価値相対主義と戦後日本憲法学を批判する
1 ケルゼンとラートブルッフ
ケルゼンというのは、日本以外でも、未だここまでの影響力があるのだろうか?価値相対主義に基づく民主主義というのは、ナチを経験した戦後ドイツでは、おそらく傍流ではないだろうか。英米系で法実証主義といえば、オースティン、ハートの流れがある。
60~70年代のアメリカで、リベラリズムに基づく正義論を展開したジョン・ロールズの論敵は「功利主義」であって、「価値相対主義」ではなかった。ユダヤ系のケルゼンはナチを逃れてアメリカに渡ったが、彼の主張はアメリカではあまり反響がなかった、と長尾龍一氏(ケルゼン研究家)が書いていた。
ケルゼンと同時代のラートブルッフは、同じく価値相対主義にたっていたが、ナチの台頭を目前にして、「価値相対的主義は寛容の原理だが、不寛容に対しても寛容ではない」として、自己の学説に修正を加えた。学者として、極めて誠実な態度だと思う。
これに対して、ケルゼンは、ナチの台頭を前に「(価値相対主義に基づく)民主主義は再生の希望を胸に船とともに沈む」と書きつつ、(ユダヤ系だったため)アメリカに亡命してしまった。現実より学問的一貫性を重んじた点で、ラートブルッフとは対照的だと思う。
2 宮沢俊義と尾高朝雄
ナチの時代を生き抜いたラートブルッフは、戦後自然法の復活を唱えた。自然法思想と天賦人権説に基づく憲法を持つ戦後日本は、ラートブルッフこそ出発点にすべきだったと思う。そうならなかったのは、宮沢俊義等、戦後をリードした憲法学者が既にケルゼンの影響を受けていてからだろうか?
宮沢俊義が尾高朝雄を相手にした「主権論争」は、「国体は変更した」という宮沢の一方的な勝利だった。それはいいのだが、主権=力の所在に拘る宮沢の姿勢には、法実証主義とくに主権者命令説の影響を感じる。そのことと、天賦人権説との整合性は、当時、あまり問題にならなかったのだろうか?
主権論争。「天皇主権に包帯をする」尾高朝雄の「ノモス主権」は採用出来ない。しかし、「ソフィストこそ社会科学の父」という宮沢にも一定の警戒が必要だ。ソフィストこそ価値相対主義の父であり、天賦人権説や正義論と正面から対立する学問的系譜だからである。
3 戦後の日本憲法学
ケルゼンに戻る。「デモクラシーの本質と価値」最初の訳は昭和7年という。価値相対主義に基づく民主主義という理論は、戦前の日本では「到達すべき理想」だっただろう。問題は、ナチの反省を経た現代において、その段階を未だ脱し得ないことにある。
戦後の日本憲法学は植民地主義や侵略戦争を反省した時点から出発しただろうか。そこに多大な議論を持たざるを得ない。
初出2015年12月9日Twitter