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あっぱれ!細川宣伝社 第7話

【第7話】

 記念祭は二週間後に迫っていた。それなのに……。
 甘かった。僕は、ネズミ花火を甘く考えすぎていた。
 富山から戻った次の日、挑戦してみたけど全然できなかったのだ。ケンちゃんが撮影してくれた動画を見ても、まるでダメ。
 後ろ向きで歩きながら回転しようとすると、足がもつれて転んでしまう有様だ。膝小僧に擦り傷を作ったのなんて、いつぶりだろう。本番ではゴロスを叩きながらやらなければいけないというのに、それ以前の問題だ。
 思い通りに動けないのは、イメージがシッカリできていないからかもしれない。だったらイメージトレーニングを繰り返すのみ。イメトレの鬼と化すしかない。
「タ~タ、タララ、タ~ララ~、タララ、ラ~ララ~……」
食事中でも、授業中でも、トイレで用を足している最中でも、いつでもどこでも『美しき天然』を口ずさんだ。そして、イメージできたら実際にやってみる。
 それでもやっぱり、うまくできない。
 ただ、苦戦しながらも突破口となりそうなヒントを掴んでいた。長老の動きが何かに似ていると、気づいたのだ。けれど、その何かが思い出せない。
 記念祭まで、あと十日。
 下校中、『美しき天然』を口ずさんでいたら、背後から肩を叩かれた。
「六年生にもなって一人で鼻歌うたって歩くの、悠ちゃん、ちょっとイタいよ」
 沙奈だった。鼻歌を聴かれた恥ずかしさをごまかすために語気を強めて言い返す。
「うるさいな。チンドンのイメトレしてたんだよ」
「ふ~ん。イメトレね。私も前はよくやってたな。発表会が近づくと」
 バレエのことだろう。
「さすがに、外で鼻歌うたいながらやったりしないけど」
 やったりしないと言ったそばから、沙奈が鼻歌交じりにスキップを始めた。
「チャ~ラ、チャ~ラ、チャ~ラ、チャーラッチャ……」
 聴いたことのある曲だ。
「なんだっけ、その曲?」
 ピョコピョコ跳ねる赤いランドセルに問いかけると、沙奈が振り向いた。
「くるみ割り人形の花のワルツ。前に発表会でやったの見に来てくれたじゃん」
 ワルツという言葉で、ピンときた。
「わかった! それだ、それ!」
 メチャクチャでかい声が出てしまった。
 沙奈が顔をしかめる。
「曲名がわかっただけで、そんなにデカいリアクション?」
 違う。曲名がわかって興奮してるんじゃない。長老のネズミ花火が、何に似ているかわかったからだ。
 似ていたのは、沙奈のバレエ。前に発表会で見たクルクル回るダンスだ。
 ネズミ花火のヒントになるかもしれない。
 僕は、沙奈に向かって頭を下げていた。
「バレエでクルクル回るやつ、教えてほしい!」
「なんなのやぶから棒に」
「さっき鼻歌でやってた花のワルツだっけ? あれで回りたい。一生に一度のお願いだから、この通り!」
 まわりに学校の生徒が何人かいたけど、何度も何度も頭を下げた。お願い、お願い、お願い、と連呼しながら拝み倒す。
 人目を気にしたのは、沙奈のほうだった。
「わかった。お願いだから、もうやめて。教えるから、ね、ね、いいよね、それで」
「それでいい。いい、いい、いい!」
 約束を取り付けた僕は、エサにありついた犬のように小刻みに頷いた。尻尾があったらブルンブルン振り回していただろう。
 週末の土曜と日曜に教えてもらうことになった。

 土曜日。
 沙奈の個人レッスンは、チンドンを練習をしているいつもの公園で午後一時から。十五分前に着くと、もう沙奈が来ていた。ハーフパンツにロングTシャツという格好だ。
 まず、母さんから借りて持ってきたスマホで『美しき天然』を聴いてもらった。ネズミ花火の奥義についても説明しておく。
「てことは、この曲に合わせて、クルクル回りたいってわけね」
「そう。でも、それが難しくて。沙奈ちゃん先生、何卒お願いします」 
 大げさに頭を下げると、沙奈が吹き出した。沙奈ちゃん先生がツボに入ったようだ。
「回るだけなら、シェネで大丈夫かな」
「シェネ?」
「そう、シェネ。ターンの名前。片足を軸に半回転しながら横に移動していくの。まぁ、やってみるから見てて」
 そういうと、その場でターンの姿勢をとった。
 お腹の前で軽く手を組み、両足の爪先を百八十度に開く。その体勢でつま先立ちになった直後……いきなり高速で回り出し、十回ほどターンしたところでポーズを決めて、こっちを見た。
「こんな感じ」
 こんな感じと言われても、速すぎてわからない。
「もう少し、ゆっくりやってもらえると有り難いんだけど。あと、解説も」
「見ててって言ったのに、もう、しょうがないなぁ」
 ぶつくさ言って、僕のところまで戻ってくる。しょうがないと言いながら、だけど迷惑がってはなさそうだ。
「いい? 両足を開く間隔は、肩幅より少し狭いくらいで。つま先をできるだけ外側に向けて、つま先立ち。それで時計回りでターンしていくの」
 立っている右側に向かって、回りながら移動するというわけだ。
 説明は続く。
「アンで、右足を軸にクルリと回って後ろを向く。ドゥで、後ろを向いた状態から、今度は左足を軸にクルリと回って元の向き。トロワで、また右足を軸に後ろを向く。それの繰り返しね。わかった?」
「うん、なんとなく。その前にさ、アンとかドアとかトロって何?」
「アン、ドゥ、トロワ。フランス語でイチ、ニィ、サンて意味。花のワルツもそうだけど、バレエは三拍子の曲が多いの。だからリズムとるときは、大概、アン、ドゥ、トロワ。覚えといて」
 そんなことも知らないのかという顔をされてしまった。知っているはずないではないか、フランス語なんて。知っているフランス語といえば、せいぜいエッフェル塔ぐらい。いや、それも違う。塔が漢字だ。日本語だ。
 いろいろ思うところはあるけれど、教えてもらっている手前、口答えもできない。
「それじゃ、一緒にやってみよっか」
 正面に沙奈が歩み寄ってきた。その距離一メートル。こんなふうに至近距離で向き合ったのは久しぶりだ。沙奈の八歳の誕生日にプレゼントを渡したとき以来かもしれない。
 ただ、そのときと比べて違和感がある。原因はすぐにわかった。沙奈の上目遣いだ。去年まで沙奈のほうが背が高かったのに、いつの間にか追い越していたらしい。
 六年に進級して大人っぽくなったのに、背は僕より低い。それと正面から見つめ合う、このシチュエーション。なんだか気持ちが変なほうに向いてしまいそうだ。
「なにボケっとしてるの?」
 沙奈に肩をつつかれた。
 そうだ。余計なことを考えている暇はない。いまは、アン、ドゥ、トロワだ。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「まったく、もう。じゃあ、やるね。アンで右足を軸にクルっと回って、ドゥで左足を軸にクルン。トロワで右足でクルン」
 ラジオ体操で前に出る人みたいに、沙奈は左右反対に動いてくれた。
 向き合った状態から半回転を三回したので、背中合わせになっているはず。それが、振り向いても沙奈はいない。すると「どこ行ってんのよ」と全然違う方向から声が飛んできた。
「回転が足りてなくて、バランスも取れてないから違うとこに行っちゃうのよ。ターンするときは、左腕を振ると回りやすいから、やってみて」
「左腕を振り子にするってわけか。でも、ちゃんと真横に移動できるかな」
「そしたら、ガイドライン引いておくから」
 沙奈が落ちていた枝を拾って、地面に十メートルほどの線を引いた。バレエ教室では、床にガムテープを貼ってやるらしい。
「この線からずれないように、意識しながらターンしてみて」
 改めて沙奈と向き合う。
 時計でいうと、線は九時から三時に引いてあり、僕はいま十二時のほうを向いて立っている。そこから三時のほうにグルグル回りながら進んでいくのだ。
 言われた通り線を意識してやってみた。
 左腕を振り子のようにして勢いをつけながら、アン、ドゥ、トロワ。
 今度はちゃんと背中合わせだ。しかも線の上に立っている。横に真っすぐ移動できた。左腕を大きく振ったのが良かったようだ。
 今度は二回続けて。
 六回ターンしたら、正面に沙奈がいた。バッチリだ。線からもズレてない。
「できたじゃん。そしたら、あとはひたすら同じようにクルクル回ればいいから」
 沙奈の教えを噛みしめながら、何度もターンしていく。
 回転歩きがネズミ花火のカタチに近づくにつれ、沙奈の指導も徐々に熱を帯びてきた。手を叩いてリズムを取りながら「アン、ドゥ、トロワ」を大声で繰り返す。
 僕への言葉も、どんどんキツくなっていく。
「体重、踵にかけない! 体はつま先で支える!」
「お尻キュッとしめて、頭は真上に引っ張られてる感じで!」
「だから、顔は進む方! 顔ごと向ける!」
「遅い! 足の幅を狭くして、もっと早くターンして!」
「バランス崩したら、すかさずつま先に体重移動!」
 公園にいる人たちが、何事かとチラチラこっちの様子を窺っている。でも、恥ずかしいなんて言ってられない。記念祭までに、ネズミ花火をマスターしなければならないのだ。
 まだ四月で気候も穏やかなのに、とめどなく汗が噴き出てくる。トレーナーを脱いでTシャツになっても、一向に汗が引かない。それだけ動いているということだ。
 教えているうちに、沙奈のギアがもう一段上がってしまったらしい。いつの間にか僕の背中にピタリとくっつき、後ろから両手を掴んで指導してきた。まさに手取り足取りだ。
 ただ、それはそれで迷惑だった。自分の背中に沙奈の体が触れていると思ったら、もうターンどころではない。アン、ドゥ、トロワのリズムもどこかへ飛んでいき、回転するたびに足がもつれてしまう。
「全然ダメじゃん! 真剣にやってよ」
 ダメにさせているのは、あなたです。……なんて言えるはずもなく、ゴメンと謝っておく。そんな調子で、一日目のレッスンは三時間続いた。
 もう、クタクタだ。

 翌日のネズミ花火のレッスンは、さらに厳しくなった。おかげでだいぶ上達したけど、今更ながら気づいてしまったことがある。結構、深刻な問題だ。
 ネズミ花火は、後ろ向きの体勢から回り始めなければいけないのだ。
 まず、九時のほうを向いて、三時方向に後ろ向きで歩く。そこから「アン、ドゥ、トロワ」を始めるには、その最中、どこかのタイミングで体を十二時に向けなくてはならない。で、十二時に向いたら、そこから三時のほうへ横にクルクル移動していくというわけだ。
「このままだとヤバイ。どうしたらいいだろう」
 真剣にたずねた僕に、沙奈はあっけらかんと言い放った。
「簡単じゃん。アン、ドゥ、トロワの直前に横向けばいいだけ。例えば、後ろ向きで歩きながら、回転を始めるタイミングを計るでしょ。アン、ドゥ、トロワ、アン、ドゥ、トロワで。直前のトロワで右を向いたら、いいんじゃない?」
 沙奈がやってみせてくれた。三時に向かってバックで歩きながら「アン、ドゥ、トロワ」のトロワで、体をヒョイと捻って十二時を向き、そこからターンし始めた。完璧だ。幼い頃から積み重ねてきたバレエの経験は、ダテじゃない。
 僕も真似してみた。足を開いて爪先立ち、後ろ向きで歩きながら「アン、ドゥ、トロワ、アン、ドゥ、トロワ……」とタイミングを計る。
 ここだという「トロワ」で体をヒョイと捻ったら、意外や意外あっさりできてしまった。
「あ、できちゃった」とビックリしている僕を見て、「でしょ~」と沙奈は満足げだ。
 しかし、肝心なのは、身に着けたターンが『美しき天然』のメロディに合うかどうか。これはもう、やってみないことには始まらない。
 母さんのスマホで『美しき天然』を再生する。流れ出したメロディに合わせて回ってみると、一回目でバッチリはまった。
 嬉しくて、何度も何度もターンした。回りながら口の中で呟く「アン、ドゥ、トロワ」も、メロディにすんなり溶け込んでいる。
「アン、ドゥ、トロワ、アン、ドゥ、トロワ……」おまじないのように唱えながら、ここで世紀の大発見!
「あーーー!」
 驚きが、お腹の底から飛び出した。沙奈が両手で耳を塞いだほどだ。
「やだ、うるさい、なに、突然」
 片言の日本語のような質問に、つられて僕も片言の返事になってしまう。
「リズム、同じ、ワルツ、三拍子」
 沙奈が、大きな目をパチクリさせた。
「いまさら?」
 今度は僕が目をパチクリさせる番だった。いまさらとは、どういうことだ。
 沙奈が呆れ顔になっている。
「美しき天然がワルツだから、同じ三拍子の花のワルツでネズミ花火を習得しようとしたんじゃないの?」
 沙奈の問いかけに、首を横に振る。
『美しき天然』がワルツというのは、長老から聞いて知っていた。でも、それが三拍子というのは、いま知ったばかり。初耳だ。
 どうやらワルツというのは、全部三拍子らしい。バッチリはまるに決まってる。
 呆れ果てたのか、沙奈が笑いだした。
「それ知らないでバレエの曲で回ろうって発想は、ある意味、逆にスゴイ。神がかってる。悠ちゃん、面白き天然だね」
 軽くディスられてるような気もしないではないけど、面白き天然とはよく言ったものだ。沙奈はギャグのセンスもあるようだ。
 でも僕は、それ以上に音楽のセンスに感心していた。きのうの練習前に一回聴いただけで、『美しき天然』をワルツと判別していたのだから。
「沙奈は、恐ろしき天才だな」
「・・・」
 ちっともウケなかった。僕には、音楽の才能もなければギャグのセンスもないらしい。
 そのあと時間の許す限り復習し、沙奈のお墨付きをもらってレッスンは終了した。
「良かったじゃん、ネズミ花火うまくできそうで。記念祭見に行くから、ちゃんと成功させてよね。失敗なんかしたら許さないから。もし失敗したら、あたしまで悔しくなって泣いちゃうかも」
 目を合わせず早口で言った沙奈は、「じゃあね」と胸の前で小さく手を振り帰っていった。
 遠ざかる肩の上で髪の毛が弾んでいた。気持ちが浮き立っているように。
 それにしても二日間僕をしごき倒した人が、最後の最後で「失敗したら、あたしまで悔しくなって泣いちゃうかも」とは……。思い出したら体中が脈打ってきた。
 まさか、これがツンデレというやつか。だとしたら、恐ろしい破壊力だ。

 西中の記念祭は、模擬店も出るほど大きな催しだった。教室で学校の歩みを紹介したり、卒業生のビデオメッセージを流したり。プログラムには、在校生の演劇や合唱も組み込まれていた。
 僕らをはじめとする地元グループのパフォーマンスは、昼過ぎから体育館で予定されている。在校生の出し物の合間に行うことになっていた。
 それが、だ。出番の一時間前、学校の運営委員から突然の変更を告げられた。予想を大幅に上回る観客が押し寄せたため、パフォーマンスを急きょグラウンドでやってほしいというのだ。
 聞かされた途端、父さんが青ざめた。
「大丈夫かな。さっき外の様子みたら、ものすごい人だったぞ」
 尻込みする父さんとは対照的に、僕は俄然やる気がわいてきた。そんな状況でチンドンを披露できる機会なんて、そうそうないからだ。
 黄色い半纏の裾を、両手でピッと下に引っ張り気合を入れた。早起きして近所の神社に成功祈願もしてきたし、心の準備も万端だった。
 見上げれば、雲ひとつない青空。うららかという言葉がピッタリはまるチンドン日和だ。
 実は今日、ネズミ花火の他に、もうひとつ新たなパフォーマンスを試そうとしていた。そのことは、父さんとケンちゃんにも、まだ伝えていない。
 グラウンドの中央では、ダンス部OBによるダンスパフォーマンスが披露されていた。招待された地元グループの持ち時間は、一組十分。次が、僕らの番だ。
 隅っこで出番を待っていると、ケンちゃんが「あーっ!!」と口を大きく開いた。
「親方、大変すよ。チンドンの演奏、グラウンドのドコでやるか、まだ決めてない!」
 確かに。もともと体育館でやる予定だったのがグラウンドになったのだ。場所が変われば、当然パフォーマンスのやり方も変わってくる。どこで、どのようにチンドンを見せたらいいか。僕らは考えるのをすっかり忘れていた。
「ケン君、よく気づいてくれた。で、どうしたらいい?」
「いや、気づいただけで、なんも考えてないっすよ」
 いつも冷静なケンちゃんが、珍しく焦っている。
 ダンスと異なり、チンドンは演奏とパフォーマンス両方を楽しんでもらうもの。広いグラウンドの中央でやっても、スピーカーがないので演奏は隅々まで届かない。本当にどうしたらいいだろう。
 そのとき、グラウンドに響いていたダンスミュージックが「ジャンッ」という音と共に止まった。パフォーマンスが終わったようだ。
 場内アナウンスが流れる。
「ウェストセンターダンスチームの皆さん、ありがとうございました」
 ダンスチームが、そそくさと引き上げていく。
 アナウンスは待ってくれない。
『続いては、第15期生、細川寅吉さんが始めたチンドン屋、細川宣伝社の皆さんです』
 父さんは、拳を額に当ててピクリとも動かない。ケンちゃんも、腕組みをして目を瞑ったままだ。焦れば焦るほどアイデアは出てこない。
『残念ながら寅吉さんは、去年の春、九十六歳でお亡くなりになりました。現在は、やはり西中の卒業生である孫娘さんのご主人が、跡を継いでいらっしゃいます』
 もう、迷っている暇はない。こういうときはシンプルに考えよう。
 チンドン屋とは、なんだ。人と触れ合いながら宣伝する仕事だ。
 だとしたら、そのままやればいい。
「グラウンドを取り囲んでいる人たちの前を練り歩こうよ」
 僕の提案に、ケンちゃんがすぐに反応した。
「客の前を歩いてグラウンドを一周するってことか。親方、それで行きましょう」
「よし。ゆっくり一周したあと、グラウンド中央に行って俺の口上で締める。いいな?」
 父さんがズバっと言った。なんだかカッコいい。
 もちろん異論はない。
『それでは、細川宣伝社の皆様、宜しくお願いします』
 運営委員のアナウンスで、僕らは一歩を踏み出した。いつものように、父さん、僕、ケンちゃんの順だ。
 歩きながら父さんが小刻みに撞木を動かす。でも、音は出ていない。実は叩くふりだけで、わざと音を出していないのだ。ザワついている観衆に耳を傾けさせるテクニック。
 次第にザワめきが消えていき、グラウンドが水を打ったように静まり返った。
 さぁ、いまだ!
 タン・タ・タ・タン、チン・タン・チン・タン、ドン、ド・ド・ドン。
 父さんの打ち込みが鳴り響き、続いて僕の三つ打ちだ。
 ドン、ドン、ドン!
 そこからケンちゃんの演奏。サックスが奏でたメロディは『オトナブルー』だ。
 サックス、チンドン太鼓、ゴロス。三つが混然一体となった演奏は、原曲とはだいぶ異なる曲調になる。親戚の結婚式でかかっていた洋楽のお琴バージョンみたいな感じだ。
 隊列を組んだ僕らを、宙に浮いた音符が取り囲む。花畑を飛ぶ蜜蜂のように、音符がリズミカルに上下している。
 音に包まれた。
 ゴロスを叩くスティックとバチがいつもより軽く、体の一部になったみたいだ。
 継ぎ目なく二曲目に入る。今度もJポップで、父さんが車でよく聞いている『Get Wild』。僕が生まれるより、ずっと前に流行った曲らしい。サビの直前から演奏すると、すぐさま拍手が沸き起こった。
 サックス奏者にとって、テンポの速い曲が続くのはしんどいはず。それでも、ケンちゃんの音は乱れない。顔色ひとつ変わっていない。
 三曲目からは、チンドンの定番メドレー。『タケス』、『千鳥』、『美しき天然』へとつないでいく。
 演奏しながら観衆の顔がシッカリ確認できた。
 タケスで目を潤ませる人……。
 千鳥を聞きながら足でリズムをとる人……。
 父さんのチンドン太鼓の鉦の連打で、メドレー最後の曲『美しき天然』の演奏に突入した。曲の中で行うねずみ花火に気をとられ、演奏が疎かになるのは、以ての外。いつも以上に気を引き締めてゴロスを叩く。
「ドン・トト・ドン、ドン・トト・ドン……」アン・ドゥ・トロワの三拍子だ。
 いよいよ、僕の見せ場がやってきた。父さんを先頭に、グラウンドの中央に進んでいく。
 四小節が過ぎたところで、クルリと後ろ向きになった。そのまま後ろ歩きで、ゴロスを叩き続ける。肝心なのは、ここからだ。「アン、ドゥ、トロワ」と唱えながら、目の前にいるケンちゃんの演奏を聴いてタイミングを計る。
『うるわしきネズミの如し』。よし、次でいこう。
「アン、ドゥ、トロワ!」最後のトロワで体を捻って横向きになった。九時から十二時の方向だ。
 そこから、「アン」で右足を軸に百八十度ターン、「ドゥ」で左足を軸に、「トロワ」で右足を軸にクルリと回っていく。
 いい調子。演奏ともバッチリ合ってる。
 黄色い半纏の裾が遠心力で広がっているのも、ネズミ花火っぽくていい。ターンが十回を超えた。完璧だ。
 会場は、割れんばかりの拍手と歓声。だけど、これで終わりではない。
 ネズミ花火を披露したあと、僕は再び後ろ向きで歩き始めた。向かい合うケンちゃんが怪訝そうにしているけれど、もちろん説明している暇はない。
 すかさず次のパフォーマンスに突入した。
 メロディに合わせタンポのバチを空に突き上げ、新体操の選手がバトンを操るみたいにクルクル回す。一回、二回、三回、と。
 さっきより、一段と大きな拍手と歓声が沸き起こった。でも、まだ先がある。
 父さんにもケンちゃんにも黙っていた大技だ。
 バチを頭上にポーンと放り投げ、落ちてくるのを片手でキャッチ。そこからもう一度、頭の上で、一回、二回、三回とバチを回した。
 今度は、地鳴りのような歓声だ。ピューという指笛まで聞こえてくる。
 長老が「今はもうやる人がいない」と言っていたハッタリだ。大きいアクションで見せる派手なワザはないかと考え、密かに特訓したのだ。
 何も知らなかったケンちゃんは、面食らった表情をしたあと「やるじゃん」と口だけ動かし褒めてくれた。
 演奏の終盤、再びネズミ花火を披露した。しかし、十回目のターンに差し掛かったところで、しくじってしまう。足がもつれてしまったのだ。さっきのネズミ花火で、膝にかなりの負担がかかっていたらしい。
 体勢を崩し、体がふらついた。周囲の景色がスローモーションのように歪んで見える。
 ダメだ! ひっくり返っちゃう。
 目を瞑ろうとしたときだった。鋭い声が飛んできた。
「ツマサキっ!」
 聞こえたのと同時に、踵にかかっていた体重を慌ててつま先に戻す。すんでのところで体勢を立て直すことができた。
 声のしたほうに目をやると、観衆の隙間に沙奈がいた。胸の前で手を組んで、大きな目を見開いている。視線が合うと、ホッとしたような顔になった。その間、一秒とかかっていないだろう。
 そこからは、通常通り前を向いての演奏に切り替えた。そして、グラウンドの真ん中に辿り着いたところで、演奏を締める。曲の配分もピッタリだった。
『美しき天然』の余韻に浸る間もなく、父さんの口上だ。創立百周年の祝辞を述べたあと、観衆に呼びかけた。
「それでは最後に、一曲だけお付き合い下さい。学校の益々の繁栄を願い、西中校歌をやらせていただきます」
 これは、僕のアイデアだった。演奏曲を決めるときに提案したのだ。せっかくの百周年記念、どうせなら訪れた人の心に残るパフォーマンスをやりたかった。それには誰もが知っている曲がいい。そこで思いついたのが、校歌だった。
 ケンちゃんのサックスで前奏が始まった。歌いだしのところから僕らの鳴り物が加わり、西中の校歌を奏でながら退場していく。
 すると、どこからともなく歌声が聞こえてきた。
 その声が幾重にもなっていく。どんどん重なる、声、声、声。
 チンドンの演奏に合わせ、その場にいた人たちが西中校歌を歌い出したのだ。気づけば大合唱になっていた。
 集まった卒業生には、それぞれ西中の思い出がある。校歌を斉唱しながら、ひとりひとり大切な思い出が顔を出しているに違いない。彼らの笑顔から、それがわかる。
 たくさんの西中の思い出が、大合唱となって空高くあがっていく。
 天国のひいお爺ちゃんにも、きっと届いているはずだ。

 帰り支度を終えて車に乗ろうとしたとき、沙奈が駆け寄ってきた。
「お疲れさま。ネズミ花火、成功して良かったね」
「うん、ありがとう」
 父さんとケンちゃんが車の中にいる手前、必要以上に親しくするのもなんだか気が引け、素っ気ない態度をとってしまう。
 そもそも、顔を見るのが照れくさい。というのも、普段ズボンばかりの沙奈が、デニムのスカートを履いているのだ。恥ずかしさから、僕の視線は自分の靴の先にある。
「頭の上でバチを回すやつ、すっごいカッコよかった」
 カッコよかった。女子にそんなふうに言われたのは、生まれて初めてだ。余計に靴の先から視線を外せなくなった。
「最後は見ているこっちも緊張しちゃったよ、コケそうになるし。めちゃくちゃ焦ったんだから、もう!」
 頬を膨らませながら、二の腕を叩いてくる。
「痛いよ」と僕が顔をあげると、沙奈が小首をかしげて覗きこんできた。
「あたしがツマサキって叫んだの、わかった?」
「うん」
 頷くのが、やっとだった。視線はやはり合わせられない。
「でも、悠ちゃん楽しそうだった。あたしも今度、悠ちゃんと一緒にチンドン屋やってみたいな」
 一緒に、という言葉にドキリとした。心臓が早鐘を打つ。
 僕の動揺をよそに「それじゃ、また学校で」と、沙奈は小走りで行ってしまった。結局、最後まで目を合わせられないままだった。
 沙奈の後ろ姿が見えなくなってから後部座席に乗り込むと、助手席のケンちゃんがニヤニヤしながら振り向いてきた。
「オレらの出番から一時間以上たってるよな。その間、あの子ずっと待ってたってことだろ?」
 そうかもしれない。ということは、僕に会うために一時間も待っていてくれたってこと? 申し訳なさと後悔で、胸がいっぱいになった。その片隅には、かすかに甘酸っぱい感情も芽生えていた。

 夕方、近所の神社に一人で足を運んだ。受験生に評判の、あの神社だ。
 本殿で手を合わせる。
「おかげさまで上手くいきました。ありがとうございます」
 期待した以上のご利益を授けてもらったお礼参りだ。
 実は今朝、ゼッタイ落ちないという油性マジックで絵馬に願いごとを書いて、願掛けしておいたのだ。本番で上に投げたバチが落ちませんように、と。
 その絵馬にもお礼をしておこうと思い、絵馬を掛けた掛所に向かう。そこで、ひときわ目立つ絵馬を見つけた。朝は気づかなかったけど、たくさんの絵馬の中に逆さに掛かったものがある。
 掛け間違えた? 見るとはなしに目に入った願い事を読んで、そうでないことがわかった。
『自分以外の受験生が落ちますように』
 つまり「落ちない絵馬」を逆さにして、反対の意味の「落ちる絵馬」にしているのだ。
 それを見たら、いたずら心が顔を出した。社務所でマジックと絵馬をワンセット購入し、願い事を書き込んだ。
「アイツが地獄に落ちますように」
 アイツとは純也のことだ。
 神社の人に見つからないように絵馬を素早く逆さに掛けて、僕はそそくさとその場を立ち去った。

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