フェイスシールドだと顔芸できません

コマーシャルの撮影があり都内のロケ場所に到着するやいなや制作部からフェイスシールドが支給された。自粛期間中に緊急病棟の報道番組などで目にしたアレである。

スタジオ玄関には白衣の看護師が自動検温マシンと共に鎮座する厳戒態勢のなかでの撮影。カメラを抱え三脚に据える撮影助手も照度を測る照明技師も顔の前にプラスチックのシートを垂らしながらの現場に事態の異常さを感じずにはいられない。スタンドインとして準備中に演者の代わりにカメラ前に立つ若手スタッフの顔にも大きなマスクがあり顔への光のあたり具合などを確認するための筈が全くその役目を成しておらず、かと言ってクライアントワークの手前ルールを破って脱マスクを強いるわけにもいかない。望遠レンズを使って演者とカメラの距離を離し2メートル以上のディスタンスを確保出来るようなロケ場所であれば良かったのだが自分が暮らしのリアリティある画にこだわったが為にこれまで経験した中でも3本の指に入る程狭いアパート内での撮影である。うーむ。しかしそこは百戦錬磨の技術スタッフたち。マスクからチラリと見える鼻筋とおでこに当たる光で照明やカメラワークを調整し終え淡々と撮影本番に向けての段をこなしていく。先達から脈々と続く撮影技術を荒業をもって伝承されてきたプロ中のプロの技はポッと出のウイルスなんぞにはこれっぽっちも揺るがぬものかと感心しているうちに自分の中の浮き足立つ心持ちもようやく収まり平常心で現場に向き合えるようになってくる。目の前に垂れるプラスチック板で視界がいまいちクリアにはならないけれど遠視が少し進んだと思えばどうって事もない。演者のヘアメイクが整う頃には普段通りの気持ちでカメラ横に立てている自分に気づいたりもしながらいよいよ本番の時間。子役の女の子がカメラ前で制作部と立ち位置を確認している。それが済めば今度は監督がお芝居の際のセリフの感情や目線の方向を指示する。演者がうなずき決まり位置に入った瞬間にカメラは回りだしカチンコが打たれスタートの声をかける。これが映像撮影の美しく洗練された様式な筈だ。なのであるがその日は何故か演者の子役がなかなか集中出来ずにカメラを回せない。子供の撮影は少なからず経験も積んでいる自負があり幼児を被写体にする際にありがちなのっぴきならない事態を乗り越えた事も一度や二度ではない。経験の引き出しを開けまくって言葉を取り出し語気を変化させあの手この手でイメージしている芝居を引き出そうとするのだが演者の子役は全く僕の話しを聞いていないのだ。数週間前のオーディションの時はそんな事は無かった筈である。巨匠の映画監督とは違い一介の商業映像監督に与えられた持ち時間は極々限られている。おまけにこのロケ現場を終えたら速やかに別スタジオに移動しそこでまた十数カットを本日中に撮りきらねばならないのだが。崖っぷちの状況にパニックになりそうな気持ちをなんとか抑えながら子供が言う事を聞いてくれない理由を考えた。そして気がついた。今僕はマスクとフェイスシールドをしている。そのままの姿で子供と向き合っていくら笑顔でなだめすかそうが語気を強めようが子供には全く僕の表情が見えていなかったのだ。おそらく音声情報として指示の内容を認識してはいたのだろうが情報だけでは人は動かぬ。言葉と言葉の間からこぼれる表情や感情が人の気持ちを動かし行動を促す。二十年近く前に見たコマーシャルディレクターの巨人中島信也監督ご自身の豊かな表情による演出方法に学びを得て以来これまでそれに習って演者やスタッフにシーンの意味を伝えてきたしもはやそれしか僕には撮影の現場で持てる武器は無いのだ。うーむ。フェイスシールドとマスクで顔芸を取り上げられた映像監督はこれからどう戦うべきなのだろうか。

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