バックパック買って最初の宿を見つけるまで

思えばはじめからとんちんかんな出だしだったのだが宿に辿り着くまでの事は今もハッキリ覚えている。

海外に最初に行ったのは19歳の時。入学直前に父を亡くしていたこともあり、大学の生活課で紹介されたいくつかの奨学金の審査にことごとくパスした。家賃や画材など当面の学生生活に必要な金額を差し引いて、それでも人生で初めて20万円程のまとまった金が自由に使える事がわかった僕は、かねてから構想していた一人旅というものを試す時が来たと悟った。勿論ネタもとは沢木耕太郎「深夜特急」。その時はインターネットなどという言葉すら無く、「地球の歩き方」の存在さえ知らなかった僕は、まず深夜特急に書かれていたバックパックとやらを当時住んでいた所沢駅前の丸井に買いに行った。そしてその足で近くのJTBに飛び込んだ。旅といえばJTBしか思いつかなかったし。今でこそ格安航空券やLCCなんかが当たり前になっているが、後で調べてみるとその当時はようやくHISがフィックスチケットを安価で売りはじめたくらいの頃で、そんな情報も武蔵野の果てにはまだ届く以前だったので、僕はなんの疑いもなくJTBの窓口で勧められるがままに、成田→上海-北京→成田のJAL便チケットを16万円払って購入した。あの有名なJTBの窓口のお姉さんが爽やかな笑顔でオススメしてくれるチケットになんの間違いがあろうものか。疑う事もなく持ち帰ったチケットには「ビジネスクラス」と書いてある。ああ、そういえば窓口のお姉さんが爽やかに「ほんの少しのお値段の差で驚くくらい食事が美味しくてお得ですよ」とかなんとか言ってたっけ。得した気分でフライト当日を迎え、優先搭乗からの、機内前方ゆったりシートへのご案内。飴や雑誌も食べ放題読み放題。得した気分は続く続く。流石JTBのお姉さんのお勧めだ。機が離陸し、お待ちかねの食事タイムとその前にはドリンクリストが配られる。シーバスリーガルやオールドパーなんていう大人っぽいお酒の名前が並び、しかもそれらはタダで飲み放題。その事を教えてくれた隣の席のおじさんは、なにかの会社を経営しているそうで、僕は一介の貧乏学生で初めての海外旅行だと言うと、少し不思議な顔で僕を見た後に、では和平飯店の何階にあるバーに行ってみろとか、頤和園のそばにあるなんとかって店で点心を食べろとか、いかにも通な感じでお勧めの場所を教えてくれる。JTBのお姉さんのお勧めしてくれた旅は僕をどこまで得した気分にさせれば気が済むのだろう。ほんの数時間のフライトを満喫し、上海に上陸。社長のおじさんに習った通りに空港でタクシーを拾い市街地へ。夕方になってきたので先ずは市街地のホテルのフロントに部屋を求めるが、このあたりから雲行きはガラリとかわる。持参したガイドブックにあるホテルを探して訪れてもことごとくメイヨー(無いよ)の一言で追い払われてしまうのだ。はじめはまぁそんなこともあるだろうと大らかにかまえていたのだけれど、5軒6軒と断り続けられているうちに飛行機の中から続いていたいい気分はすっかり失せていた。反対にだんだん焦りがつのってくる。バンド沿いの由緒あるホテルであれば、つまり日本で言えばホテルオークラみたいなとこであれは流石に空いているであろう。仮に空いてなかったとしても、それまでの安宿のあしらいとは違い丁寧な対応で何か有用なアドバイスをくれるに違いない。そんな期待を抱き豪華な石造りのロビーにあるフロントへ向かうも結果はまたメイヨー。唯一違ったのはフロントのおばさんが拙い僕の英語を不機嫌そうにではあるが一応最後まで聞いてくれて筆談ノートに何か地名らしきものを書いてトラム乗り場の番号を教えてくれた事。頼るものはもうこのメモしか無かったのでとにかく通りに乗り場を探し行列に並びトラムに乗り込んだ。というより後ろから我先にと乗り込む人達に押し入れられた。ギュウギュウの車内でメモ帳を握りしめ降りるべき場所の名前を見落とさぬよう僕は必死で窓外を眺めていたように思う。おそらくその姿によほど悲壮感があったのであろう、近くに立っていた学校帰りと思しき小学生の女の子が流暢な英語で話しかけてくれた。そして僕の手にあったメモ帳に書かれていた地名を見るとすべてを理解した様子で外国の旅人が多く出入りしているホテルが集まる通りの名前をていねいに教えてくれ、しばらくした後トラムがその場所に到着したことを知らせてくれた。小さな救世主に最大限の感謝を伝えてトラムを降りたその場所は、上海の中心地からおそらく20分ほどしか走ってはいない筈だが先ほど見ていた景色とは全く違う街の様相である。小道が縦横に走り灯りのつきはじめた家々からは料理の香りが漂う。そして確かに道沿いにはホテルらしき看板がいくつか並んでいる。適当に目星をつけたひとつに飛び込むと、迎えてくれたおばさんがドミトリーのベッドならひとつだけ空きがあるという。以後幾度となく世話になった安宿のドミトリーというものも、その時にはなんのことかは理解していなかったのだが、とにかくもう今日は宿探しをしなくて済むのかと思えば、そこに泊まるという選択以外は考えられなかったように思う。案内された部屋に並んだ4つのベッドのうち3つには荷物が乗せられていたが人は誰もおらず、僕は空いたベッドに倒れ込むように横になる。疲れきってひと眠りしたいはずなのに今日起きた出来事が頭の中をぐるぐるしている。そして隣の部屋のテレビから大音量で聞こえてくる中国語の歌謡曲のメロディを30年近く経つ今も僕は歌う事が出来る。

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