服装は、男子文官は大礼服、武官は正装、その他制服なきものは燕尾服である。女史は袿袴又はローブ・デコルテ(腕の出たるもの)を用いる。    

  「紀元節」  皇祖神武天皇御即位の日で、明治六年に定められ、翌七年に二月十一日をもって当日と定められた。常日天皇陛下は、皇霊殿に御拝あり、ついで皇后陛下、皇太子殿下その他皇族、太官、華族の御拝を受けさせられ、大和の橿原神宮に勅使を遣わされる。 

  「地久節」  皇后陛下御降誕の佳辰で、天長節の如き参賀は行わせられないが、奏任官(文官では各省の書記官、帝国大学助教授など。武官では佐官、尉官)以上の者は参内出来る。

  この時の服装は、男子宮内官は省礼服、文官は燕尾服、武官は正装、女子は中礼服と定められてある。 三大節には、高等官以上の文武官、非役の有位者、帯勲者、華族、貴衆両議員の在京者は宮中に参賀し、地方にあるものは賀表を式部職に差し出すのである。    

  「新年の礼儀」  新年の御儀式は、すべて神事を本体とせられるのであって、歳旦祭は午前五時四十五分頃から行わせられ、天皇皇后両陛下の出御はなく、侍従長が御大拝申し上げ、ただ宮内官総代、親、勅、奏任官の総代係官のみで行わせられる。    

  「四方拝」   四方拝は歳旦祭に引き続き行わせられ、天皇陛下御自ら出御になり、神喜殿の南庭において、天下太平、万民安寧を天神地祇に祈願し給うのである。

 式後晴の御膳を御召しになり、後ち皇族、文武百官、貴衆両議員、神宮、寺院の有資格者の拝賀をうけさせられるのである。    

  「新年宴会」  正月五日、内外の群臣を召され新年の祝賀を受けさせられ、料理を賜る。この時召さるるものは、皇族宮殿下を始め無慮二千人の多数であるとの事である。服装は正装、大礼服である。  

  「外賓に対する場合」  外国よりの来賓は、時として国賓として国民一般に取り持たねばならぬ場合がある。かような場合はそれぞれ定められたる人々が歓待するは勿論、一般の人々も心からの歓迎を表さねばならぬ。その他如何なる賓客に対しても、いささかも、不快の念を起こさせ、我が国に対して悪印象をのこさせるが如きことがあってはならぬ。  

  波止場、停車場等において外賓の出迎えをなすには、一定の場所において来着を待ち、来着したならば順次挨拶をする。かかる場合の談話は極めて簡単に、先方の国語が出来れば、その国の言葉で、出来なければ先方に通じぬまでも自国語で歓迎の辞を述べるがよい。  

  服装は男子は礼服を用いるが、女子は振袖、小紋位で、鄭重にしても対無垢又は変わり裏の紋付きでよろしい。  

  また外賓に対しては、よく花束を送るが、かかる場合は生花の花束がよい。造花も用いることがあるが、これは旅館等に着いた後がよい。白色のみの束や、花輪は決して斯様な場合には用いぬ。  

  外賓の見送りは、迎える時と大差はないが、すべて迎える時よりも、一層友情の現れるようにしたい。もし贈りたいものがあらば、船中、車中に届けるがよい。   

  国旗に就いて  我が国旗が制定せられたのは、明治二年正月二十七日である。日章の国旗は、我が大日本帝国を代表する徽章であるから、我が国民たるものは、誠心誠意これを愛護敬重しなければならない。即ち国家の大祭日、祝日は勿論、皇室国家に慶事凶事のあった時には、本国にあると、外国にあるとを問わず、この国旗を掲げて慶弔を表すべきである。

  我が国の国旗と外国の国旗とを同時に掲揚する場合は向かって右に我が国旗を掲げるのである。また御大喪中には、竿、球を黒布で覆い、旗竿の上部にも黒布を付けねばならぬ。  

  半旗 ー 公使館又は軍艦など、平素は旗を以て儀式に用いる所では、半旗と言って、旗竿の中程に国旗を掲げることがある。これは自国たると外国たるとを問わず、一般に弔悼の意を表するため、喪礼として掲げるものである。  

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