第一 知らねばならぬ日常礼法、公式儀式

礼の本旨  

 礼とは心に起こった恭敬の念が、外に現れたものであるから、およそこの世に社会生活を営もうとする者にとっては、何時如何なる時、如何なる場所でも、必ずこれと離れることの出来ないものである。    

「作法の根本」  

 作法と言えば直ぐに小笠原流、伊勢流の堅苦しいのを思い出すのが我が国民である。そしてこれを形式と言い、因習と言って敬遠したがるのが当今である。しかしこれにも一面の理由がある。

 礼とは前に述べた如くもともと心のものであって、形のものでない。つまり心の内にある敬虔の念を、形の上に現したものが作法であるから、如何に形ばかり堅苦しく畏まっても、心に他を敬する念がなければ、それは形だけの礼であって、真の礼でない。魂のない一片の形式の抜け殻に過ぎない。

 これは全く形式に囚われ過ぎて、礼の根本を忘れ、真の礼を殺してしまった我が国民の罪である。礼には常に生命があり、生長がなければならない。新時代には、新時代の生命の籠もった礼儀が生まれなければならないのである。    

「新時代の礼儀」  

 礼儀作法の根本の精神は、前に述べた如く全く同一であるが、形の上の現れでは、国により、時代により、或いは流派によって異なることはやむを得ない。しかも礼と言うものが対人的なものであれば、全くこれを無視することが出来ない。

 封建時代はいざ知らず、今日のように万国交通の世の中に、握手の為に外国婦人が手を授けた場合、遠慮が礼儀とばかり、躊躇してみたり、あるいは汚らわしいと無視したりしたらどうだろうか。ここにおいて新しい礼儀作法も自ずから起こって来る訳で、これには常に時代を理解し、新しい風習を知らねばならない。

 以後各章に渉ってこれに就いて述べるが、要は心に起こった敬虔の念が、自ずから言語と動作を動かしたもので、殊更めいた挙動でなく、自然的にしかもその時に相応した処置をとらねばならない。殊に新しい礼儀としてこの際特に掲げて置きたいのは、次の三つの事柄に就いてである。   

 一、公衆の道徳   

 一、時間の励行   

 一、無用の遠慮  

 この三つの事柄は、共に我々の遺憾とするところで、公衆の道徳の如きは随分喧しく言われているが、未だに汽車、電車の乗降、道路の通行、公園内の所行等を見ると、全く慨嘆に堪えないところのものがある。

 時間の励行に至っては、全く恥ずかしい位で、自他の迷惑ばかりか、礼を失するの甚だしいものである。次に無用の遠慮に就いては、これをもって未だ礼と心得ているものさえあるが、これは全く形式に堕した虚礼の遺風で、自他の手数を要するばかりでなく、外国人等に対してはかえって礼を失することがしばしばある。  

 以上は我々が深く誡めて、必ず改めて行きたいところのものである。  

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