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写真とコトノハ

写真というのは表面しか写らない。
例えば人を撮ったとして、写るのはその人の表面であって、間違ってもその人の「内面」的な何かが写るとか、そういう傲慢なことを思ってはいけない。
大体人の内面とか人間性とか、そんな複雑なものが写真一枚に表現できるなんて安直に考えている人は、結局その人の「内面」的なものを侮っているのである。
逆の立場に立ってみたら良い。自分が人に撮られるとする。ちゃんとそれがそこそこ僕っぽく写っていたとして、それでも「これが君だ」と断言されたら「あなたが決めることじゃない」と僕なら言い返す。
それはあるときある場所での僕のとある時間を表面的に捉えた一切片でしかない。
僕はもっと多面的で何十何百という顔を持っているし、そもそも、僕が自分で自分が何者なのかちっともわからないというのに、だ。

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写真は表面しか写らないが、それでもごくまれに、表面以外の「何か」を捉えている(ように見える)写真に出会うことがある。
僕は荒木経惟が撮った杉浦日向子の死の数ヶ月前の写真を世界最高のポートレートのひとつであると思っているのだが(スイッチ・パブリッシング『空事/写狂人日記2004年』所収)、もちろんその写真ですら、杉浦日向子の表面より深いところに到達しているように見えたとしても、やっぱり表面は表面なのである。

しかし優れた写真は表面だけを写しながらも、言葉には断定されないなにかの付加物をその表面周囲に漂わせて受け渡す。その「何か」を受け渡す運搬力の軽重が、その写真の度量というか魅力となるのだろうと思う。
言葉よりもっと重層的な、言語化すれば霧散してしまう、しかしある一定角度以内のブレの範囲で多くの人間が共有可能な「何か」を運搬できたとき、その写真は表面の複写を越えたものになる。
荒木経惟は杉浦日向子の「表面」を撮りながら、言葉ごときでは説明不可能な何かを「表面」という器に乗せて受け渡してくれた。それはもちろん「内面」などといった浅薄な嘘ではなく、しかも咽頭癌で若くして亡くなる直前の彼女の生の痕跡、というような「物語」ですらない。

受け取った側はそれを決して言語という小さな檻に囲ってはいけないのだ。ただただ、受け取るべきものを、受け取らなくてはいけない。この「ただ受取る」ということが、実はものすごく難しいことなのだけれど。

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以前中村浩之さんと二人展をした折にそういう話を二人でしていて、中村さんが「写真って、撮る人と撮られる人と観る人が、それぞれのコトノハ(言の葉=コトの端)を受け渡す場のことでは?」と言っていた。
言葉も「コトの端」を受け渡す道具であり、写真も「コトの端」を受け渡す器である。我々はいつもコトの端を受け渡しながら、受け取ったはしからそれを稚拙に言語化していってしまう。言葉に整理してしまう。言葉の檻から抜け出てみたくて、そう、受け取ったままの「コトの端」を感受したくて、僕は「言葉」の檻の隙間を探す。
天才アラーキーだけではなく凡庸な写真家である僕の上にさえ(残念ながらごくたまにでしかないのだが)、写真にまとわりつく「何か」が降りてくることがある。
降りてきたものは、言語に凝固してしまう前に誰かに受渡していかなければならない。それが撮る者の仕事だ。
写真とはそういう仕組の上に成り立っている、ということが、最近やっとわかってきた。

「この受け渡されていく何かって、結局何なんでしょね」との問いに中村さんは「愛(かな)しさ」だと答えた。うまいこと言うな、と思いつつ、やっぱりそれは「言葉」なのであって、それを正解だと言うわけにはいかない。僕は「叙情(仮)」でどうかな、と答えた。もちろんこれも、いくら「(仮)」などと茶化してみても、言葉は言葉だ。結局一歩たりとも近づけないのだ。

近づこうとすればするだけ実態が逃げる。写真ってそんなだね、と言いかけて、何も写真だけの話じゃないなと思い直す。身も蓋もないことを言うならば、言葉だって世界だって結局そうなのだ。色んなものが逃げていく。そういうものらしい。

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思うのですが、写真とは、何かの比喩なのです。何かの喩えとして写真はある。だけど、何の喩えなのかはわからない(笑)。
○○の喩え、として写真があるのに○○は何だ、と断言ができない。世界だ、と大上段に構えてみるのもいいでしょうし、生きるということの謎、と言ってみるのもいい。でも断言してしまうとやっぱり嘘っぽく聞こえる。
本当は○○の中に入る「言葉」はないんです。言語を代入した途端にそれは嘘になります。言語化される前の混沌とか情動のようなものを、言語化せずに受け渡していく手段として写真はあります。何かの喩えである、が、何の喩えであるか言ったら嘘になってしまう。そういうものを、言葉に依らずに伝える手段。まどろっこしいですが、そういうことなんじゃないかと思っているのです。

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(「アパートメント」2013.3 )

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