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あっぱれ!細川宣伝社 第3話

【第3話】

 年が明けた最初の日曜日。
 昼下がり、人影もまばらな近所の公園に、僕らはチンドンの練習に来ていた。ケンちゃんも一緒だ。
 フリーターのケンちゃんは、ウチから歩いて五分ほどのアパートで一人暮らし。年末年始はどこにも行かず、部屋で映画を見て過ごしたという。バンド経験者だけあって、普段は音楽関係のバイトをやっているらしい。
 ケンちゃんが細川宣伝社に加わったのは、去年のお盆過ぎだった。町内会の掲示板に貼り出した『チンドン楽士募集』のチラシを見て連絡してきた。
 楽士とは、サックスやクラリネットなど管楽器でメロディを奏でる演奏者のこと。近所のファミレスで五分ほど、カタチだけの面接をして、父さんはその場で結果を伝えた。もちろん合格。というのも、実は楽士に応募してきたのは、ケンちゃん一人だけ。貴重なチンドン志望者を、みすみす手放すわけにはいかなかったのだ。
 もちろん、経験者だけあって腕もいい。昭和歌謡からJポップ、演歌に洋楽なんでもござれ。チンドンの曲も、すぐにマスターしてしまった。
 マクドナルドのマックカード五千円分につられてゴロスをやりはじめた僕なんかとは、演奏に対する思い入れが根本から違う。月とスッポンほどの差があるだろう。言うまでもなく、僕がスッポンだ。
「じゃあ、始めようか」
 父さんの号令で、おのおの楽器を準備する。
 僕はいつものように首からゴロスをさげて、バチを持った。これまでは、右手にタンポの付いたバチだけだったけど、今日はそれを左手に持ち替え、右手にはスティックを握っている。先日、ジイちゃんの家から借りてきたものだ。
 さっそく、ケンちゃんが気づいてくれた。
「悠、両手でやってみるの?」
「うん。今年からは、気合入れて演奏しようかと」
「それ助かる。ビートに変化があると、オレのサックスももっと生きると思う」
 マウスピースをネックに差し込みながら、ケンちゃんが白い歯をこぼした。
 ゴロスは同じリズムで大丈夫。そう言ってくれていたけど、本当はビートにもバリエーションが欲しかったのだろう。僕が未熟だったせいで、妥協していたのかもしれない。
 父さんが、僕のスティックを指さした。
「少しは叩けるようになったのか?」
 両手で叩くことは、父さんには事前に伝えてある。
「ネット動画を見様見真似で、少しだけ。わからないところは、ケンちゃんに教えてもらうよ」
 とは言ったものの、実は九割方わかっていない。かろうじて理解できた一割は、超基本的な叩き方。最初が左手。タンポのバチで一発叩き、次に右手のドラムスティックで軽く二発。
 ドン・トト、ドン・トト、ドン・トト、ドン・トト……。それをひたすら繰り返す。
 スティックは、鉛筆を持つように親指と人差し指で軽く挟み、叩くときは手首のスナップをきかせるといいらしい。ネット動画に、そうあった。
 練習も頑張ったつもりだ。クッキーの空缶にタオルを二重にかぶせ、ひたすら叩いた。
「まぁ、とにかくやってみよう」
 父さんが「よっこらしょ」と、両肩から胸にたらした背負い紐に、チンドン太鼓をセットした。お腹の部分には、縦になった平太鼓。その上、利き手の右側にシンバルの役割を果たす鉦(しょう)。灰皿みたいな形が特徴だ。その鉦と背中合わせにくっついているのが締太鼓。
 鉦は、撞木(しゅもく)と呼ばれるバチで打つ。父さんが図書館で借りた本によれば、柄は竹で、頭の部分が鹿の角でできている。
 反対側の締太鼓は、ドラムスティックで叩く。僕のスティックの片割れだ。
「まずはタケスから」
 いつものように「せーの」という掛け声を待っていると、父さんがいきなりチンドン太鼓を叩き始めた。
 タン・タ・タ・タン、チン・タン・チン・タン、ドン、ド・ド・ドン。
 鉦と締太鼓を組み合わせた、初めて耳にする叩き方だ。
 呆気に取られていたケンちゃんが、少しして拍手した。
「親方、すごい。いまのチンドン始める合図っすよね」
「そう。打ち込みって言うんだ。やっぱり、出だしが肝心だから。それで、この打ち込みのあと悠太がゴロスを三回叩いて、ケン君のサックスにつなげる」
「てことは悠が打つのは、バンドのドラマーがやるカウントってことっすね。スティックを鳴らしながらワン、ツー、スリー、フォーみたいな」
「そんなところかな。三回叩くから、三つ打ちっていうらしい。悠太わかった?」
「わかった。三回叩けばいいんだね」バチを掲げて応える。
 その場で、ドーン、ドーン、ドーンとやってみた。なんだか間の抜けた音だ。
 ケンちゃんが、サックスを置いて近づいてきた。
「もう少し早いほうがいい。ちょっと貸してみな」とタンポのバチを僕から取り上げた。そして力強く、ドン、ドン、ドンと三発。低い音が、ゴロスを通じてお腹に響いた。
「三三七拍子で柏手するだろ。その最初の三回って感じかな」
 三三七拍子の最初の三回か。実際に柏手を打ってみる。なるほど、わかりやすい。
 ケンちゃんにバチを返してもらい、言われた通りゴロスを叩く。
 ドン、ドン、ドン!
「うん、それでイケるはず」ケンちゃんが親指と人差し指で丸を作った。
 父さんも大きく頷く。そして、軽く息を吐いてから打ち込みを始めた。
 タン・タ・タ・タン、チン・タン・チン・タン、ドン、ド・ド・ドン。
 よし、今度は僕だ。
 ドン、ドン、ドン!
 一拍あって、サックスの音。どこか懐かしい『タケス』のメロディが流れ出した。
 チンドン太鼓の打ち込み、からのゴロスの三つ打ち、からのサックスの演奏。三人の間で流れるように音が運ばれた。
 気持ちいい。爽快な気分だ。
 すると、サックスの音がピタリとやんだ。
「親方も悠も、演奏続けてくれなきゃ」
 ケンちゃんに指摘され、そこで気づいた。音がスムーズに運ばれた気持ち良さから、演奏の手を止めてしまっていたのだ。
 どうやら父さんも。自分の打ち込みに酔いしれていたらしい。
「悪い、悪い。初めての割になかなか上手くいったから、ついつい聞き入っちゃった。悠太も良かったぞ」
 父さんが笑いながら、チン・チンと鉦を鳴らした。
「悠のゴロスがバッチリのタイミングだったから、オレも入りやすかった」
 サックスのネックを撫でながら、ケンちゃんも嬉しそうだ。
 自分でも手応えがあった。目に見えない音の輪郭を、確かに捉えることができた。
「では、気を取り直して」
 父さんの打ち込みから僕の三つ打ち。そして、厚みのあるサックスの音で『タケス』が始まった。三小節目から父さんのチンドン太鼓と、僕のゴロスが加わる手はずだ。
 ケンちゃんのサックスを聴きながら、心の中で四拍子を二回……。
 いまだ!
 ドン・トト、ドン・トト、ドン・トト、ドン・トト……。
「左手・右右、左手・右右、左手・右右……」打ちながら口の中で唱える。ゴロスが演奏のベースになるんだ、間違えられない。
 ケンちゃんは、去年より明らかに腕を上げていた。奏でる音色が、緩やかでありながら軽快さをまとっている。そこに、僕と父さんの鳴り物が溶け込んでいく。
 まわりで、音符が躍っているようだ。どんどん気持ちが浮き立ってくる。無意識のうちに僕は足踏みをしていた。
 見れば、父さんとケンちゃんの体も揺れている。同じように足踏みをしていたのだ。
 バラバラだった音が一つになって、演奏者の心も一つになったということか。いや、たぶん反対だ。演奏者の心が一つになったから、音も一つになったのだ。
 このまま街を練り歩きたい気分。
「少し歩きながらやってみるぞ」
 僕の気持ちを見透かしたように、父さんが声を掛けてきた。それでもチンドン太鼓の演奏は乱れない。
 サックスを吹きながらケンちゃんが頷く。僕も首を縦に振る。
 テニスコート二面分ほどの公園をいつもの隊列で歩き出した。父さん、僕、ケンちゃんの順だ。
 父さんのうしろにつくと、チンドン太鼓の演奏がよく見えた。右手の撞木と、左手に持ったスティックが軽やかに動いている。鍵盤に指が躍るというのはよく聞くけれど、この場合「チンドン太鼓にバチが舞う」といったところか。
 遠くで凧揚げをしていた親子らしき二人連れが、こっちを見ていた。小学校の低学年と思しき子供が、僕らを指差している。「あれは何だ?」と、父親に聞いているのかもしれない。
 もっと見てほしい。もっと聴いてほしい。
 意識したのが悪かった。
 親子にチラリと目をやった途端、リズムが狂った。サックスのメロディラインから外れてしまったのだ。
 トト・ドン、トト・ドン、トト・ドン、トト・ドン……。
 一拍置いて、元に戻そうとしてもダメだった。左手のバチで叩く「ドン」のタイミングがつかめない。ドンを連続で叩けばいいだけなのに、どうしてもそれができない。長縄跳びに入れそうで入れない、あの感じだ。
 せっかくまとまってきたのに、ここで演奏を止めるわけにはいかないし。
「いち、にぃ、さん、しぃ、いち、にぃ、さん、しぃ」ケンちゃんのメロディに合わせ、心の中で四拍子を数えながらタイミングをはかる。
「ここだ!」ドン・トト、ドン・トト……叩き出してサックスのメロディに耳をそばだて、リズムを確認する。
 トト・ドン、トト・ドン……。
 ダメだ。さっきと変わらずズレたまま。
 うまい具合に入ったつもりだったのに、どうしてだろう。
 それでもケンちゃんは、『タケス』の演奏をやめなかった。父さんもだ。
 仕方なく僕は、一拍遅れてゴロスを叩き、結局、三分ほどの演奏が終わるまで、ズレた状態でリズムを刻み続けた。運動会の入場行進で、一人だけ手と足が同じタイミングで出ちゃっているみたいに。
 ケンちゃんも、やりにくかったに違いない。先に謝っておこう。
「ケンちゃん」呼びかけた僕の肩を、いきなりケンちゃんがポンポン叩いてきた。
「悠、ウラとってたな。難しいのに、よく習得できたよな」
 ウラ? ウラって、なんだ。しかも、それを習得した覚えもない。
 チンプンカンプンの僕をよそに、ケンちゃんが続ける。
「ウラビートだと、演奏がテンポアップするんだ。だから吹いてて気持ちよかった」
 ケンちゃんのテンションが高いことから、褒められているのはわかった。でも、ウラの意味がわからない。
 ポカーンとなっているであろう僕の顔を、ケンちゃんが眉を寄せて覗きこんできた。
「もしかして、たまたまウラをとれてただけで、やろうとしてやったわけじゃないとか?」
 僕は大きく頷いた。その通り、たまたまだ。
「アチャー」ケンちゃんが、広げた手を額に押し当てる。
 チンチンと、鉦を鳴らしながら父さんも会話に加わってきた。
「ケン君、俺も恥ずかしながら知らないんだ。そのウラってやつ。ただ、気のせいかもしれないけど、太鼓を叩きながら、悠太のゴロスに背中を押してもらったような気がしたんだよな。急かされる感じじゃなくて、盛り立てられるように」
「親方、まさにそれがウラのリズム。ウラビートっす」
 ベンチにサックスを置いたケンちゃんが、身振り手振りを交えて説明しだした。
「ウラをとるってのは、リズムをわざとズラすことなんすよ。例えば、普通のリズムの取り方が、パン・ウン、パン・ウン、パン・ウンだとします」
 ケンちゃんが、ゆっくりと手を打った。叩いて、休んで、叩いて、休んでのリズム。1年生のとき音楽で教わった覚えがある。たしかカスタネットかタンバリンの授業だった。
「ウラっていうのは、その反対。ウン・パン、ウン・パン、ウン・パン」
 今度は、休んで叩いて、休んで叩いてのリズム。さっきと一拍ズレている。
「正式には裏拍っていって、バンドではドラムの役目。ウラをとると、同じテンポでもリズミカルに聞こえるんすよね。ジャズなんかは、その最たるものです」
 サックスを手にしたケンちゃんが「有名なところだと、こんなのとか」と演奏を始めた。
 心が弾むような曲だった。どこかで聴いたことがある。
「シング・シング・シングだ」
 父さんが呟いた。
「悠太も前に聴いただろ。ディズニーランドでミッキーがドラム叩いてたやつ」
「ビッグバンドビート!」
 思わず叫んでしまった。正確にはディズニーシーだけど、確かにミッキーが演奏していた。
 ケンちゃんが楽しそうに吹くのを見ながら、父さんが「コレ好きなんだよな」と手拍子を始める。同じように僕も叩こうとしたけど、リズムが狂って上手くいかない。
 あれ? さっきと一緒だ。
 タイミングがあわずアタフタしている僕を見て、ケンちゃんがマウスピースから口を離して吹き出した。
「まだ、ウラビートの曲に慣れてないんだな」
 曲に慣れてないってことは、慣れてる曲なら僕にもできるということか。
 図らずも、それをケンちゃんが証明してくれた。
「キセキってわかる?」
「知ってる。GReeeeNの『二人寄り添って歩いて』ってやつでしょ」
 三年生のとき、合唱コンクールで発表した曲だ。気持ちよく歌った覚えがある。イヤというほど練習したので、リズムも歌詞も体に染みこんでいる。
「その曲、ウラビートだから。ちょっとリズムとってみな」
 首から下げたサックスを持ち直し、ケンちゃんがキセキを吹き始めた。少しテンポを落として、サビの手前から。
 口ずさみながら手拍子を始めたら、自分でも驚くほどすんなりとリズムがとれた。
「二人寄り・そって、歩い・て、永久の愛・をカタチ・に・して」
 ウン・パン、ウン・パン、ウン・パン、ウン・パンのリズム。そうか。合唱コンクールで気持ちよく歌えたのは、ウラビートの曲だったからなんだ。
「悠太、できたじゃないか。ウラとれてるぞ」
 いつの間にか、父さんも鼻歌まじりで手拍子をとっていた。メロディは知っているけど歌詞は知らないのだろう。
 演奏し終えたケンちゃんが「な、できただろ?」と微笑みかけてくる。
 僕は黙って頷いた。なんだか、ちょっと照れくさい。
「パパ驚いたぞ。バチが二刀流になっただけでも大進歩だったのに、まさかウラビートまでできるようになっていたとは」
 僕の頭をクシャクシャやってきた父さんは、僕が運動会のかけっこで一番になったときみたいに嬉しそうな顔をしていた。

 家では、母さんがご馳走を用意して待っていた。新生細川宣伝社の新年会だ。
 ダイニングテーブルの中央には、特大の桶に入った寿司がある。ちゃんとお寿司屋さんからとったやつ。その横には卓上ガスコンロ。
 テーブルに着いた途端、ケンちゃんが作り付けの棚を指差した。飾ってある額縁が目に入ったようだ。
「細川宣伝社の奥義ってなんすか」
「先代の寅吉さんがあみだしたチンドンの秘技みたいだけど、意味がわからなくて」
 父さんが、ケンちゃんのグラスにビールを注ぎながら答える。
「スズメが裏返ってひとっ翔び、か」モゴモゴと奥義を唱えていたケンちゃんが、いきなり膝を叩いた。
「二つ目のやつ、わかりました。声高く腰は低めのチドリ足。酔っ払いのように千鳥足で歩きながら、高い声で口上するんじゃないんすか?」
 父さんが人差し指を立てて「チッチッチッチ」と横に振った。なんだか変に芝居がかっている。
「残念ながら、そうじゃない。チンドン屋っていうのは、酔っ払いの真似はご法度なんだ。見ている人を不快にさせるからな」
 ジイちゃんに教わったことを、まるで自分が知っていたかのように口にした。「ジイちゃんの受け売りじゃないか」と喉元まで出かかったけど、グッとこらえて飲み込んだ。親方としての顔を立てるためだ。
 改めて奥義の意味を考えていると、母さんが土鍋を運んできた。
「熱いのが通るわよ。気を付けて」
 手にした鍋からモワモワと湯気がたっている。
「細川家特製、なんでも鍋」
「やった」嬉しさのあまり、ケンちゃんがいるのも忘れて声をあげてしまった。
 なんでも鍋とは、その名の通り、何でも入っている鍋だ。豚肉、手羽先、牛モツ、野菜、豆腐、油揚げ、餃子、ウインナー、餅、はんぺん、ウズラの卵、ちくわ、カニカマなどなど。シメにチキンラーメンを入れるのが、我が家の流儀となっている。
 ネーミングこそベタではあるが、味は絶品このうえない。いま初めて食べたケンちゃんも、早速「うまい」を連発している。箸が止まらないようだ。
「こんな旨い鍋食べられてホント幸せっす。豚も鶏も牛も入ってて、肉の三重奏っすね」
「そんなふうに喜んでもらえると嬉しいわ。ケン君いっぱい食べてね」
 母さんの料理が褒められると、僕もちょっと誇らしい。大好物のマグロの握りが、いつもより美味しく感じる。
 ひとしきり食べたあと、ケンちゃんが「あ、そうだ」とリュックから一枚の紙を取り出した。
「チンドンの曲を調べたら結構あったんで、レパートリーに加えたらどうかと思って」
 パソコンで打ってプリントアウトしたという紙を、父さんに手渡した。書き連なっているのが、曲のタイトルのようだ。
「うちらのレパートリー、タケスと美しき天然ぐらいじゃないですか。あとは懐メロばっかり。せっかくなら、もっとチンドンの曲を増やした方がいいと思うんすよ」
「確かに、そうだな。それにしても結構あるぞ。肝心の音源は手に入るのかな」
「大丈夫です。CD付きのチンドン屋の本がネットで売ってたんで、とりあえず買っておきました。定番の曲が収録されてるみたいっす。それさえ手に入れば、たぶんメロディは奏でられるんじゃないかな。明日辺り届くはずです」
「そっか。ケン君ありがとう。全部演奏できるようになったら、気持ちいいだろうな。チンドン太鼓、もっと練習しないとな」
 父さんの横で曲目を目で追っていた母さんも感心している。
「よく調べたわね。私も何曲か耳にしたことがある。それはそうと、ケン君は曲を聴いただけで譜面も見ないで吹けちゃうの?」
「えぇ。子供の頃からサックス習ってて、アニメの主題歌とか歌謡曲とか、一回聴いたら大概はできちゃいました。あと、コップを叩いた音なんかの音階もわかりますよ」
 ケンちゃんは「例えば」と、ビールの入ったコップを箸で叩いて音を聞き……「たぶん、レ」とやってみせた。入っている中身が多いほど、低い音になるという。
 母さんが目を丸くする。
「それって、絶対音感じゃない!」
「なんか、あるっぽいっす。小学校の先生にも言われました」
 途轍もなくスゴイ才能を、ケンちゃんがさらりと告白した。少しぐらい自慢してもいいのに、そんな素振りを見せないところが、ケンちゃんらしい。
 絶対音感という言葉を聞いた父さんが「これで鬼に金棒だ」とケンちゃんにビールを注いだ。
 テーブルに置かれたリストを見て、ふと気になったことがある。
「タケスが、入ってないようだけど」
 僕の問いかけに、ケンちゃんが曲名のひとつを指さした。『竹に雀』と書いてある。
「これが正式な曲名なんだ。竹に雀、略してタケス」
 知らなかった。初耳だ。
「パパは知ってたぞ。本に書いてあったからな」
「じゃ親方、これ知ってます?」
 指さしたのは『美しき天然』の文字。
「もちろん。ケン君も言ってたけど、うちらの数少ないレパートリーの一つ、美しき天然だろ」
「それが違ったんです。オレたちずっと、うつくしき天然って読んでたけど、チンドン屋の世界では『うるわしき天然』と読むのが一般的みたいっす」
「そうなの?」
 父さんと僕の声が、ピタリと重なった。何の疑いもなく、うつくしき天然と読んでいた。父さんの借りた本にも、読み方までは載っていなかったようだ。
 リストを手にした父さんが、確認するように曲名を一つずつ読み上げていく。
「うつくしき、じゃなくて、うるわしき天然、竹に雀、軍艦マーチ、野毛山、千鳥……」
 曲名を順に聞きながら、「あれ?」と思った。
 あの奥義って、もしかして……。
「花笠音頭、米洗い、四丁目、花と蝶」
 やっぱり、そうだ!
 父さんが最後まで読んだところで確信した。文字面では見えなかったものが、耳で聞いてクッキリと浮かび上がってきたのだ。
 僕は棚のところに行って、飾ってあった額縁を手に取った。奥義の書いてある額縁だ。
「奥義はやっぱり暗号だったよ。ホラ見て」
 テーブルの料理を押しのけてスペースを作り、額縁と曲目リストを並べた。
「四つとも、曲の名前が入ってるんだよ」
 父さんとケンちゃんが身を乗り出して、リストと額縁を見比べる。
「ホントだ!」
 今度は二人の声が重なった。母さんは、まだわかっていないようだ。
 僕が、ひとつずつ説明していく。
「『スズメが裏返ってひとっ翔び』。雀ってのは、竹に雀のこと。『声高く腰は低めのチドリ足』は千鳥。『うるわしきネズミの如し』のうるわしきは、美しき天然。『おやまいくたび四丁目』は、そのまま四丁目」
「わぁ! ホントだ」遅れて気づいた母さんが、胸の前でパチパチと手を叩く。
「悠太、すごいぞ」父さんが興奮気味に、僕の頭を若干強めにポンポンやってきた。
 盛り上がる親子を横目に、ケンちゃんだけは冷静だった。
「曲名が入ってるのはわかったけど、そうなると暗号文に隠されたメッセージを読み解かなくちゃいけないっすよね」
 奥義を見ながら「う~ん」と全員で頭を捻る。
 裏返ってひとっ翔び。雀がお腹を上にして翔んでいる様子が頭に浮かんだ。だけど、それをチンドン屋と、どう結びつけていいかわからない。
 裏返る。裏返る。裏を返す。裏に返す。裏にする。裏、裏、裏。あ、裏と言えば……。
 昼間のケンちゃんの言葉が、耳の奥で甦った。
 裏拍。
 確証はないものの、父さんとケンちゃんに伝えてみる。
「裏返って。っていうのは、リズムを裏にするってことじゃないの?」
 ケンちゃんが目を見開いた。
「なるほどウラビートか。だとしたら、ひとっ翔びは、どう解釈すればいいんだろう」
「ひとっ翔びは、イッキにって意味じゃないかな。裏拍でイッキに演奏する。昼間に裏拍で演奏したのも、タケスだったし。つまり、スズメが裏返ってひとっ翔びは、竹に雀を裏拍でイッキにやる」
「それだ!」父さんがポンと手を打った。
「ホラ、ケン君も感じただろ。偶然だけど、悠太がゴロスで裏をとったら演奏がリズミカルになったこと」
「そうっすね。テンポの良いタケスになってた。うん、そうかもしれない」
「論より証拠だ。今からここでやってみよう」
 父さんの提案で、タケスを急きょ演奏することになった。
 すぐさま、ガレージの収納庫からチンドン太鼓とゴロスを持ってきて準備する。練習帰りだったから、ケンちゃんもサックスを持参している。
 ケンちゃんの演奏がリビングに鳴り響いた。いつもの『タケス』だ。
 メロディに合わせてバチを振りおろすと、裏をとろうと意識したわけでもないのに、自然とウラビートを刻んでいた。合点がいった。そもそも『タケス』は、ウラビートのほうがシックリくる曲だったのだ。ズレていて良かったのだ。
『スズメが裏返ってひとっ翔び』は、これで間違いない。
 家の中に陽気なリズムが満ちていき、僕はやわらかな心地よさに包まれた。
 演奏しながら、僕らはやはり歩き出していた。父さん、僕、ケンちゃん。狭いリビングで隊列を組み、テーブルのまわりをグルグル回る。母さんも手拍子をしながら一番あとについていた。
 最高の気分だ。もっと上手くなれば、もっと気分もよくなるはずだ。
 だから、もっともっと練習しよう。純粋にそう思った。
 ひいお爺ちゃんの奥義は、どうやら人をやる気にさせる力も秘めているようだ。残された三つを解読できれば、いっそうやる気が出るに違いない。

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